養生書「寝ぬ夜の夢」を読む


養生書「寝ぬ夜の夢」を読む


昔買った古書の中に、昭和十三年発行「療養聖典」伊藤康善/編 自然良能社/刊 という本があります。
療養に役立つ数々の古典の抄出からなる編纂本ですが、時々読み返しているお気に入りの一冊。
いつも拾い読みするのですが、今回は今まで気づかなかった編で、なおかつ共感するものがあったので、転載しつつ読んでみることにします。


柳井三碩著「寝ぬ夜の夢」抄出

 

(※編者注)

柳井三碩は徳永末期の醫師なれども傳記は詳かならず。

本文は東海道旅行記に寄せて養生を論じたるものなれど、殊に益軒の「養生訓」の意味を強化せる點が面白しと思ひ茲に抄出せり。

 

正徳の年ごろ貝原篤信翁といへる人、「養生訓」を著はして今世に流布す。

されど其をしへて守る人は甚だ稀なり。

また能くその言ふ所を守り明け暮れ養ひ拘(かか)れる人、却って多くは多病をまぬがれず。

これ如何。

翁曰く、養生訓の術(すべ)に拘(かか)はれる人は枉(まげ)て是をなす者は氣屈してのびず、多病なるもうべなり。

これ道に遊ぶことを知らずして徒に術(じゅつ)に依って長生せんと思ふなり。

毫厘の差(たが)ひ謬(あやま)りて千里を以てするものか。

 

(評註)

古人が益軒の養生訓を座右の銘とせるはまだ良し。

養生訓は衛生醫學を論じ忍耐節制の道徳を教へたる好著なれば也。

現代人に至っては新聞雑誌の療病知識を借りて病に對して狼狽すること笑止に過ぎたり。

素人には役にも立たぬ醫書抜きて、あれこれと自己診断に惑ひ、足を空に浮かせて藥局の店頭に走る。

野菜スープに過ぎざる漢藥か、モヒの毒藥を盛る洋藥か、好む所に随って右往左還し、醫者の門を叩く時は既に病は九分通り快癒せる時か、然らずんば命旦夕に迫る時なり。

早死する時は自己の天命を思はずして却って醫藥を恨むなり。

古人既に「養生訓」にすら捉はる。

今人醫藥に捉はるる愚を笑ふべからずと雖も、主客轉倒せる療養知識も亦憐むべし。


柳井三碧を検索してみると、この「寝ぬ夜の夢(ねぬよのゆめ)」の情報しかありませんでした。
1802(享和二)年に出ています。

貝原益軒著「養生訓」もそうですが、ぼくの好きな「和漢三才図絵」も「寝ぬ夜の夢」の90年前の1712年。
「導引口訣鈔」もほぼ90年前の1713年。
図解入り按摩ハウツー本「按摩手引」が同じ頃の1801年です。
この数年後に、日本独自の骨接ぎ(整骨)本が出版されはじめます。
そんな時代ですね。


正徳年間に貝原篤信翁という人が「養生訓」を書き、今世間で広く読まれている。

しかしその教えを守り行っている人はほとんどいない。

というか、その教えを朝な夕なにかけてこだわって養生している人は、逆にその多くが多病を患っている。

これは何故だろう。

翁は言う。

養生訓に書いてある方法にこだわる人、無理をして行っている人は気が鬱屈してのびのびせず、多病になるのも当たり前だ。

人生をのびのび生き生きと愉しむことも知らず、あざとくも養生ハウツーに頼って長生きしようと望んでいるのだから。

ほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに。


こんな感じでしょうか。

『氣屈してのびず、多病なるもうべなり。』
感覚的に、病(やまい)=こだわり=気が鬱屈、と思っているのですが、サクッと語ってくれていますね。

『道に遊ぶことを知らずして徒に術に依って長生せんと思ふなり』
「道に遊ぶ」はごくシンプルに、人生をのびやかに愉しむ、でよいと思います。
「術によって」は、理論や方法論、ハウツーみたいな、生(なま)の感覚や感性とは対極にあるもの。
「道に遊ぶ」は生の感覚や感性から為されるものですからね。

シンプルで深い文章です。(^^)

ちなみに、編者の評註も、現代でもそのまま当てはまる痛快な文章です。


養生書「寝ぬ夜の夢」を読む



彼の「養生訓」に書ける内慾をこらへよ、外邪を防げ、飲食はうすくせよ、色慾はこらへよ等の事みなこれ術(すべ)なり。

行ふを惡しきといふにはあらず、道に遊ぶことを知らざれば必ず拘(かかは)るに至る。

拘(かかは)るが故に元氣鬱滞す。

鬱滞すれば、血氣の流行よぞむ。

表と裏との氣通ぜず、上と下との氣交らず、表裏通ぜざれば天地生育の化を我にうくる事得ず。

上下まじはらざれば我腔内の精氣、五臓百骸をやしなふこと能わず、外閉じれば病外より生じ、内塞がれば病内に生ず。

此故に養生に拘(かかは)る人身(じんしん)却って衰弱なり。

試に田野の人を見よ。

偶然として百歳にわたる者多く、あながち美食せざるのみにあらず、その心、無我にして知らず識らず道に遊ぶことを得ればなり。

 

「養生訓」に書いている"内欲をこらえなさい、外邪を防ぎなさい、飲食を少なくしなさい、色欲をこらえなさい"等の事柄はすべてガイドに過ぎない。

これらに従うことが悪いとはいわないけれど、道に遊び人生をのびのびと愉しむことを知らなければ、必ずこだわることになってしまう。

こだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうのだ。

生命活動の源である元気が鬱滞すれば当然気血の流れは澱むだろう。

表と裏の気が交流せず、上と下の気が交わらず、表裏交流しなければ天地の有機的生成変化を我が身に受けることは出来なくなる。

上下が交流しなければ、体内の精気、五臓やあらゆる骨を栄養することが出来ず、外が閉じれば病は体表から生じ、内が塞がれば病は体内から生じる。

このようにして養生にこだわる人の身体はかえって衰弱しているのだ。

試しに世間の人を見てみるとよい。

偶然百歳になった人が多く、あながち美食をしないというだけではなく、その心中は無我であり意識せずに道に遊びのびのびと愉しんでいる。

 

前回に続いて、この段落でも術や方法論にこだわることが気の鬱滞や病を招き、道に遊ぶことの大切さを語っています。
秘訣は、術にこだわらず道に遊ぶことのようですが、これを説明するのは難しいですよね。

前回も今回も「道に遊ぶ」を気が鬱滞するような「術にこだわる」に対比させて「人生をのびのび愉しむ」という風に表現してみましたが、これだけでは伝わりません、おそらく。(^^;

「術にこだわる」を"考える"ということにしてもよいかも知れません。
人生をあらかじめ考えたように送る、という表現にすれば文脈的にも合っていそう。
例えば「〜すべきだ」「〜するのが正しい」という教条的な捉え方。
人は生(なま)ものですから、このようなハウツー的教条的な枠に縛り付けて人生を送っていれば、必ず破綻をきたすことは目に見えています。

片や「道に遊ぶ」は内発的感性や感覚主導で生きるということになります。
指針はすべて自らの内側から湧いてくるのですから、予測不可能でありながらも生き生きとしています。
自分の感性、感覚でありながら、あたかも第三者であるかのようにそれらを観察する観察者の目を持つ必要があります。
こう書くとなんだか難しく思えますが、まぁ、単純に自らに対して"より意識的になる"ということです。
100%意識的になる必要なんかはなくて、"より意識的に"、"出来るだけ意識的に"というベクトルこそが大切なんだと思います。

「寝ぬ夜の夢」でも、この先もう少し角度を変えながらこの辺のことを語ってくれると思うので(しっかりとはまだ読み込んでいない(^^ゞ)、ゆっくりと進んでいきましょう。(^^)


養生書「寝ぬ夜の夢」を読む


道に遊んで長生せんとおもひ給はば、却ってまづ生死を捨給へかし。

生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。

これ天命に安んずといふ。

天命に安んずるは、すでに道に遊べるなり、其胸中ここに豁然たらば、など元氣の屈伏せる事のあるべき。

元氣融通無碍にして天地の生育の化を蒙らば、などうくるほどの天命を盡さざらん。


道に遊んで長生きしようと思うのならば、逆に長生きしよう死から逃れようとする思いを捨てなさい。

生死を捨て、生死をすべて天命に任せ、私(わたくし)を用いずに生きるということ。

これを天命にくつろぐというのだ。

天命にくつろげば、それは既に道に遊ぶことであり、その胸中は迷いがなく爽やかで、元気が鬱屈するということもない。

元気が融通無碍にのびやかで天地のエネルギーを存分に浴びていれば、どうしてこの天命を尽くさないということがあるだろうか。

 

この段では、道に遊び長生きするにはどうすればいいかが述べられます。
柳井三碩さんは、まず、なにはともあれ「生死を捨給へかし」と言います。

「長生きしたい」というこだわりは、「死から逃れたい」という恐怖心から起こるのだと思います。
恐怖ゆえに安全を求め、養生訓などの養生や健康法にこだわり、「これさえ続けていれば大丈夫」という保証を手に入れる。
この安全への保証は根深いものがあって、現実をありのままに受け容れることからぼくたちを遠ざけています。
「〜していれば大丈夫」や「〜であるべきだ」、または「〜が正しい」と固定し保証を得る。
このように固定、規定してしまえば、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動きに関係なく一定した方法論がある訳ですから、わかりやすくて安全です。

でも柳井三碩さん、このことに関しては最初から「そういう風にこだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうんだよ。知らないだろうけれど、そういったほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに」と警告しています。
安全を求める為に固定した方法論を手に入れたのだろうけれど、そもそものその安全を求める心が思い違いなんだよ、と言っているようです。

生まれたらいつかは死にます。
それは、人生のありのままの現実です。
まずは、それを理解しようとすること。
丸ごと受け止められないかも知れませんが、理解しようとは思えるはずです。
「死から逃れよう」と考えるのではなくて、「いつか死ぬということを理解しよう」と考えてみる。
そんな些細な違いが大きな違いになるのだと思います。

そして、いつかは死ぬと理解しようとした時。
(えと、いつでもとっても大切なことは「100%理解出来た」とか「どれだけ理解出来たか」ではなくて、そうしようと心のベクトル(向き)を向けるということです)
いつかは死ぬと意識しはじめた時、「何が何でも死から逃れたい」というトンチンカンな私(わたくし)が激減します。
安全な保証にばかりこだわっていた意識が、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動き、"現実"にも開かれるようになります。

現実の生(なま)の自分は、常に変化し続けています。
その想い、興味、好奇心は常に湧き出し、流れ、一定することはないです。
それを大切に育み、機会があれば表現し、生きること。
それが柳井三碩さんの言う「生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。これ天命に安んずといふ」なのだと思います。

さて、こだわりなく、自分の内側から湧き出す内発性(想い、興味、好奇心)を育み、それに従って生きるということは、それは既に「道に遊ぶ」ということであり、その胸中には迷いや澱みもなく爽やかで、元気が鬱屈するということもはありません。
「天命を全うする」という言葉がふさわしいですね。


だんだん面白くなってきましたが、次の段がちょっと難しいです。
手持ちの「療養聖典」にある「寝ぬ夜の夢 抄出」ですが、「抄出」とあるので、掲載してある段落それぞれが連続した段落なのか、飛び飛びにピックアップした段落なのか不明です。
この次アップするのは、少し先になりそう。(^^;


 

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