古事類苑・方技部十二・醫術三


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2011-12-18


・「古事類苑」
日本最大の官撰百科史料事典。1896〜1914年(明治29〜大正3)
1879年(明治12)文部省に編纂係を設けて以来、35年を費やし、神宮司庁により完成。
歴代の制度、文物、社会百般の事項を天・歳時・地・神祇・帝王・官位・政治・法律・文学・礼式など30部門に類別し、六国史以下1867年(慶応3)以前の基本的な文献から採録した各項の起源・内容・変遷に関する史料を原文のまま掲げる。

日本における按摩の歴史を調べるにあたって、外せない資料ですね。

按摩科


皇都午睡(こうとごすい)

関西出身の戯作者西沢一鳳が江戸に遊びし日の筆録。1850(嘉永3年)
古事類苑の一行だけの抜粋では文脈が分かりませんでしたが、幸い国会図書館デジタルアーカイブにデジタルデータがあったので、古事類苑抜粋箇所前後を現代語で載せておきます。

ここでは、上方と江戸の言い回しの違いを列挙しています。
古事類苑抜粋箇所の意味は、『上方で”按摩”と言うのを、江戸では”もみ療治”と言う』という意。

皇都午睡より(現代語訳)

上方にて買うて来るを江戸にては買つて来る、借つて来るを借りて来る。
大きいを恐ろしい、仰山を大騒、そうじゃさかいをだから。
糸様をお嬢様、お家様をお上様、男の子を坊様、姥(うば)を婆婆あ、御寮人を
御新造。
貧乏人のきたな口娘をあまと、男を餓鬼、女子をめろのがき、おてんばめらう、
あまっちょ、などとも云うなり。
按摩をもみ療治、奉公人口入を慶庵、肝煎りを女衒、隠賣女を地獄、履物直しを
ば雪踏直し、(以下略)


江戸中期の導引口訣鈔(1713年)から137年後の江戸末期、1850年に出版された皇都午睡に『江戸では"もみ療治"と言う』と書かれているのは興味深いです。
和漢三才図絵による按摩手技にも書きましたが、「導引口訣鈔」と同年代に出版された「和漢三才図絵」中での按摩の解説は「經絡をさすりおさえ、筋のつれ(または肩背部、肩甲間部)を引きさする術」とあり、「もむ」という記述は一切なく「さすりおさえる」手技であることがわかります。
以下は長尾榮一著「日本按摩の文献的研究」の「考察」からの抜粋です。

平安時代からは民間療術化し、他人を按摩するようになり、江戸中期に至り、当
時の医学的知識をもつ人々によって体系化されるようになった。
このことは貨幣経済の発達、生活レベルの向上、町人文化の欄熟の結果と思われ
鍼灸の発達と類似する。
江戸初期には、按摩の専門職も少なかったであろうが、中期になると専門家の増
加と専門の掘り下げが行われた。

手技の変遷を見ると、専門書の最初である「導引口訣鈔」では、誰にでもできる
軽擦が主体であるのに、江戸後期に入ると、揉捏や圧迫、さらには曲手が増加し
てくる。
つまり、専門家もその対象も増加し、快い按摩が要求され、それに応えられるよ
うになっていったのであろう。
そこに一点圧の方向とリズムに変化を与える揉捏、曲手が生じた。
その中で「按腹図解」では手技が整理され、3大基本手技が定められることとな
り明治以降の現代按摩の元となっていく。


上記考察は、導引口訣鈔→按摩手引→按腹図解という按摩書だけではなく、和漢三才図絵→皇都午睡の記述を見ても、概ね正しいのではないかと思います。


老の教(おいのおしえ)

松平定信 著。1829(文政12)
明治26年出版「楽翁公遺書」第3冊(下巻)に収蔵。

老の教(現代語訳)

導引が良くないということはない。
心して努めなさい。
夜眠い時も朝の寒い時も、努めて按摩をすれば、体が暖かくなり安眠するように
なる。
夜は9時から10時までには寝なさい。
起き出すのは7時前にしなさい。
目覚めたら何か暗誦し、また歌などを詠み、山林経綸などを思い、妄想に心を奪
われないようにしなさい。
翁は多言を好まない。
これはその本来の性質であり、これに従って寡黙にやすらかに養うのだ。


善庵随筆

朝川善庵 著。1850(嘉永3)

善庵随筆(現代語訳)

導引することを熊経(ゆうけい)と云うことは、荘子に、
「吹句呼吸 吐故納新◆熊経鳥伸(ゆうけいちょうしん)するは、長寿の
 為のみ。此れは導引の士、体を養生する人、あるいは彭祖ぁ覆曚Δ宗砲里瓦
 く長寿を望む者が好むものだ。」
とあり、淮南子に
「鴻(おおとり)が鳴き声を好むが如く、熊は経(ぶらさがる)を好む」
と云うように、熊は経を好むものだから名付けたのだ。

後漢書華陀傳にあるように
「昔の仙者は導引を為し、熊經鴟顧ァ覆罎Δ韻い靴魁砲掘体を引き伸ばし、諸
 関節を動かし、これらにより老化を防ぐ。熊経(ゆうけい)とは、熊が枝を上
 り自らぶら下がる様である。」
とは、誰もがよく知ることだが、雲笈七籖に、
「漢の時代に道士君倩という者あり、導引の術を為し、猿經鵄顧をなし、体を引
 き伸ばし、諸関節を動かし、老化しない方法を探求した。」
とあり、猿経という言葉も珍しくはない。

/甼膰撞曄六字訣(六気法、六字法ともいう)。
吐故納新:古い気を吐き新しい気を吸い込む。いわゆる呼吸法。
7Х伉賛:動物のように体を伸ばし動かし滞りをなくす。後の五禽戯。
ぷ伝帖л峪代の仙人。導引行気の術にすぐれ、800歳以上も生きたとされる
    中国での長寿の代名詞的存在。
シу嬉顧:熊のように体を伸ばし、フクロウのようにねじる。



三国志 魏 二十九 方技

三国志・魏書

三国志 魏書 二十九 方技伝(現代語訳)

華陀、字を玄化という。(中略)
方薬を精製して病気を治したが、その配剤は数種類に過ぎない。(中略)

広陵(揚州)の呉普、彭城(徐州)の樊阿などは、皆華陀に従い学んだ。
呉普は華陀の治療をなぞることにより、全て済んでしまうことが多かった。

華陀は呉普に語った。
「人体は適度に運動することを喜ぶ。ただし、極端に運動し過ぎてはいけない。
 ゆるやかに動くことは穀氣の消化を促し、血脈は体中を巡回して病気になるこ
 とはない。
 譬えるならば、門扉の軸が腐らないのは、このこと同様にいつも動いているか
 らだといえるだろう。
 このように、昔の仙人は導引を行い、動物を真似て体を動かし、体を引き伸ば
 し、諸関節を動かし、老化しない道を探求した。
 私には「五禽の戯れ(五禽戯)」という名の術がある。
 一に虎、二に鹿、三に熊、四に猿、五に鳥。
 これにより病は除かれ、足が軽くなり、体中の不快に対する導引となる。
 一禽の戯れを行えば、じんわりと汗が出て肌は潤い体は軽く、食欲も増す。」

呉晋はこれを行い、90歳過ぎまでも耳目は聡明で、歯もまたしっかりとしてい
た。


備急千金要方 二十七養性

しばし、パス。(^^ゞ


按腹図解 序

「按腹図解」文政十年(1827)。 太田晋斉。

按腹図解 序(現代語訳)

我が医道もまた唐の国より伝わりしもの、されば導引按きょうの術もまた同様に
伝来せしものである。

または我が皇国にて発明せし人も有る。
三栗(みつくり)の中昔(なかむかし)の頃、その術が世に行われし証しは「栄
花物語」に「腹とりの女」という言葉が見える。
だがこの物語も七百年ほども前、往古の事なれば、その技はいかにしても知るこ
とは出来ない。

また彼の国にても、太古には専ら行われし様は、医書の親と奉る「内経」という
書に見ることが出来る。
されど彼の処においても、いつしか廃れしと知られ、後世の医書においても絶え
て見ることが出来ない。

しかるに我が大御国に玉匣(たまくしげ)(玉手箱)二百年よりこの方、誠に国
は安んじ安穏とし、科戸(しなと)の風(風の異称。祝詞)の荒振(あらぶ)れ
や綿津見(わだつみ)(海。海の神)の波の騒ぎも絶え果てて、治めさいわい給
う御治世のおかげに隠れて、天(あめ)の下の蒼生(たみくさ)(民。国民)尊
きも卑しきも最も静かなる世を楽しむ。
この治世を得て、萬(よろず)の廃れたるものが復興することもなく、多くの絶
えたるものが継がれることなく、将に他愛もない程に、我が医道もそのような有
様であった。

このように、その道に詳しい書も、その技に詳しき人も、その名が聞こえるのは
野辺のつる草林の木の葉のごとく世には乏しかったのだ。
誠にこの道はすべ準備が整っていると云わなくてはならない。

さる時に、独りこの導引按きょうの術のみ古き衣をうち捨てて、志しを誰も取り
立てる人も無い中で、近年全日(うつひ)が射し入る都の医士(くすし)※香河
氏、賀川氏の二人が、世に勝れた我が医道(くすしのみち)を古きにかえし、そ
の医理論のなごりをこの術に及ぼした。
後の世の人はこの二人をもって此の術再興の祖と思うだろう。
だがしかし、その著書をみれば、香河氏は病がおさまった後の助けとし、賀川氏
は懐妊をその本務としている。
その主旨は甚だしく異なるのみならず、共に深遠なる真理を極め得ておらず、そ
の末の流れを汲む人々に過ぎない。

またこの世に此の技を業とする人は、多くは盲人、未亡人、或いはあぶれ人、貧
しき者、医を学ぶ輩(ともがら)、此の技を以て世渡りの手段とするに過ぎず、
是れによって此の術をなすことを甚だしく卑しんだ。
このように、見識ある人は此の術をして恥じ、かつ疎ましく思うようになった。


香河氏:香川修徳「一本堂行余医言」天明八年(1788)治療法として按摩術を勧める。
賀川氏:賀川玄迪「産論翼」安永四年(1775)按腹。


按摩治療


曲亭漫筆 下 鬼貫が伝同導引

滝沢馬琴 著。享和三年(1803)
馬琴が諸国を遍歴した際に見聞した各地の伝記、墓誌、説話など。

曲亭漫筆 下 鬼貫が伝同導引(現代語訳)

鬼貫、姓を上島氏といい俗称は興総右衛門、槿花(きんか)翁と号す。
摂津の国は伊丹の人なり。
後に大阪に住み姓を平泉と改める。

はじめ俳諧を維舟および宗因に学び、後に一家をなす。
「鬼貫独言」、同句選など世に行われる。

元文三年(1738)八月二日、七十八歳にして没す。
伊丹墨染寺に墓あり。

浪速に滞在中のこと、或る人の話に、「鬼貫、ある時期は行わなくなったが、ひ
と頃は和州郡山侯の足軽などつとめ、その後大阪に住み、子供の導引などしてひ
っそりと暮らしていた。」という。
今なお大阪にて鬼貫導引として小児治療に足から上へも施す按摩の法がこれだ。



甲子夜話 六十二

肥前平戸の藩主松浦静山 著。文政四年(1821)
大名・旗本の逸話、市井の風俗などの見聞を筆録。

甲子夜話 六十二(現代語訳)

林曰く、ある人の談話。

故豆州(松平信明閣老)の臨終前の病は腫気(腫れもの)で気血の巡りが悪くな
っていた。
按腹することにより小水が通じる秘術を施す医師がいると聞いたので、その者を
呼んで按腹を施させてみると、果たして通利があった。

その翌日にまた医師が来て按腹している時、豆州が言った。

「この度の私の病はどのようにしても不治であると感じている。もはや重ね重ね
按腹するには及ばない。そしてこの按腹の法は、平素未だ病を得ない時に奇効を
顕わす術である。
諸人を救うべき大切な術なので、秘匿せず広くその術を伝え残しなさい。」

諄々と丁寧に諭し、正に老職得体の言というべきだろう。
折に触れ何かの時に思い出す、痛惜に絶えない人でありました。



按摩科雑載


守貞漫稿 五 生業 按摩

喜田川守貞 著。嘉永6年(1853)
喜田川守貞が見聞した風俗を図とともに解説した随筆。
近世風俗研究には不可欠の書といわれている。

守貞漫稿 五 生業(現代語訳)

按摩

諸国の盲人は業として窮乏している者が多い。

或いは盲目ではなく、或いはお得意の招きに応じて行くだけの者もあり、あるい
は路上を笛吹き巡りお客を取る者もある。
確かに三都(京都・江戸・大坂)諸国ともに振り按摩(流しの按摩)は笛を吹く
のをめじるしとする。
振(流し)は、お得意付近の路上を行き来しつつ巡り、どの家でも求めがあれば応
じ、諸々を売ることもまたこれにならって「振売(ふりうり)」というのと同じ
だ。
また京阪の振り按摩は夜陰のみ巡り、江戸は昼夜も巡る。
また、江戸では笛を用いず、語りで「按摩、鍼の療治」と呼びながら巡るのもあ
り、「小児の按摩は、或いは上下揉んで二十四文」などと呼ぶのもある。
江戸では普通、上下揉んで四十八文である。
また、店を開いて客を待ち、市街を巡らず、足力(そくりき)と呼ばれる手足に
よって揉むものは、上下揉んで百文だ。
京阪には足力按摩はなく、また、京阪では従来より普通上下揉む者は仕事を半と
し、これにより「盲人は鍼治を兼ねる」「足力等は灸治を兼ねる」という。
また、別に三都とも「灸すえ所」という所があり、大概は百灸千灸以上を一般と
し、代金は二十四文ばかりである。



「近世風俗研究には不可欠の書」とは広辞苑の説明。
一部だけですが今回はじめて「守貞漫稿(もりさだまんこう)」を読んだ訳ですが、面白い!
詳細な記録が詰め込まれ、興味深いです。

  • 江戸期(末期)、諸国の盲人按摩は総じて貧しかった。
  • 盲目ではない按摩もいた。
  • 出張按摩、流しの按摩、自宅開業按摩があった。
  • 流しの按摩を「振り按摩」、また、荷物を下げたり担ったりし、声をあげながら売り歩くことを「振売(ふりうり)」という。
  • 京阪の振り按摩は夜のみの営業。江戸の振り按摩は昼夜ともに営業。
  • 江戸の振り按摩は、笛を用いず「按摩、鍼の療治〜」「小児の按摩は、或いは上下揉んで二十四文〜」と呼びかけるものもあった。
  • 按摩の料金
    • 小児の上下の按摩:二十四文。通常の上下の按摩:四十八文。開業の足力按摩は上下:百文。(江戸)
      • 「上下」とは、上半身、下半身ということか
    • 「灸すえ所」:二十四文。(三都とも)

      ukiyodoko1.gif
      「浮世床」より
       
    • 江戸の人口の2割を占めていた大工の日当が約500文。お酒一升:248文。かけそば:16文。(参考:「大江戸庶民事情」石川栄輔 著)
      単純に、例えば日給5000円だとして立ち食いそばが160円、お酒一升2480円、通常上下按摩480円という感じ。
      立ち食いそばを現代東京の320円あたりに設定すると、按摩は江戸では丁度3倍なので960円。
      これはもちろん乱暴な計算で、時代背景や諸々の経済状態がかなり違うので、単純に比較は出来ませんよね。
  • 江戸にある足力按摩は京阪にはない。



嬉遊笑覧 六上 音曲

喜多村信節のぶよ著。文政十三年(1830)。
和漢の書から近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めたもの。

嬉遊笑覧 六上 音曲
(現代語訳)

按摩とりが笛を吹く様子が「太平楽府」(明和六年-1769,狂詩集)にある。
「河東節が流れる夜を行けば、按摩痃癖が笛を吹きながら去り、饂飩蕎麥の焚火
が行く」
(是は明和六年-1769-の撰なので、この頃-1830当時-では珍しいことだといえ
 るだろう)
江戸ではその後天明七年-1787-「「狂詩諺解」に「按摩が笛を吹くのは、最近
のことである」とある。


古事類苑・引用文中の「太平楽府」のデジタルデータが「京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫」にありました。
太平楽府
がしかし、該当の文章が見付けられません。(;_;) とほほ
原文の河東は河東節の略と思われるので「河東節が流れる〜」と訳しましたが、もしからしたら詩の作者が河東節を口ずさんでいたり、または河東という姓の人が夜道を歩いていたという描写かも知れず、正確なところはちょと分かりません。
でもまぁ、情景としては。
河東節が流れる現代のように街頭もない夜、按摩さんの笛が行き過ぎ、また屋台を担いだ饂飩蕎麥屋の火が流れるように過ぎていく。
そんな情景なのでしょう。

あまり関係ないですが、「太平楽府」を検索中に見付けたプチ情報。

  • Yahoo!ニュース - 共同通信 - 江戸の狂詩集版木見つかる 海賊版も
    • 江戸の狂詩集版木見つかる 海賊版も 江戸時代に好評を博した狂詩集「太平楽府」の正規の版木と海賊版が出版元の京都の古書店に保管されていたことが30日までに、永井一彰・奈良大教授(近世国文学)の調査で分かった。
      海賊版は普通、見つけたら割るなどし残らないといい、正版とセットで見つかるのは極めて珍しい。永井教授は「ヒット作の需要に応えるため、両方の版木で印刷したのではないか。江戸の出版の実態を知る貴重な資料」と話している。
      「太平楽府」は1769年、狂詩作家畠中観斎が京都市中京区の「竹苞書楼」(当時は竹苞楼)から出版。漢詩体で俗語を交えて世相を詠み、人気となった。
      (共同通信) - 1月30日12時46分更新



執苑日渉 一

室町時代(1338年頃-1573年頃)末期

執苑日渉 一
(現代語訳)

医方(醫術)を設け、地において神と民の前の興す。(中略)

この方に風科あり、多くは脈を兼ねる所。 
祝由はこれ巫覡(フゲキ。みこ。かんなぎ。)既に之れを為す。
別に按摩有り。(中略) 
灸師(中略)
及び草家(中略)
現在道を行き来する按摩が鈴を揺らし笛を吹くこと、また虎とう※の報
せは「類書纂要」にあるようにもともとは鈴医がこれを持っていたから
だ。

※虎とう=虎撑

  • 「風科」:今ひとつ分かりません。
  • 「祝由」:中国では古代、治療法を科目毎に接骨、鍼灸、按摩、急所打ち、点穴、気功治療、漢方薬治療など,多くの種類に分け、 その十三番目に祝由科があったとされています。
    この文中では、祝由以前に既に巫覡がその類の役を担っていた、ということなのでしょうか。
  • 「鈴医」:主として明、清時代の民間医を指し、鈴を鳴らしながら郷村を巡回して売薬治療し、賤民に近い扱いを受けたものもあったようです。
  • 「虎撑」:どうやら上の「鈴医」の鈴または鈴の音と同義だと思われます。(中国語サイトにいくつかこの語が見られるのですが、中国語が何となくしか分からないので。(^^ゞ)


俚言集覧


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国語辞書。太田全斎編、村田了阿ら補。
「諺苑」を基礎にした江戸時代の方言・俗語・俗諺を集めたもの。
1900年(明治33)井上頼圀よりくに・近藤瓶城みかきが増訂、通行の五十音順に改編。
デジタルデータ→近代デジタルライブラリー 俚言集覧


この辞書に「按摩の鈴」という項目を発見。
「古事類苑」の按摩科雑載に「執苑日渉」からのものとして引用されているものと同様な文章が、「俚言集覧」では「藝苑日渉」からのものとして引用されています。
なおかつ、「古事類苑」の引用では今ひとつ意味不明なものが、「俚言集覧」の方の引用を見ると出典も含めて明解です。
「古事類苑」按摩科「皇都午睡」の引用例でも今ひとつ意味不明だったこともあり、「古事類苑」の引用の仕方って、時々けっこう乱暴なのかも知れませんね。(^^;

ちなみに、室町時代に「執苑日渉」という書物があり、「藝苑日渉」は江戸時代の書物です。
文章からして江戸時代の「藝苑日渉」が正解なのではないかと思います。
以下、「俚言集覧」から「按摩の鈴」と「按摩とり」をピックアップしてみます。





按摩の鈴


藝苑日渉

村瀬栲亭/著。江戸時代。

・「聊斎志異」
鈴医というものがある。
今道を行き来する按摩が、鈴を揺らしたり笛を吹くなどするものがこれ
だ。

・「類書纂要」
鈴医がこれを持つもの也。



按摩とり


安齋随筆

伊勢貞丈/著。天明四年(1784)。

俗に「按摩とり」といい、腹をなでる(原文は"摩"のみ)ことを「はら
とり」というがこれは古語である。



榮花・布引巻

「大臣、何故に泣く」
「痛い所があるからだ」
「はらとりの女に痛みを取ってもらうのが良い。
 私もそうしている。」


 
 
 

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