この文章は「THE PSYCHOLOGY OF THE ESOTERIC」の中の一章「BECOMING AND BEING」のプラバによる日本語訳です。
1990年に「OSHO commune International」から許可を得て雑誌「Ya-hoo」およびその特集号「Healing Magazine special」に掲載したものです。
その後別の訳者により「瞑想社」から一冊のまとまとまった本「秘密の心理学」として出版されています。
ここでは「心理学」ではなく、敢えて「秘教の科学」と題していますが、ぼくたちの妙なこだわりとしてご了承下さい。
また当翻訳のWeb上への掲載が何か問題を有するとしたら、管理者宛メールを下さい。>関係各位様
7つの身体の緊張とくつろぎについて、何か話して下さい
すべての緊張の最初の源泉は、なっていく(Becoming)ということだ。
人は常に何かになろうと試みている。
誰も、彼のあるがままの自分自身でくつろいではいない。
在ることは受け入れられず、否定され、そして何か他のものがなるべき理想として受けとめられている。
根本的な緊張は常にあなたが在る状態と、あなたが熱望していることとの間に存在する。

あなたは何かになりたいと望む。
緊張とは、あなたが在る状態に満足せず、そうでないものになりたいと切望していることを意味している。
緊張はこの二つの間に作られる。
あなたがなりたいと望むものは見当違いだ。
もし金持ちに、有名に、有力になリたいと望むなら。
いや、自由になりたい、開放されたい、神のようになりたい、不死になりたいと考えていたとしても、救済やモクシャ(絶対的な開放)を熱望してさえ、緊張はそこに同じように起こるだろう。
あるがままのあなたに反対して、未来に達成されるべく望まれたものは何であれ緊張を作り出す。
理想が不可能であればあるほど、もっとたくさんの緊張が必ず存在する。
だから唯物論者は宗教的な人ほど緊張していない。
なぜなら、宗教的な人は不可能なはるか遠くを切望しているからだ。
その距離はとても大きいので、大きな緊張だけがその間隔を埋めることができる。
緊張はあなたが在るものと、あなたがなりたいと思うものとの間隔を意味している。
間隔が大きくなれば緊張も大きくなるだろう。
もし間隔が小さければ緊張も小さくなるだろう。
そして、もしまったく間隔がなけれぱ、それはあなたが自分で在ることに満足して ることを意味する。
言い換えれば、あなたは自分で在る以上の何ものも望んでいないのだ。
その時あなたのマインドは瞬間に存在している。
そこには緊張すべき何ものもない。
あなたは自分自身にくつろいでいる。
あなたはタオ(道)の中にいる。
もし間隔が存在しなければあなたは宗教的だ。
あなたはダルマ(法)の中にいる。
間隔はたくさんの層を持ち得る。
もしその切望が肉体的であれば、緊張も肉体的になるだろう。
あなたが特別な体、特別な姿を求める時…もしあなたが肉体のレベルで、あるがままのあなたと異なったものを切望していたら…その時あなたの肉体に緊張が存在する。
ある者はもっと美しくなりたいと思う。
さあ、あなたの体は緊張してくる。
この緊張はあなたの第一身体、生理的な部分に始まるが、もし長びいて一定の状態になったなら、それは深くあなたの存在の他の層まで広がっていくかも知れない。

もし、あなたがサイキックな力を切望していたら、緊張はサイキックなレベルで始まリ広がっていく。
その広がリはちょうど、あなたが湖に石を投げ入れた時のようだ。
それは特定の場所に落ちるが、それによって作られた波は限リなく広がっていくだろう。
それで緊張は7つの身体のどれか一つから始まるかも知れないが、最初の源泉は常に同じだ。
すなわち、あるがままの状態と、なりたいと切望する状態の間隔だ。
もしあなたが特別なタイプのマインドを持っていて、それを改めたいとか変えたいと思うなら…その時緊張は作り出される。
私たちが完全に自分自身を受け入れる時だけ緊張は存在しない。
この完全な受容は奇跡、まさに奇跡だ。
自分自身を完全に受け入れている人を見いだすことはまさに驚くべきことだ。
存在それ自身には緊張はない。
緊張は常に仮説的で、実在し得ない可能性のせいで起こる。
現在に緊張はない。緊張は常に未来指向だ。
それは想像から来る。
あなたは自分自身をあるがままとは違う何かとして想像することができる。
この想像する能力が緊張を作り出す。
そして人は想像力がたくましければたくましいほど、もっとたくさん緊張する可能性がある。それで想像力は破壊的になって来た。
想像力は同じように建設的、創造的にもなり得る。
もしあなたの想像する能力全体が、未来でなく現在に、瞬間に焦点が当てられているなら、あなたはあなたの存在を詩として見始めることができる。
あなたの想像力は望みを作らない。
それは生きることに使われている。
この現在に生きることは緊張を超えている。

動物たちは緊張しない。
木々は緊張しない。
なぜなら彼らには想像する能力がないからだ。
彼らは緊張を超えているのではなく、緊張以下なのだ。
彼らの緊張は今の所ただの可能性でしかない。
それは現実になったことはない。
彼らは進化している。
いずれ彼らの存在の中で緊張が爆発し、未来を切望する瞬間が来るだろう。
それは必ず起こる。
想像力は活動的になるだろう。
想像力が活動的になる初めのものは未来についてだごあなたはイメージを作リ出し、そこに現実味がない為にもっともっとイメージを作り出し続ける。
しかし現実に関する限りあなたは想像することはできない。
どうやって現在に対して空想的になれるだろうか、そこには何の必要もないように見える。
この点は理解されなけれぱならない。
もしあなたが現在に意識的でいることができれば、あなたは想像の中で生きてはいない。
その時想像は存在それ自身の内に自由に想像し始める。
正しい焦点だけが必要とされている。
もし想像力が現実の上に焦点づけられたら、それは創造し始める。
創造はいろいろな形をとるかも知れない。
もしあなたが詩人ならば、それは詩の爆発になる。
詩は未来を切望するのではなく、現在の表現となるだろう。
またあなたが画家ならば、その爆発は絵の爆発となるだろう。
絵はあなたが想像した何かを描くというものではなく、あなたが知っていて生きているものになるだろう。
あなたが想像の中で生きていない現在の瞬間はあなたに与えられる。
あなたはそれを表現することもできるし、さもなければ沈黙の中に入っていくこともできる。
その沈黙は今や練習された、死んだ沈黙ではない。
この沈黙もまた現在の瞬間の表現なのだ。
その瞬間はとても深いので、今や沈黙を通してしか表現することができない。
詩でさえも充分ではなく、絵でさえもそうだ。
表現は不可能だ。
この沈黙は否定的なものではなく、むしろ肯定的な開花なのだ。
何かがあなたの中で花開いている。
沈黙の花だ。
そしてこの沈黙を通して、あなたが生きているすべてが表現される。
二つ目のポイントは同様に理解されるべきだ。
この想像力を通した現在の表現は、未来の想像でも過去に対する反応でもない。
それは今までに知られてきたどんな経験の表現 もない。
それは経験していることの経験…あなたがそれを生きているように、それがあな
たの中で起きているように。
生きた経験ではなく、生きている経験のプロセスなのだ。
その時、あなたの経験と、経験しているものは二つのものではない。
それはひとつであり、同じなのだ。
その時絵描きはいない。
経験しているそれ自身が絵になっている。
経験しているものそれ自身が自分を表現している。
あなたは創造する者ではない。
あなたが創造であり、生きたエネルギーなのだ。
あなたは詩人ではない。
あなたが詩なのだ。
存在は未来に向かっているものでも、過去に向かっているものでもない。
未来から来ているものでも、過去から来ているものでもない。
瞬間それ自身が永遠となり、そしてすべてのものが瞬間から来る。
それが開花だ。

この開花は、緊張が7つの層を持っているのと同じように7つの層を持っている。
それはすべの身体にある。
たとえぱもし生理的な部分で起こるなら、あなたはまったく新しい感覚で美しくなる。
この美は形あるものではなく無形のものだ。
そしてもし、あなたが体の中に緊張のない瞬間を感じることができたら、あなたは以前は知らなかった幸福を、積極的な幸福を感じるだろう。
私たちは、私たちが病気ではない時に健康なのだ、というような否定的な幸福の状態を
知っている。
このような健康は単に病気の否定だ。
それはまったく積極的ではなく、単に病気がそこにないだけだ。
医学的な健康の定義は、もしあなたが病気でなければ健康だ、というものだ。
しかし健康は積極的な次元も持っている。
それは単なる病気の不在ではない。
健康の存在なのだ。
あなたの体は瞬間から瞬間への存在を生きている時だけ緊張せずにいられる。
もしあなたが食事をしていて瞬間が永遠となるなら、そこには過去も未来もない。
まさに食事をするプロセスが存在するすべてだ。
あなたが何かをしているのではない。
あなたがしていること、そのものになっている。
そこには緊張はない。
あなたの体は満たされたと感じるだろう。
またあなたが性的交流の中にあり、セックスが性的緊張からの単なる開放ではなく、愛の積極的表現であれば…もしその瞬間がトータルで全体的で、その中に完全に在るならば…その時あなたは体の中で積極的な幸福を知るだろう。
もしあなたが走っていて、走りがあなたの存在の全体になっていたら。
もしあなたが訪れて来る感覚そのものになっていて、その感覚から離れず、それと一体になっていたら。
もし未来がなく、この走りにゴールがなく、走リそのものがゴールだったとしたら…その時あなたは積極的な幸福を知るだろう。
その時あなたの体には緊張がない。
生理的レベルにおいて、あなたは緊張のない生の瞬間を知っている。

そして同じことが7つの身体それぞれに対して真実だ。
体に起こり得る二つのことを知っていれば、第一身体の緊張のない瞬間を理解するのは簡単だ。
病気、積極的な病。
そして否定的に定義づけられた幸福、病気の不在。
これはすでによく知られているが、私たちは三番目の可能性を思いつくことができる。
積極的な幸福、健康。
しかし第二身体、エーテル体に緊張がないことを理解するのはもう少し難しい。
なぜなら、あなたはそれについて何ひとつ知ってはいないからだ。
しかしあることは理解され得る。
夢は基本的に第二身体、工ーテル体に関係している。
私たちが普通夢について話している時、私たちはエーテル体の夢について話をしている。
しかしもし肉体が緊張の中に生きているならば、たくさんの夢がそれによって作られるだろう。
例えばもしあなたが空腹か断食中だったら、その時は特別なタイプの夢が作られる。
これは生理学的な夢だ。
それはエ一テル体に関係してはいない。
エーテル体はそれ自身の緊張を持っている。
私たちはエーテル体を夢の中でだけ知っていて、それゆえエーテル体が緊張していると夢は悪夢になる。
今やあなたは夢の中でさえ緊張することになるだろう。
緊張はあなたについていく。.

エーテル体の初めの緊張は、あなたの欲望の充足に関連している。
私たちは皆愛についての夢を持っている。
セックスは生理学的だが愛は違う。
愛は肉体には全然関係なく、エーテル体に関係している。
しかしもしそれが満たされなけれぱ、そのせいで肉体さえ苦しむかも知れない。
あなたの肉体が、満たされなけれぱならない欠乏を持つだけでなく、あなたのエーテル体も同様に欠乏を持っている。
それはそれ自身の欠乏を持っている。
同じように食物が必要だ。
愛情がその食物だ。
私たちは皆愛について夢を見続けているが、決して愛の中にはいない。
みんなが愛について夢を見ている…どうあるべきか、誰と共にあるべきか…そして皆がその中でくじけている。
未来についての夢を見ているか、挫折の中で過去についての夢を見ているかだ。
しかし私たちは決して愛してはいない。
同じようにエ一テル体には他の緊張もあるが、愛はもっとも簡単に理解され得るものだ。
もしあなたが瞬間の中で愛せるなら、緊張のない状態がエーテル体に作リ出される。
しかし、もしあなたが要求や期待や愛に対する条件を持つなら、瞬間の中で愛することはできない。
なぜなら要求や期待や条件は未来に関連しているからだ。
現在は私たちの仕様書きを超えている。
それは、あるがままにある。
しかしあなたは未来について期待を持つことができる。
いかにあるべきか。
愛も〈べき〉になっている。
それはいつも〈あるべき〉ものについてだ。
あなたの愛が期待や要求ではない時だけ、無条件の時だけ、現在に愛することができる。
同様に、もしあなたが一人の人だけ愛し、他の人を愛さないならば、あなたはけっして現在に愛することはできない。
もしあなたの愛が関係性でありマインドの状態でないならぱ、あなたは現在の中で愛することはできない。
なぜならば、とても微妙にそれもまた条件だからだ。
もし私があなただけを愛することができるというならば、あなたがそこにいない時、私は愛していないだろう。
23時間私は愛さない状態でいて、あなたといる1時間だけ愛するだろう。
こんなことは不可能だ!
あなたはある瞬間愛の状態の中にいて、また別の瞬間愛の中にいる、ということはできな い。

もし私が健康なら、私は24時間健康だ。
1時間だけ健康で、他の23時間不健康でいることなど不可能だ。
健康は関係性ではない。
存在の状態だ。
愛は二人の人間の間の関係性ではない。
それはあなた自身の中の心の状態だ。
もしあなたが愛しているなら、すべての人を愛している…人々だけでなく、同じように物もだ。
愛はあなたから対象へと動く。
あなたが一人の時でさえ、だれもそこにいない時でさえ、あなたは愛している。
それはちょうど呼吸のようなものだ。
もし私があなたといる時だけ呼吸すると誓ったなら、私は死に至るだろう。
呼吸は関係性ではない。
それはどんな関係性にも縛られない。
そしてーテル体にとって、愛はちょうど呼吸のようなものだ。
それはエーテル体の呼吸だ。
だから、あなたが愛しているか、愛していないかだ。
人類が作ってきた愛のタイプはとても危険だ。
病気でさえ、このいわゆる愛が作り出したほど大きなナンセンスは作らなかった。
全人類がこの愛に関する間違った考えのために病的になっている。
もし相手が誰であれ愛することができ、愛の状態の中にいることができるなら、その時あなたの第二身体は幸福の感覚を、積極的な・くつろぎを持つことができる。
その時悪夢はない。
夢は詩となる。
その時何かが第二身体に起こり、その香りはあなたに浸透するだけでなく、他の人にも同じように浸透する。
あなたがどこにいようが、あなたの愛の香りは広がる。
そしてもちろんそれはそれ自身の応答、それ自身のこだまだ。
本当の愛はエゴの機能ではない。
エゴはいつも力を求め、あなたが愛する時にさえ…なぜならあなたの愛は本当ではなく、エゴの一部分でしかないから…暴力的なものとなってしまう。
私たちが愛する時はいつでもそれは暴力であり、ある種の戦争だ。
父と息子、母と娘、夫と妻…彼らは愛する者ではない。
私たちは彼らを敵へと変えてしまう。
彼らは常に戦っており、戦っていない時にだけ私たちはそれが愛だと言うのだ。
その定義は否定的だ。
二つの戦いの間には間隔があり、それは平和の時代だ。
しかし本当は二つの戦争の間に平和が存在する可能性はない。
いわゆる平和は、来るべき戦争への準備にしか過ぎない。
夫と妻の間に平和はなく愛はない。私たちが愛と呼ぶその間隔は、来るべき戦いへの準備でしかない。
私たちは二つの病気の間にある時健康があると考え、二つの戦いの間にある時愛があると
考える。
それは愛ではない。
戦いの間の単なる間隔だ。
24時間戦い続けられないので、あるところであなたは相手を愛し始める。

愛は関係性としてではなく、心のある状態としてしか可能ではない。
もし愛が心のある状態としてあなたを訪れたなら、あなたの第二身体、エーテル体はくつろぎ緊張がなくなる。
それはリラックスする、第二身体の緊張には他にも理由はあるのだが、私はもっとも簡単に理解できるものについて話している。
なぜなら、私たちは愛について知っていると考えているので、それについて語ることができるのだ。
第三身体はアストラル体だ。
それは固有の緊張を持っている。
それはこの生だけではなく、あなたの前のいくつもの生にまで関係している。
第三身体の緊張はあなたが存在してきたこと、そして望んできたことすべてが積み重ねられて起こる。
あなたの望み全体、何千回もの生、そして繰り返されてきた欲望がアストラル体の中にある。
そしてあなたは常に切望してきた!
何を望んだかは問題ではない。
切望がそこに存在する。

アストラル体はあなたの切望全体、欲望全体の倉庫だ。
それがあなたの存在の中で最も緊張している部分である理由だ。
あなたが瞑想の中に入ってゆくと、アストラル体の緊張に気づくようになるだろう。
なぜなら瞑想は第三身体から始まるからだ。
瞑想を通してこれらの緊張に気づき始めた人々は、私のところに来て「私は瞑想を始めてから緊張が増えてしまいました」と言う。
それは増えたのではなく、気づくようになったのだ。
今やあなたは以前気づかなかった何かを知っている。
これらがアストラル体の緊張だ。たくさんの生のエッセンスなので、何か特別な言葉で言い表わすことはできない。
それについて理解され得るようなことは何も言うことができない。
それらは生きられ、知ることができるだけだ。
欲望それ自身が緊張だ。
私たちは何かへの欲望なしでは決していられない。
無欲を望む人々さえいる。
それは完全にバカげたものになる。
第三身体、アストラル体であなたは無欲になることすら望むことができる。
事実無欲への欲望は、最も強い欲望のひとつだ。
それは在ることと在りたいことの間に、一番大きな間隔を作ることができる。
だからあなたの欲望をあるがままに受け入れなさい。
そしてたくさんの生を通して、たくさんの望みを持ってきたことを知りなさい。
あなたはとてもたくさんのことを望んできたので、そのすべては蓄積されてきた。
だから第三身体、アストラル体のために、あなたの欲望をある ままに受け入れなさい。
それと戦わないこと。
欲望に抵抗する欲望を作り出さないこと。
ただそれを受け入れなさい。
あなたが欲望でいっぱいなことを知ってそれにくつろぎなさい。
そうすれば、アストラル体は緊張のない状態になってゆくだろう。
もしあなたがあなたの中で、これらの欲望に抵抗する欲望を持たずに、限りない欲望の群れを受け入れることができるなら、もしあなたが欲望の群れの中に在ることができて…これらはあなたの蓄積された過去全体だが…それらをあるがままに受け入れたなら、もしこの受容がトータルになるなら、その時一瞬の間、群れ全体が消える。
それらはもはやそこにいない。
なぜならそれらはただの欲望であり、そうではないものへの絶え間ない欲望の背景に対して存在していただけだからだ。

欲望の対象は問題ではない。
それは無関係だ。
無欲であろうと、望むなら背景はそこにある。
群れ全体がそこにあるだろう。
もしあなたが欲望を受け入れるなら、無欲の瞬間が作り出される。
あなたは自分の欲望をあるがままに受け入れる。
今やそこに望むべき何ものもない。
あなたはすべてをあるがままに、あなたの欲望でさえも受け入れる。
その時欲望は蒸発する。
それについてなされるべきことは何もない。
アストラル体はくつろぎ、積極的な幸福の状態に至る。
その時だけあなたは第四身体へ進むことができる。
第四身体はメンタル体だ。
アストラル体に欲望があるのと同じように、メンタル体には思考がある。
否定的思考やそれらの群れ全体、全体としてそれ自身を主張する各々の思考や、あたかも全体であるかのようにあなたを支配する各々の思考。
そこで第四身体の緊張は思考によって作り出される。
思考なしで存在すること…眠らず、無意識にならず、しかし思考のない意識を持って…は第四身体の健康であり幸福だ。
しかしどうやって意識を持って思考を持たずにいられるのか?

毎瞬新しい思考は作られている。
毎瞬あなたの過去の何かは、現在のそれと戦うためにやって来る。
あなたは共産主義者だった。
そして今やあなたはカトリック教徒で、何か他のものを信じている。
しかし過去は未だそこにある。
あなたはカトリック教徒になることはできるが、あなたの共産主義を投げ捨てることはできない。
それはあなたの中に残る。
あなたは思考を変えることはできるが、しまい込んだ思考は常にそこで待っている。
あなたは忘れ去ることはできない。
それらはあなたの奥深くに届き、無意識に入り込む。
それらはあなたがしまい込んでしまったが故に、あなたの前に姿を現さない。
しかしそれはそこに残り、機会をうかがっている。
そしてその機会は来るだろう。
24時間の間でさえ、あなたは再び共産主義者になり、そしてまた力トリック教徒になる。
これは果てしなく続き、行きつ戻りつし、その結果全体が混乱になつてしまう。
だからメンタル体にとっての緊張は混乱を意味する。
…否定的思考、否定的経験、否定的期待…そして最終的に混乱したマインドになる。
混乱したマインドは、混乱を超えようとすればするほどもっと混乱するようになる。
なぜなら、混乱した状態から、混乱のない状態へなど達することはできないからだ。
あなたは混乱している。
精神的探求はあなたの混乱に新たな次元をつくり出す。
他のすべての混乱が依然としてそこにあるまま、新たな混乱がまた付け加えられる。
あなたはこのグル(導師)に会い、次にあのグルに会い、さらにまた次のグル、そして各々のグルはあなたに新しい混乱を運んでくる。
古い混乱はそのままそこにあり、新しい混乱がそこに付け加えられる。
あなたはまるで精神病院だ。
そしてこれが第四身体に、メンタル体に起こることだ。
さあ核心だ、この混乱が緊張なのだ。
どうやったら混乱を終わらせることができるだろうか?
あるひとつの考えを、他の考えの方が好きだからといって否定しない時、何ひとつ否定しない時だけ…もし宗教が好きだからといって共産主義を否定しないなら、もし無神論が好きだからといって神を否定しないなら、あなたは混乱を終わらせることができる。
もし考えることをすべて受け入れるなら、そこに混乱がつくられるべき選択の機会はまったくなく緊張は消え失せる。
もしあなたが選択し続けるのなら、あなたはあなた自身に緊張をつけくわえ続けることになるだろう。
気づきは無選択であるべきだ。
あなたは自分の思考プロセス全体、混乱全体に気づいていなけれぱならない。
あなたが気づいた瞬間それらすべてが混乱なのだと知るだろう。
選択すべきことは何もない。
選択で築き上げた家全体が捨てられなければならない。
一度それがただの混乱だと知ったら、その家はいつでも捨て去ることができる。
それを捨てることには何の問題もない。
だから、あなたのマインド全体に気づき始めなさい。
選ばずに無選択でいなさい。
「私は無神論者だ」とか「有神論者だ」とか言わないこと。
あなたが時には無神論者、時には有神論者、時にはクリスチャン、時には共産主義者、時には聖者、時には罪人であることにただ気づきなさい。
あなたは時にはある観念が気に入り、時には他の観念が気に入るが、これらはすべて気まぐれだ。

完全にそれに気づいていなさい。
自分のマインドのプロセス全体に気づくようになったまさにその瞬間が、無自己の瞬間だ。
その時あなたはマインドによって自己同一化していない。
初めてあなたは意識として、マインドとしてではなく自分を知る。
マインド自身はあなたにとって対象になってゆく。
他の人々や部屋の家具に気づくのと同じように、あなたはマインドに、精神作用のプロセスに気づくようになってゆく。
今やあなたはこの気づき…マインドによって自己認識されていない気づきそのものなのだ。
第四身体、メンタル体のむずかしさは、私たちがマインドによって自己認識しているという点にある。
例えばあなたの体が病気の時、誰かが「あなたは病気だ」と言ったとしても、あなたは感情を傷つけられたとは思わないだろう。
だがもしあなたのマインドが病気で、誰かが「あなたのマインドは病んでいる」、「あなたは狂っているのではないか」と言ったならあなたは傷つく。
なぜだろうか。

誰かが「あなたの体は病気のようだ」と言う時、あなたは彼が自分に同情しているような感じがする。
だがもし誰かが精神的な病気について何かを言うとしたら、例えばあなたはマインドに関する限り常軌を逸している、精神病だ、などと言うとしたら、体よりマインドに深く自己同一化している故にあなたは怒り出すだろう。
あなたは自分自身がこの肉体そのものではないと感じることもできるし、「これは私の手だ」と言うこともできる。
しかし「これが私のマインドだ」と言うことはできない。
なぜなら、あなたは「私のマインドは私そのものだ」と考えているのだから。
もし私があなたの肉体を手術したいと思ったらあなたはオーケーするだろう。
だがあなたのマインドを手術することには同意しない。
あなたは「いいや、これはあんまりだ。私の自由は失われてしまう!」と言うだろう。
マインドはとても深く自己同一化されている。
それが私たちだ。
私たちはそれを超える何ものも知らないので、それによって自己認識しているのだ。
私たちは肉体を超えた何を知っている。
それはマインドだ。
だから肉体で自己認識しない可能性が存在する。
しかし私たちはマインドを超えた何ものも知らない。
あなたが思考に気づくようになった時だけ、マインドがただのプロセスで、蓄積でしかないことを知るようになるだろう。
それは機械装置、倉庫、過去の経験を処理する装置、過去に学んだもの、過去の知識だ。それはあなたではない。
あなたはそれなしで存在できる。
マインドは操作できるし、変えることもできる。
それはあなたから投げ出され得るのだ。
そして今や新しい可能性がそこにはある。
いつかあなたのマインドさえ、誰か他の人に移されることが可能になるだろう。
心臓が移植されるように、遅かれ早かれ記憶が他人に移植されるようになる。
その時死んでいく人は完全には死なない。
少なくとも彼の記憶は守られ、新しい子供に移されることができる。
そしてその子供はその人の記憶全体を得、自分が通過しなかった経験について語るだろう。
死んだ男が知っていたことは何であれ、その子供は知っている。
なぜならその男のマインド全体が彼に与えられているからだ。

これは危険な感じがするので私たちはそれを認めないだろう。
なぜなら私たちのアイデンティティが失われてしまうかも知れないからだ。
私たちはマインドなのだ!
しかし私にとってその可能性は大きな力となりうる。
新しい人間性がそこから生まれ出てくるかもしれない。
私たちはマインドが自分自身ではないが故に、マインドに気づくことができる。
それは「私」ではない。
マインドは腎臓が私の体の一部であるのと同じように存在する。
新しい腎臓が与えられ、何の変わりもなくなおも同じ人間であるように、移植されたマインドを持って、何の変化もなく生き続けることもできるのだ。
古いままの私であり続けることもできるが、新しいマインドを加えて生きることもできる。
マインドも機械装置なのだ。
しかし、私たちの自己認識がマインドによるために緊張は作られる。
第四身体にとっては気づきは健康で、気づきのない状態が病気なのだ。
気づきには緊張がなく、気づきのない状態が緊張なのだ。
思考の為に、それによるあなたの自己同一化の為に、あなたは思考の中で生き続け、あなたとあなたの実存的存在との間に壁が作られる。
あなたの手の届くところに花はある。
しかしあなたがそれについて考えるために、決してその花自体を知るには至らないだろう。
その花は死に、あなたはそれについて考え続けるだろう。
考えることは、あなたとあなたの経験の間に薄い膜、透明な、しかしそれほど透明ではない、ただの幻影でしかないものを作り出してきた。
例えばあなたは私の話を聞いている。
しかしそれは、本当にあなたが聞いているのではないのかも知れない。
もしあなたが私の言っていることについて考えているのなら、あなたは聞くのをやめている。
その時あなたは前行ったり、後ろに行ったりしている。
あなたは私と共にいないのだ。
あなたがマインドで繰り返している過去であれ、過去を通した未来の投影であれ、それは私の言っていることではない。
あなたは私の言ってきたことを、ただ言葉通りに繰り返すこともできる。
あなたのメカニズムはそれを記録している。
それは私が言ってきたことを繰り返すことができ、再生することができる。
あなたは「もし、私があなたを聞いていないのなら、どうやって再生できるのか」と主張するかも知れない。
しかしテープレコーダーは私を聞いていない。
あなたのマインドはまるで機械のように働き続けるだろう。
あなたは存在しているかも知れないし、していないかも知れない。
あなたは必要とされていないのだ。
あなたは考え続けることもできるし、聞き続けることもできる。
マインド…第四身体、メンタル体…は防壁になる。

あなたとそこにあるものの間には防壁がある。
あなたが触れようとする瞬間、あなたは経験から遠ざかってしまう。
あなたが見ようとする瞬間、あなたは遠ざかる。
私は私の手であなたの手をとる。
これが実存的なことだ。
あなたはそこにいないかも知れない。
その時あなたは見失う。
あなたは知っている…あなたは触れ、経験した…しかしあなたは思考の
中にいた。
第四身体では、人は全体としてとらえた思考のプロセスに気づかなければならない。
選ぶことなく、決定することなく、判断することなく、ただそれに気づいていなさい。
もしあなたが気づくようになれば、自己同一化しなくなるだろう。
そして、マインドというメカニズムで自己同一化しないことが緊張のない状態なのだ。
第五身体はスピリチュアル体だ。
スピリチュアル体に関する限り、自分自身に対する無知こそがその緊張だ。
あなたが存在する時はいつでも、自分自身を知らないことを完全に知っている。
あなたは人生を通り過ぎて行くだろう、あなたはあれこれやるだろう、あなたはそこここに到達するだろう。
しかし自己に対する無知の感覚はずっとあなたと共にある。
それはあなたの陰に潜み続ける。
あなたがいくら忘れようとしても、常に道連れとしているだろう。
あなたは自分の無知から逃げ出すことはできない。
あなたは知らないということを知っている。
これが第五レベルにおける病なのだ。

デルフォイで神殿に〈汝自身を知れ〉と書いた人々は第五身体に関心があった。
彼らはそれに働きかけていた。
ソクラテスはずっと繰り返していた、「汝自身を知れ」。
彼は第五身体に達していた。
第五身体にとってはアトマ・ギヤナ(atoma gyana)、自己知だけが知識だ。
マハヴィーラは「自分自身を知ることによって人はすべてを知る」と言った。
そうではない。
人は自分自身を知ることによってすべてを知ることはできない。
しかし反対のことは正しい。
自分自身を知らなければ、人は何ひとつ知ることはできない。
だからこれとバランスを取るためにマハヴィーラは「自分自身を知ることによってあなたはすべてを知るだろう」と言った。
たとえ私がすべてを知っていても、もし私が自分自身を知らなければ何の役に立つ?
もし私が自分自身さえ知らないとしたら、どうやって根本を、基礎を、究極を知ることができるのだ?
それは不可能だ。
だから第五身体では、知ることと無知の間に緊張が存在する。
しかし覚えておきなさい。
私は知ることと、無知について言っているのだ。
私は知識と無知の話をしているのではない。
知識は教典から集めることができる。
知ることはどこからも集められない。
知識と知ることを取り違えるこの誤った考えのもとに操られている、非常に多くの人々がいる。
知ることは常にあなたのものだ。
私はあなたに自分の知っていることを移すことはできない。
私ができるのは知識を移すことだけだ。
教典は知識について語り、知ることについては語らない。
あなたは神聖だ、あなたはアートマンだ、あなたは自己だ、と教典は述べることができるが、これは知ることではない。
もしあなたがこの知識にしがみつくなら大きな緊張が存在する。
無知は偽りや獲得した知識や情報…借り物の知識と共に存在し続ける。
あなたは無知なままだろうが、自分は知っていると感じるだろう。
そうした時多くの緊張が存在する。
無知で、完全に「私は無知な人間だ」と知っている方がまだ良い。
その時も緊張はあるが、それほど大きくない。
もしあなたが他人から得た知識で自分を惑わしていないなら、あなたは自分自身の中を探し
求め、調べることができ、知ることが可能になる。
あなたは存在しているから、これだけは確かなことだ。
あなたが何者であれ、あなたは存在する。
これは否定できない。
もう一つのことだが、あなたは知ることができる誰かなのだ。
あなたは違うことを知っているかもしれないし、ただの妄想を知っているかもしれ
ない。
あなたの知っていることは正しくないかもしれない。
だがあなたは知っている。
それゆえに、二つのことが当然のこととなるのだ。
それはあなたの存在とあなたの意識だ。
しかし第三のことは欠けている。
人の本質的な人格は、次の三つの次元を通して考えられ得る。
存在、意識、そして至福…サッチタナンド(satcht-anand)だ。
私たちは自分が存在そのものだと知っており、私たちは知ることのできる何者かであるということ…意識そのものだということを知っている。
至福だけが欠けている。
しかし、もし自分自身の中を探すなら、あなたは三番目のことも知るだろう。
それはそこにある。
至福に満ちていることや、存在することのエクスタシーがそこにある。
そしてあなたがそれを知る時、自分自身を完全に知るだろう。
あなたの存在、あなたの意識、あなたの至福を。

もし至福を知らないならば、自分自身を完全に知ることはできない。
なぜなら、至福に満ちていない人は自分自身から逃げ続けるだろうからだ。
私たちの人生全体は私たち自身からの逃走だ。
他人は逃走を手助けしているという点で、私たちにとって象徴的だ。
これが私たちすべてが別のところを目指している理由だ。
もし人が宗教的になったとしても、人は神を他のものとして作り出す。
彼は再び別のところを目指すようになり、同じ誤謬が繰り返される。
だから第五身体で人は、自分自身を内側から探さなければならない。
これは探求ではない。
〈探求の中に存在する〉ことだ。
あなたが必要なのは第五身体までだ。
第五身体を超えれば物事は簡単に、自発的になる。
第六身体はコズミック体だ。
その緊張はあなた…あなた個人の感覚、限界の感覚…と無限の宇宙との間にある。
第五段階でさえ、あなたはスピリチュアル体の中で形がある。
あなたは人だろう。
その〈人〉は第六身体にとっては緊張となる。
宇宙に対して緊張のない存在となり、宇宙とひとつになるためには、あなたは個人であることをやめなくてはならない。

イエスは「自分自身を失う者は自分自身を見出だすだろう」と言う。
この言葉は第六身体に関係している。
それは完全に非数学的なので、第五身体まででは理解できなかった。
しかし第六身体からは自分自身を失うこと、これだけが数学的で合理的可能性なのだ。
私たちは自分自身を高め、結晶化させてきた。
第五身体までは、結晶化、個であること、個性は運ばれ得るものだった。
しかし誰かが個であることを強いるなら、彼は第五にとどまるだろう。
多くのスピリチュアルな体系が第五で止まっている。
魂は固有の個性を持っていて、その個性は開放された状態でさえ残る…あなたは個人であり、あなたの個人性が具現化された存在だと言う人々、またそう言っているどの体系も皆第五で止まる。
そのような体系の中では、神のどんな概念もあり得ない。
それは不必要だ。
神の概念は第六身体でしか訪れない。
〈神〉は宇宙的個人を意味するが、宇宙的無個人と言った方がもっと良いかもしれない。
それは〈私〉が存在しているということではなく…それは私の内側にあって、私の存在を可能ならしめてきたものすべてなのだ。
私はただの点であり、存在の無限の連鎖の中にあるひとつの鎖だ。
もし太陽が明日昇らなければ、私も存在しないだろう。
私は存在から消え、その炎は消滅するだろう。
私は太陽が存在するが故にここにいる。
それはとても遠くにあるが、なお私とつながっている。
たくさんの惑星が死んだように、もし地球が死ぬのならば、私は自分の命が地球の生命とひとつであるために生きていけないだろう。
すべてのものは存在の鎖の中で存在している。
私たちは島ではない。
私たちは大洋なのだ。
第六では個の感覚だけが大洋の感覚…限界のない、始まりも終わりもない、〈私〉ではなく〈私たち〉という感覚…に抵抗する緊張なのだ。
そして〈私たち〉はすべてを含んでいる。
人々だけでなく、有機体だけでなく、存在するものすべてをだ。
〈私たち>は存在それ自身を意味する。
だから〈私〉は第六では緊張となる。
どうやってあなたは〈私〉を失くし、どうやってエゴを失くすことができるのか?
あなたはたった今理解することはできないだろうが、もし第五に到達したならばそれは簡単になる。
それはまるで、気に入ったオモチャをどうやったら投げ捨てられるか思いつかない子供のようなものだ。
しかし子供時代が終わった瞬間、オモチャは投げ捨てられる。
彼は二度とそれに戻らない。
第五身体まではエゴはとても重要だが、第五を超えるとそれは子供が遊んでいたオモチャのようなものになる。
あなたはただそれを投げ捨てる。
何の困難もない。

もしあなたが突然の光明としてではなく、緩やかなプロセスとして第五に到達したならば、ただ一つの困難がある。
〈私〉を第六で完全に投げ捨てることは難しくなる。
そう、第五を超えてからは、すべてのプロセスが不意であることが助けになる。
第五以前は緩やかなプロセスがより簡単に思える。
が、第五を超えたらそれらは障害となるだろう。
そういうわけで、第六では緊張は個と大洋の感覚の間に存在する。
しずくが海になるためには自分自身を失わなければならない。
それは自分自身を本当に失うわけではないが、しずくの立場からはそう見える。
それどころかしずくが敗けた瞬間、大洋が勝つ。
しずくが自分自身を失うというのは正しくない。
今や大洋になったのだ。
第七身体はニルヴァーナ体だ。
第七身体の緊張は存在と非在との間にある。
第六で探求者は自分自身を失う。
彼は存在する…個人としてではなく宇宙的存在として。
存在はそこにある。
第六で止まる哲学や体系がある。
それらは神やモクシャ、自由で止まる。
第七は存在さえ非存在の中へ失うことを意味するのだ。
それは自分自身を失うことではない。
それはただ失うことだ。
実存は非存在となる。
その時あなたはすべての存在が出てきて、その中へと帰って行く最初の源泉にたどり着く。
存在はそれから出て来た。
非存在はそれに帰って行く。

存在それ自身は形相に過ぎない。
それは帰らなければならない。
ちょうど昼が来て夜になり、夜が来て昼が続くように。
存在が来て非存在が続き、非存在が来て存在が続くのだ。
もし人が完全に知るようになったならば、彼は非存在から逃げてはならない。
もし彼が完全な環を知るようになったなら、彼は非存在にならなければならない。
コズミック体でさえ完全ではない。
なぜならば非存在はそれを超えているからだ。
だから神でさえ完全ではない。
神はブラーフマのただの部分でしかない。
神はブラーフマンそれ自身でない。
ブラーフマンはすべての光と闇が結びつけられ、生と死が結びつけられ、存在と非存在が結びつけられているという意味だ。
神は死ではない。
神は生命でしかない。
神は非存在ではない。
神はただの存在だ。
神は闇ではない。
神はただの光だ。
彼は完全なる存在のただの部分であり完全ではない。
全体を知ることは無になることだ。
無だけが全体性を知ることができる。
全体性は無であり、無だけが全体性なのだ…第七身体にとっては。
だから、これらは生理学的身体に始まる七つの身体の緊張なのだ。
もしあなたが生理的緊張を理解し、その開放とその至福を理解したならば、あなたは簡単に七つの身体すべてに進むことができる。
第一身体にくつろぐことの理解は、第ニヘの踏み台になる。
そしてもし第二について何か理解するならば、緊張のない工ーテル体の瞬間を感じるならば、その時あなたは第三への一歩を踏み出す。
各々の身体の中でもしあなたが幸福で始めるなら、次の身体への扉は自動的に開く。
しかしもしあなたが第一身体で挫折した場合、次の扉を開くことはとても難しくなる、不可能にさえなる。
だから第一身体で始め、他の六つの身体について全く考えないように。
肉体で徹底的に生きなさい。
そうすればあなたは突然新しい扉が開くのを知るだろう。
その時こそ先に進みなさい。
だが絶対に他の身体のことを考えてはいけない。
さもないとそれは妨げになるだろうし、緊張を生み出すだろう。
だから、私が言ってきたことは何であれ…
…忘れてしまいなさい!
『THE PSYCHOLOGY OF THE ESOTERIC 秘教の科学』
第八章「BECOMIG AND BEING」 了
『THE PSYCHOLOGY OF THE ESOTERIC』 OSHO
1.INWARD REVOLUTION
2.THE MYSTERY OF MEDITATION
3.SEX, LOVE AND PLAYER
:THREE STEPS TO THE DIVINE
4.KUNDALINI YOGA
:RETURNING TO THE ROOTS
5.ESOTERICGAMES
:A HINDRANCE TO GROWTH
6.THE PSYCHOLOGY OF DREAMS
7.TRANSCENDING THE SEVEN BODIES
8.BECOMIG AND BEING
9.THE FALLACY OF KNOWLEDGE
10.WINDOWS TO THE DIVINE
11..RIGHT QUESTIONING
12.BARANCING THE RATIONAL AND THE IRRATIONAL
A REBEL BOOK