治療例や普段の何気ない感覚に関して、日記や掲示板等に書いたものをピックアップするページ。
荒い粗雑な身体感覚から繊細な感覚まで、また気分や感情に関して。
主訴「不幸」 †
ウチの治療室は完全予約制で、ひとりの治療に最大2時間枠を取ってあります。
近所のお婆ちゃんなどは、入室して来てしばしお話を聞き、すぐに治療ベッドへ移動して約1時間で終了。
また、ある人は治療前にお茶を飲みながらじっくりと話を聞き、按摩も含めて2時間ギリギリまでかかる場合もあります。
人により場合により、治療に要する時間は様々です。
じっくりと話を聞くことがあるので、患者さんの中には「あの按摩さんはカウンセリングもしてくれる」と思っている人もおり、その路線で患者さんを紹介してくれたりします。
「カウンセリング」といわれればそうかも知れませんが、ここで行っている問診は、実は既にそれ自体が按摩です。
ぼくにとっての按摩とは、「相手の実感に触れること」。
その「実感」の中には、身体の様々な感覚だけではなく、その人の中に明確には意識されずに眠っている感情や想いも含まれます。
そんな流れで「カウンセリングを受けたい」と、友だちに付き添われてやって来た患者さんがいました。
話を聞くと、家にいるのがものすごく息苦しく、つらいと言います。
自営の家に嫁ぎ数十年。
ご主人が厭で厭でたまらなくて、今まで家出した事複数回。
その度にご主人に連れ戻されたといいます。
話しているその顔は、明らかに暗くくすんでおり、黒い霧に覆われているようでした。
泣きながら訴える彼女の話を聞きながら、側に座っていた友だちは同情のあまり彼女の肩を優しく抱きます。
と、それに応えるかのように、更に激しく泣きじゃくる彼女。
その様子を眺めつつ、感じていると。
何故か彼女の悲しみ、つらさが実感を伴って伝わって来ません。
半ば自分の中のストーリーに溺れているようでもあり。
更に、そこに友だちを巻き込むことで、よりストーリーを強化しているようにも思えました。
彼女の実感に触れたい。
今この瞬間は、会話を通して彼女の実感に触れることは無理に思えました。
対面している時には感じられない感覚や感情も、実際にからだに触れて按摩すると伝わって来ることは多々あります。
そこで「取り敢えず、按摩しましょ」と言っていました。
実際にからだに触れ、按摩します。
確かに悲しみは伝わって来るのだけれど、彼女が訴えるほどのつらさは感じません。
そこで、淀み、凝っている部分を丁寧に按摩します。
黒い霧に覆われたような強張った体を按摩していると、黒い霧が徐々に晴れはじめました。
按摩終了。
黒い霧も晴れ、体の表情も大部柔らかくなったので、体の内側から彼女の内発的なエネルギーが湧き出しやすくなったように感じました。
そこで、「何か好きなこととかあります?」と聞いてみます。
たどたどしく、思い付くままに話し出してくれましたが、その中にひとつ、体の実感を伴うもの、体から発していると感じる言葉がありました。
実感のある、内発的なエネルギーの発見です。
そこで、それについて掘り下げてみます。
日常の中で、何かの形でそれをやることは出来ないか。
それにはどのような可能性があるか。
あんなこともやれるし、こんなこともやれる……。
話はどんどん具体的になり、彼女の顔がだんだんと輝いて来ます。
内発的エネルギーが溢れ出しています。
そんな治療を終え……、その後彼女の来院はありません。
友だちに聞くと、「ウソのように表情が明るくなって、ホント毎日楽しそうにしてる」との事。
これは、ぼくの考える按摩の象徴的な例でした。
こんなに分かりやすい例は、ほとんどないのですが。
按摩とは、実感に(からだに限らず)触れること。
実感に触れれば、滞っていたもの、固着していたものは、自然に動き、流れ出します。
アセモ †
この夏、2、3日前から両手の前腕、手首、手の甲、指までアセモが出現。
夏場はよく手首付近にアセモができるのだけれど、こんなにびっしりなのは珍しいです。
昨日の夜中。
ものすごく痒くなり、ボリボリ掻いたり、痒い部分の皮膚をムギュ〜っとよじってみたり。
そうすると、これがまたものすごく気持ち良いのです。
でも、痒みはヒドクなるばかりなり。
眠れません。
そこで。
「この痒みは、そもそもどんな感じなのだろう?」
と、両手を降ろし。
しばし痒みをじっくりと味わってみることにしました。
……。
手の甲の表面が一番痒いです。
……と、感覚がシフト。
皮膚の内側にエネルギーがブワンと溜まっています。
両腕の肘から下が、全体的に発熱しているような感じ。
……またまたシフト。
両腕の内側に、何やら”衝動”みたいなうごめきがあります。
そのうごめきを感じていると、それはウネウネと指先から抜けていくものがあり。
または胸の方に流れていくものもあり。
気が付くと、痒みはまったく消えていました。
痒くて目が覚めてから5分後。
また、安らかに眠りにつくことが出来ました。
そして次の今日。
汗だくになるくらい暑い日でしたが、汗をかけばかくほどアセモが減っていきました。
風通しのよい体 †
自分の体が風通しよくてまわりに拡がっている、そういう状態が気持ちいいです。
単純なことですが、そういう時、しあわせだな、と思います。
逆に、体が澱んでいて重く閉塞的な時、そういう時の体の状態には気づいてません。
たまに気づくと、ものすご〜〜〜く気持ち悪いです。
なので、ほとんど毎日、体に呼吸が行き渡っているか、滞っているところをチェックしたり、全身に呼吸を行き渡らせる呼吸法のようなことをしています。
無意識に吸ったり吐いたりを繰り返している呼吸は、ものすご〜く微妙なのですが全身が協調して連動している全身運動です。
体に澱んだり滞っているところがあると、その分呼吸は偏ったり浅くなったりし、そして気づかないうちに体の風通しは悪くなり、閉塞的に重く感じられるようになります。
マッサージをした後、体が軽く感じられたり視界のモヤが晴れたようにスッキリしたりしますが、要するに風通しが悪かった体が風通しがよくなったからそうなる訳で、感覚的にはとってもわかりやすい現象ですよね。
ところで、マッサージ師は自分で自分の体をマッサージする訳にもいかず、日々の体のメンテナンスは自給自足するしかないのですが、実際にはそれほど難しいことではないです。
風通しのよい体の感覚を知っていて、なおかつ体が澱んでいたり風通しが悪いと気づくことが出来れば、あとは何としてでも感覚を風通しよくするしかないですものね。
ただ。
風通しのよい体の感覚を知ってはいてもそれに価値を置いていなかったり、体の澱みや風通しの悪さ、ダルさや重さを、ストレートに気持ち悪いと感じなかったり無視する傾向があったりすると、セルフメンテナンスは難しいです。
って、多くの人がそうなんですけど。(^^;
体が風通しのよいと感じる感覚以上に大切な仕事や目標や成すべき事がてんこ盛りだろうし、多少の体の澱みや風通しの悪さ、ダルさや重さなんかにかまけていられないみたい。
でもね。
人生の変わり目や病気の時、自分や体をもっとあるべき姿にしたいと思った時には。
そういった感覚たちにも目を向けて欲しいと思ったりする按摩さんなのです。
風通しのよい体とは †
風通しのよい体になるにはどうしたらよいでしょう。
「風通しのよい体」にも書きましたが、呼吸は全身が協調的に連動する全身運動です。
全身が協調的に連動し、呼吸の繰り返しが微妙なうねりとなって収縮・膨張し続けている体。
感覚的には、呼吸が全身に行き渡っている感じ。
体がそんな状態だと、ものすご〜く風通しがよいです。
もちろん体も軽いし、感覚も思考も体の外に対して開放的に拡がっています。
全身に呼吸が行き渡るためには、全身の感覚が目覚めている必要があります。
これは別に「100%目覚めていること」が必要とされている訳ではなくて、常に「今まで以上に」ということ。
全身の感覚を目覚めさせようとするベクトル、感覚のネットワークをより濃厚に密にしようとするだけでよいと思っています。
40%の感覚しか目覚めていない体が50%まで感覚が目覚めるようになったら、かなり快適に風通しよく感じるはずです。
「風通しのよい体」で、マッサージに関して次のように書きました。
マッサージをした後、体が軽く感じられたり視界のモヤが晴れたようにスッキリしたりしますが、要するに風通しが悪かった体が風通しがよくなったからそうなる訳で、感覚的にはとってもわかりやすい現象ですよね。
按摩やマッサージでコリがほぐれたり体が軽くなるのは、按摩やマッサージされた部分から感覚が目覚めてくるからです。
凝っていたり澱んでいたり滞っている所は、感覚が眠っていたり仮死状態になっている所。
その感覚が第三者に触れられることで目覚める、それが按摩やマッサージの本質だと、ぼくは思っています。
施術者自身が、そこがどのような状態になっているか感じられるように触れる。
そうすると、受け手は意識的に、または意識と無意識の狭間で「そこがどのような状態になっているか」を感じます。
「感じる」のですから、既に感覚は目覚めはじめてますよね。(当たり前ですね)
なので、必ずしも第三者に触れてもらう必要はなくて、自分ひとりで凝っていたり澱んでいたり滞っている所を見つけ、その部分の感覚を目覚めさせるだけでもよいです。
というか、「凝っていたり澱んでいたり滞っている所を見つけ」た段階で、既に感覚は目覚めはじめているのですが……。
ところで、按摩やマッサージを受けた後、それまでより格段に目覚めた全身の感覚を、積極的に味わい愉しむことが出来れば、効果(感覚の目覚め)はより浸透し発展していきます。
患者さんには、もっともっと「感覚」にフォーカスを当て、価値を見出してほしいです。
パソコンでの目の疲れ †
パソコンを長時間使っていると目の奥に塊が出来たように痛くなって疲れたりしますが、テレビを同じくらい見続けてもそうはなりませんよね。
それはたぶん、テレビを見ている時は、映っているものを眺めるように見ていて、積極的に見てるというよりは映っているものを見させられている、そんな状態に近いのではないでしょうか。
意識もそれほど見ることに集中してはいなくて、身体性をともなった日常空間と無理なく行き来できる感じ。
一方、パソコンを見ている時は、身体性をともなう日常空間から思考偏重にシフトしていて、積極的にディスプレイを見にいっている、そんな感じがします。
あまりに集中してディスプレイを見詰めていると、ついつい顔が前に出て首の後(後頭部の生え際、頭蓋骨底部付近)が縮んで緊張しています。
無意識にこんな状態が継続すると、当然後の首や首と頭の付け根付近が凝り、肩も凝ってきます。
ぼく自身はパソコンに向かっている時は、基本的にはディスプレイ画面の映像が目に入ってくるように意識して、眺めるように見ています。
それでも時々「え!?」と思うような情報を目にした時など、上の図のようになったりし (^^;、「いかん、いかん」と基本的な眺めるモードに戻します。
これだと、思考世界ドップリよりはそこそこの身体性は残したまま、首の後を緊張させることなくパソコンに向かえます。
たぶん、数年前はそんなことは意識せず、いつも見にいくモードだったと思われ、長時間パソコンの前に座っていると度々目の奥が痛くなっていました。
でも、基本を眺めるモードに変えてからは、目の奥が痛くなることはほとんどないです。
最初のうちは無意識にけっこう見にいくモードになっていますが、気づく度に眺めるモードに戻していると、数回で眺めるモードが基本になります。
ただ、やはり長時間一定焦点距離の画面を見続けていると、目全体がボ〜っと疲れたようにはなります。
なおかつ、ほとんど身体性から切り離された思考世界に浸っている訳ですから、身体感覚もおろそかに。
ですから、適度な眼球運動と焦点を移動する目の体操のようなものを時々行い、ストレッチをともなった呼吸法のようなものは必須です。
思考世界に浸った分、感覚世界にはそれ以上の濃度で浸らないと、どっちがメインなんだか分からなくなっちゃいますよね。