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「瞽盲社会史」京都市立盲唖院編 -明治36年(1903)- 第五節 按摩及び鍼術 †デジタルデータ → 近代デジタルライブラリー「瞽盲社会史」 按摩は言うまでもなく人の疲労を感ずる時、他人をして按摩せしめたるより起 こり、後世医学の発達に伴い之に多少の学理を応用し一種の技術としたるに過 ぎず。 さればその起源の如きはもとより論ずるに足らざれどど、技術職業として世に あらわれしは大宝令に正八位下按摩博士一人、従八位上按摩士二人を置き、常 に按摩生十人を教授せしめし。 記事によれば平城朝の頃には一種の医学的技術として存立せしを観る。 その後如何なる発達を遂げしか、又何時頃より盲人の職業となりしかも全く明 ならず。 徳川時代鍼治の流行するや按摩は当時社会より蔑視せられしかば、従来按摩専 門の盲人も鍼術を兼ね行う事となり、ここに始めて按鍼兼業の盲人を出すに至 れり。 我が国の鍼術はその源を支那に発す。 鍼は伏羲に始まり黄帝に成るとは当時一般医学の発達より推測したる憶説に過 ぎざるべし。 又我が国神武の時にこの術を以て盲人糊口の業となし給いしとの説は無論妄説 として採るに足らず。 恐らく支那の鍼治が医学の発達兼行し、やがて日唐の交通頻繁になるにつれて 日本に輸入せられしならん。 その史上に見せるは皇極天皇の時、朝鮮より伝わりしを始とすれど記事荒誕に して信ずるに足らず。 次に文武天皇の時、唐制に模倣して典薬寮を設け、ここに鍼博士一人、鍼士五 人を置き、鍼生十人を教養せしめし事見せ、爾来鍼治は殆ど五百年間大いに流 行したる如く、天長承和の際には出雲岑岑嗣、菅原梶成等あり。 殊に梶成は入唐その業を受けたと云う。 又和気丹波の両氏、往々鍼医を出せり。 その後織豊時代に至るまでは鍼治に就きて史料の微すべきものなし。 然れどもこれを以て直に鍼治の業廃れたりと云うを得ず。 永禄の頃に至り、吉田意休明国に航し鍼法を受く。 これ吉田流にして、この派を継ぐ者は繊鍼を用う。 次に豊公征韓の役には典医園田道保、明人呉林達に鍼術を学び、帰朝の後これ を入江頼明に伝え、頼明これを子良明に伝う。 その門に山瀬琢一あり、琢一の門に杉山和一を出す。 和一業を琢一に学ぶと共に又頼明の孫豊明に受け、二家の所長を兼ぬるを得た り。 これ杉山流の祖にして鍼術を以て盲人の職業とせしもまた実に和一の功によれ るというべし。 蓋し始めて鍼菅を造り盲人をして容易にその技術を行うを得しめたればなり。 和一の門に三島安一あり、その術精妙、和一に次ぐ。 請うて学校を江戸近郊に建つる事四ヶ所、諸国に設くる事四十五ヶ所、ここに 於いて杉山流全国に流布するに至れり。 この流派を汲むものは皆鍼菅を用う。 この他慶長元和の際、御園意斎あり、鍼術に巧みにして始めて金銀を以て鍼を 造る。 その流を汲む者皆小槌を以て膚肉に打入す、之を意斎流と称す。 その門人に加茂の祠菅駿河あり、駿河流と称す。 かくの如く徳川時代には鍼術に数多の流派ありて、頗る世間に重用せられ音曲 と相並びて盲人に最も適当なる職業とせられたり。 これら諸流の差は吉田流にては繊鍼を用い、御園杉山の二流は共に金銀鍼を用 い、御園は小槌にて打込み、杉山は管を用うるの差ありて、杉山流は最も盲人 に適したれば、その流行も遥かに他流を凌駕せり。 江戸時代の按摩諸流派 †
吉田流按摩 †
杉山流按摩 †
皆川流按摩 †
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