武術書に「病をさること」を見る 2006/04/14

ここ数日、同じ文章を繰り返し読んでいます。
古語辞典や漢和辞典、広辞苑等を引きつつ、繰り返し、繰り返し。
同じ日本語なので、ニュアンスは体感として何となく伝わるのですが。
それを表現しようとすると、やはりある程度思考で定義づけしていかなくてはならず。
そうする過程で、もわんとしていたものが徐々にだけれど明瞭になったりもし。
ん〜。
楽しいですね。(^^)

読んでいるのは、ほんの四つくらいの段落。
柳生宗矩さんの「兵法家伝書」の三段と、甲野善紀さんが紹介している「願立剣術物語」の一段。
いずれも「病」「病気」に関する文章。
生死に望む術を解説する剣術の秘伝書が、いかに「病」を捉えているか。
そこには、既に技法やメソッドを超えた、日常座臥における「病を去った在り方」が示されている、と思います。
日本的秘伝は、技術論や論理をものともせずに、あっさりと日常化、現実化させてしまうところが特徴なのかも、と、門外漢は勝手に思い込んでみたりします。
なので、逆に。
その辺にぽろぽろとスンゴイ事が転がっていそうな予感。

あぁ。
「あっさりと日常化、現実化」と書いてみたら。
鍋島藩の「葉隠」を思い出してしまったですが。
ま、いいか。

ともあれ。
江戸時代の「思ふ」「念」という単語を、も少し整理して理解したい。
古語辞典や漢和辞典、広辞苑にはあたったので。
今度は江戸時代の国語辞典「俚言集覧」を調べてみよかと思っているところ。
「思い」「念」「考え」「病」などという言葉をどのように説明いるんだろか。
ていうか、それらの項目があればいいんだけど。


「病」「病気」という言葉 2006/04/15

「俚言集覧」(「諺苑」を基礎に江戸時代の方言・俗語・俗諺を集めた国語辞典ようなもの。)を調べていたら少しだけ記述が。
デジタルデータ→近代デジタルライブラリー

  • 「やまひ」
    • 病足に腫足〔和歌民のかまと〕   病足にハレ足〔爾雅釋訓〕
    • 病なをりて醫(くすし)忘る
    • 疾に主なし
    • 疾の入れ物はからだ
    • 病の生ずる多くは暑中に在り
    • 疾は口から入り、禍は口から出ず〔萬葉集五〕山上憶良
    • 疾は身のほうけ〔世話盡〕○病ホウケ
    • 疾て醫をしる〔左傳〕
    • 病身より見る目〔毛吹草〕病目よりみる目
    • 病目に茶を塗たやうなひより〔和歌民のかまと〕病目に茶を、塗りもせすくもりかちなるそら色はなかめかちなる宇治の山道
    • 病目につき目


「病足にハレ足」は、「弱り目に祟目」や「泣っ面に蜂」的な言葉なのでしょうか。

ところで「病目に茶を塗ったような日和り」って、どんな日和り?
その下の歌を適当に書き直すと。
「病目に茶を塗りもせず、曇りがちなる空色は、眺めがちなる宇治の山道」。
病目に茶を塗ってもいないのに曇りっぽい空色は……、て感じなのかしら。
てことは、「病目に茶を塗ったような日和り」って、曇ったくすんだ日和り、みたいなことか。

と、「病」という言葉を調べようと思った本来の目的から離れてしまったけれど。
面白いので、メモとして残しておくことに。

でも、ひとつ収穫。
「病気」という項目があり、これはちょっと本来の目的にかすっているかもです。

  • 「びやうき」
    • 病気〔色道大鑑態藝門〕病氣偶人より出たる詞也病人の事に非ず、心にかかる事有て胸の落付かぬ貌(かたち)を云
      (「偶人」とは「木や土で作った人形。でく。ひとがた。」。)

  • 「病気とは人形から出た言葉で、病人のことではない」。

もともとは人形に使った言葉だとして、人形のどんなことを指して病気といったのでしょう。
興味津々ながら、辞書類を見てもわからず、残念。

  • 「病気とは、心懸かりなことがあり胸の落ち着かないかたち、様をいう。」

これは、今読んでいる武術書の「病気」につながる意味なので納得。

  • 病気とは、心懸かり、こだわり、執着。
  • また、無意識下に抑圧され開放されない、恐怖や怒りといった偏った感情、筋骨の滞り。


こう書くと、まるでニューエイジやセラピー、ボディーワークの話みたいです。


武術書に見る「病を去ること」1 2006/04/16

  • 「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より
    (読みやすくするために、ひらがなを漢字に、また漢字をひらがなに代えた箇所あり)
    • 勝たんと一筋に思ふも病なり。
      兵法使はむと一筋に思ふも病なり。
      習ひのたけを出さんと一筋に思ふも病、掛からんと一筋に思ふも病なり。
      待たんとばかり思ふも病なり。
      病を去らんと一筋に、思ひ固まりたるも病なり。
      何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。
      この様々の病、みな心にあるなれば、これらの病を去って心を調うる事なり。

「何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。」
こだわり、執着、思い込みを病だとし、これらの病、滞りを去ることが心を調え、融通無碍な働きをする為の基礎だと言っているようです。
これらの心の滞りは言葉にすると単純ですが、その実は奥深い根が縦横に張り巡らされていて、去ることは容易ではありません。
何しろ、心の病や滞りから去るには、自分の中にどのような病や滞りがあるのか実感として知らなくていけないのですから。

関係なさそうですが、以下は季節に応じた過ごし方を述べた、東洋医学の古典「素問」四気調神大論篇です。
個人的にとても気に入っている篇です。




  • 春三月, 此謂發陳, 天地倶生, 萬物以榮, 夜臥早起, 廣歩於庭, 被髮緩形, 以使志生, 生而勿殺, 予而勿奪, 賞而勿罰, 此春氣之應養生之道也. 逆之則傷肝, 夏為寒變, 奉長者少.


武術書に見る「病を去ること」・春の過ごし方


  • 春の三ヶ月間を発陳といいます。
    (発陳:古いものから新たな生命が芽生える様)
    天地が新たに生じ、万物が栄える時です。
    夜は暗くなると共に寝、朝は早めに起きましょう。
    庭をくつろいで歩き、髪をきつく結んだりはせず、衣服もゆったりとしたものを着たいものです。
    心の内から自然に意欲が生じる時です。
    諦めたり抑圧したり無視せずに、暖かく見守り育むようにしましょう。
    これが春気に応じて生を育む道です。
    これに逆らえば肝を傷付け、夏には冷えを招き夏気の恩恵を受け難くなってしまいます。


  • 夏三月, 此謂蕃秀, 天地氣交, 萬物華實, 夜臥早起, 無厭於日, 使志無怒, 使華英成秀, 使氣得泄, 若所愛在外, 此夏氣之應養長之道也. 逆之則傷心, 秋為痎瘧, 奉收者少, 冬至重病.


武術書に見る「病を去ること」・夏の過ごし方


  • 夏の三ヶ月を蕃秀といいます。
    (蕃秀:春に生じた陽気が溢れるように成長する様)
    天地の気が交わり、万物は華開き充実する時です。
    夜は暗くなると共に寝、朝は日の光を嫌わず日の出と共に起きましょう。
    気持ちは伸び伸びと拡がるように開放的になっています。
    華開くような気持ちや想いを押さえ込むと、その蓄積は爆発するような圧力(怒りなど)を生じさせてしまいます。
    涼やかに発散的開放的に過ごしましょう。
    もし外界に向かって気持ちが開かれ心惹かれるようであれば、これが夏気に応じた成長を育む道です。
    これに逆らえば心(臓)が傷付き、秋に痎瘧(マラリアの一種)となったりエネルギーが収養するのを妨げることとなり、冬に至って病気が重くなります。


  • 秋三月, 此謂容平, 天氣以急, 地氣以明, 早臥早起, 與鶏倶興, 使志安寧, 以緩秋刑, 收斂神氣, 使秋氣平, 無外其志, 使肺氣清, 此秋氣之應養收之道也, 逆之則傷肺, 冬為喰泄, 奉藏者少.

武術書に見る「病を去ること」・秋の過ごし方


  • 秋の三ヶ月を容平といいます。
    (容平:おだやかにおさめる様)
    天の気は勢い強く、地の気は清らかに鮮明です。
    日暮れと共に寝、朝は日の出のニワトリの声と共に起きましょう。
    秋の収斂するエネルギーは、頑固さやこだわり、後悔や反省する気持ちを促す傾向もあります。
    紅葉を眺めながら澄んだ空気を味わうように、引き締まる気持ちや収斂する秋気を味わいながら過ごしましょう。
    外界の変化に過度に囚われないようにし、肺の気が清らかであるように過ごせれば、これが秋気に応じた養収の道です。
    これに逆らえば肺が傷付き、冬に食物の陽気が漏れて下痢をしたり、内に陽気を保つことが難しくなります。


  • 冬三月, 此謂閉藏, 水冰地斥, 無擾乎陽, 早臥晩起, 必待日光, 使志若伏若匿, 若有私意, 若已有得, 去寒就温, 無泄皮膚使氣亟奪, 此冬氣之應養藏之道也. 逆之則傷腎, 春為痿厥, 奉生者少.

武術書に見る「病を去ること」・冬の過ごし方


  • 冬の三ヶ月を閉蔵といいます。
    (閉蔵:陽気を伏蔵している様)
    水は凍り大地は凍裂し、万物はみなその門を閉ざし陽気を内側深く胎養しています。
    胎養している陽気を煩わせることがないよう、夜は早くから布団に入り朝はゆったりと遅めに起き、出来るだけ日光と共に生活するようにしましょう。
    あたかも秘めたものを隠すような静かな気持ちで想いを温め、既にすべて達成したかのような満ち足りた心持ちで過ごしましょう。
    汗をかいて皮膚から陽気が奪われないようにし、温かく過ごせば、これが冬気に応じた閉蔵の道です。
    これに逆らえば腎が傷付き、春になって手足が効かなくなったり重ダルくなったり、陽気を生じ難くなります。





上記「四気調神大論篇」は四季に応じた過ごし方を記した、いわゆる養生法ですが、その記されている内容の多くが心の在り方だということに気づくはずです。
四季の移ろいはそのまま一日の朝昼夕夜に対応し、それは瞬間瞬間にも対応します。
この世の万物は常に移ろい、そのエネルギー状態も常に変化し続けています。
上に置いた絵は、それぞれの季のエネルギー状態を表していますが、ぼくたち人間の瞬間瞬間のエネルギー状態をも表します。
それは、体の感覚や気持ちや想いにも対応し、必ずしも四季のように順番に移行するとは限りません。
ですが、同じ状態に固定することは絶対にありません。
昼があれば、必然的にいつかは夜が来ます。


多くの人は、常に春や夏の状態でいることを望むようです。
いつも元気で明るく活動的、外向的。
たとえそんな状態ではない時でもそのように振る舞おうとし、いつの間にかそれが無意識のパターンとなっていたりします。

「何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。」

このような状態は、ひとつの病です。
心の一筋に留まることが無意識のパターンとなってしまうと、瞬間瞬間の自分の感覚が感じ取れなくなります。

「四気調神大論篇」の四つのエネルギー状態は、今自分の体はどのような状態なのか、自分の心はどのような状態なのかを理解する、ひとつの指針になると思うのです。


・陰陽、四気の消長
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yin_yan3.gif



武術書に見る「病を去ること」2 2006/04/17

  • 「兵法家伝書」柳生但馬守宗矩 寛永九年(1632)より
    • 後重には、一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
      去らんと思うが病気なり。
      病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
      病気を去らんと思ふは、病の去らずして心にある故なり。
      しからば、一円病気が去らずしてする程の事、思ふ程の事が着して、する事に勝利あるべからず。
      如何んか心得可きぞや。

      答へて曰く。
      初重後重と二つたてたるはこの用なり。
      初重の心持ちを修行して、修行積みぬれば、着を去らんと思はずして、ひとり着が離るるなり。
      病気というは着なり。
      仏法に深く着を嫌ふなり。
      着を離れたる僧は、俗塵に交じりても染まず、何事をなすとも自由にして、留どまる所が無ひ者なり。
      諸道の達者、その技々の上に付きて着が離れずば、名人といはるまじきなり。
      磨かざる珠は塵ほこりがつくなり。
      磨きぬきたる玉は、泥中に入りても汚れぬなり。
      修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。

  • 後の段階では、病を去ろうと思う心が一切無いことが病を去る秘訣となる。
    去ろうという思いが病気なのだ。
    病気に任せ切り、病気の内に溶け込むことが病気を去るということになる。
    病気を去ろうと思うのは、いまだに病が心から去ってはいないからだ。
    そこで、一向に病気が去らないままする事は、思いが心に留どまったままなので、事を達成出来るはずもない。
    どのように心得るべきだろうか。

    答えはこうだ。
    第一段階、後の段階と、二つに分けたのはこのような理由だ。
    第一段階の心持ちを修行し、修行を積んでいけば、心の留どまりを去ろうと思わなくても、ひとりでに留どまりから離れるようになる。
    病気というのは心の留どまりだ。
    仏法では執着を深く嫌う。
    執着を離れた僧は、俗塵に交じっても染まらず、どんな事をしても自由に在り、留どまることが無い者だ。
    諸道の達人で、その技の上に心が留どまって離れないならば、とても名人とはいえない。
    磨かれていない玉には、塵やほこりが付く。
    磨き抜いた玉は、泥の中に入れても汚れはしない。
    修行によって心の玉を磨き、汚れに染まぬようにし、病に任せ切り、心を解き放って自由に生きるべきだ。

コメントは後日。


武術書に見る「病を去ること」3 2006/04/19

  • 「願立剣術物語」服部孫四郎(江戸時代初期に活躍した松林左馬助無雲に術理を記したものと思われる)
    NHK人間講座テキスト『「古の武術」に学ぶ』甲野善紀 2003.10 より

    • 我総体の病筋骨の滞り曲節をけづり立ち、幾度も病をおびき出し、心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし、ただ何ともなく無病の本の身となる也。
      他人の病をよく知り、泥む処恐る処を我が身の如くあらわし、師其病を改める事。
      師も本此の病を愁い我にある所をもって人を直し申す儀。

      我が身総体の病である筋骨の滞りをすべての関節より削り落とし、深く隠れている病をも幾度もおびき出し、無意識の裡にある心の偏りや怒りを明らかにし、滞った思いの根源を絶やし、特別なことは何もない無病で無垢な本来の身となること。
      他人の病をよく知り、澱む所や恐れる心を我が身のように明らかにし、師はその病を改める。
      師もまた元はこの病を愁い、我が身にある病の経験により他人の病を直すのだ。


前回引用した「兵法家伝書」

  • 病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。

上記が病から去る具体的方法論です。

そして、この病を去るコツを理解し、実践を深める道を

  • 修行をもって心の玉を磨きて、汚れに染まぬやうにして、病に任せて、心を捨て切つて行き度き様にやるべきなり。

と「兵法家伝書」は語ります。


今回引用した「願立剣術物語」では、病を去るプロセスが述べられています。

  • 筋骨の滞り曲節をけづり立ち

まず肉体的な滞り、緊張を解放し。

  • 幾度も病をおびき出し

これは、おびき出すべき隠れている深層筋の滞りや緊張に加え、心の滞りや病をも指しているかも知れません。

  • 心の偏り怒りを砕き思う処を絶やし

ここで当然のように心や感情の滞りに言及していますが、解説するまでもなく我々日本人にとっては身体の滞りと心の滞りは同義です。
身体の滞りを解消するということは、同時に心の滞りも解消するということになります。
「心の偏り怒りを砕く」為には「兵法家伝書」でいう「病気の内に交わりて居る」必要があります。
つまり「心の偏りの内に交じりて居る」「怒りの内に交じりて居る」こと求められる訳です。



  • 宮本武蔵「五輪書」正保2年(1645)より

    • 秋猴の身とは、手を出さぬ心なり。
      敵へ入る身に、少しも手を出す心なく、敵打つ前、身をはやく入る心なり。
      手を出さんと思へば、必ず身の遠のくものなるによつて、惣身をはやくうつり入る心なり。
      手にてうけ合いするほどの間には、身も入れやすきものなり。
      能く能く吟味すべし。

  • 「秋猴の身(秋猴:手の短い猿)」とは、手を出さないという意味だ。
    敵に我が身を寄せていく時に、少しも手を出す心はなく、敵が打ち掛かる前に我が身を素早く寄せていくこと。
    手を出そうと思えば、必ず胴体は遠のくことになるので、総身をもって素早く敵の裡に移り入ることだ。
    手で受け合いをする間合いであれば、身を入れるのも容易だ。
    よく研究するように。

敵や対象を操作、除去、コントロールしようとする時、我が身を安全圏に置きつつ手先で扱おうとするのは、剣術に限らず多くの場面でみられるものです。
按摩や操体法でも、不慣れな人や下手な人は手先だけで相手に触れてしまいます。
按摩をする時は、実際に触れているのは母指だけであっても、触れている実質はお腹や胸、総身で触れていきます。
また、操体法で相手の動きに軽く抵抗を与えつつ付いていく時は、手で触れつつも相手の動きを丹田や総身で受けています。

手先だけで相手に入っていく時、実感を伴わない頭や考えだけで入っていこうとします。
総身で相手に入っていく時、実感そのもので入っていきます。
例えば、手先だけで按摩をしている人の動きや姿勢を見ると、胴体は相手の体から離れたまま手先と頭だけが相手の体に向かいます。
実感を伴わない考え、思考、頭=手先、ともいえます。

上で、病を去ることのコツは「病気の内に交わりて居る」ことである引用を示しました。
この去る対象である病、滞りに対面する際も、この「五輪書」の「秋猴の身」の秘訣が参考になります。
手先や頭、考えだけで「病気の内に交わりて居」ようとするのではなく、この総身により実感をもって「病気の内に交わりて居る」こと。
その具体的な方法を、今後いくつかアップ出来ればと思っています。


 
 
 

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