嬉遊笑覧 巻六・音曲


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2011-12-18


原文デジタルデータ。→「嬉遊笑覧」巻六・音曲

次にいふ按摩は[(大宝律)令]の典藥寮條下に師二人、博士一人、生十人、と見えたり
接骨もこのわざなり
[榮華物語]
-布引の瀧-み奉らせ給てなかせ給ひければおとと
-宇治殿-はなになくいたきところやある
-東宮の給ふなり白川天皇なり-はらとりの女にとらせかしわれもさこそはすれ
と有はらとりは按摩なり
[續五元集]あんまとり貴人頭上もはりまはす座禪の影を正うつしなり
[松の葉]あくしよ八景「かふろやり手にたいこ持ごぜやざとうにあんまとり

按摩とり笛をふく事[太平樂府]に河東夜行、
按摩痃癖、笳を吹き去る、饂飩蕎麥火を焚き行く
是明和六の撰なりこの頃めづらしきことともいふにや
江戸は其の後天明七年[狂詩諺解]に按摩の笛を吹くは近ごろの事なりといへり
[甌北集]に兒童敲背詩あり
兒童娯我度良宵、如蕨拳軽把背敲
一个分西瓜八片、阿翁大費爲酬勞
次に云う[雲谷臥餘]に朱少章名辨と云もの建炎年中金の國に使に行て
灸二百餘壯をすへたる中に排律二十韻を作れり
その内の句に煙微初灸手、氣烈漸讃皮、ここにて世俗初めの三壯を皮きりと云う
是なり

足力[福富雙紙]に嫗か夫の腰を踏む處あり



古事類苑・方技部十二・醫術三

按摩科

原文デジタルデータ→「皇都午睡」 「楽翁公遺書」 「按腹図解」(本サーバ内原書資料)

[皇都午睡 三編上] 江戸にては、(中略)按摩をもみ療治

[老の教]導引はあしからず、心に任すべし、夜など寝たし、朝など寒きをもつとめて、
あんまをせんより、暖にして、安寝するにしくはなし、

[善庵随筆 一] 導引スルコトヲを、熊教ト云コトハ、荘子ニ、吹吼呼吸、吐故納新、
熊經鳥申、爲壽而已矣、此導引之士、養形之人、彭祖壽考者之所好也トアリテ、淮南
子ニ如鴻之好聲熊之好經トイヘル如ク、熊ハ、經ヲ好ナルモノユヘ、名ケシニテ、後
漢書華陀傳ニ、古之仙者、爲導引之事、熊經鴟顧、引挽腰體、動諸関節、以求難老、
注、熊經、若熊之攀枝自懸也トハ、誰モヨク知レルコトナレドモ、雲笈七籖ニ、漢時
有道士君倩者、爲導引之術、作猿經鵄顧、引挽腰體、動諸関節、以求難老ト、猿經ノ
字奇ナラズヤ、

[三国志 魏二十九方技] 華陀、字玄化、(中略)精方薬、其療疾、合湯不過數種、
(中略)廣陵呉普、彭城樊阿、皆従佗學、普依準佗治、多所全濟、佗語普曰、
人體欲得勞動、但不當使極彌、動揺則穀氣得消、血脈流通、病不得生、譬猶戸樞不朽是
也、是以、古之僊者、爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸関節、以求難老、吾有一
術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猿、五曰鳥、亦以除疾、並利蹄足、以
當導引體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體軽便、腹中欲食、普施行之、
年九十除、耳目聡明、歯牙完堅、

[備急千金要方 二十七養性] 按摩法第四(法二首)
天竺國按摩、此是婆羅門法、
両手相捉紐捩、如洗手法         両手淺相又翻覆向胸
両手相捉共按脛左右同          両手相重按髀、徐々捩身、左右同、
以手如挽五石力弓、左右同        作拳向前築、左右同、
如拓石法、左右同、           作拳却頓、此是開胸、左右同、
大座斜身偏欹如排山、左右同、      両手抱頭宛轉髀上、此是抽脇、
兩手據地、縮身曲脊向上三擧、      以手反捶背上左右同、
大坐伸兩脚即以一脚向前虚掣、左右同、  爾手拒地廻顧、此是虎視法、左右同、
立地反拗身三擧             兩手急相叉、以脚踏手中左右同、
起立以脚前後虚踏、左右同、
大坐伸兩脚用當相手勾所申脚著膝中以手按之、左右同、
  右十八勢、但是老人日別能依此、三偏者、一月後百病除行、及奔馬補益延年、
  能食眼明輕健不復疲乏、

〔按腹圖解 序〕 我醫道も、又唐土より傳へしにこそ、しかれば導引按矯の術も、同じ
く傳來しにや有ん、又は皇國にて發明せし人有しにもやあらん、三栗の中昔の頃、其術
の世に行れし證は、榮花の物語に、腹とりの女といふこと見えたり、されど此物語も、
七百歳餘、往古の事なれぱ、其技は、伊香保の沼のいかなりしや知るべからず、又彼邦
にも、最上代には、専ら行れしよしは、醫籍の親と崇る、内経といふ書に見えたり、さ
れど彼處にも、いつしか廢れしとしられて、後世の醫籍には、絶て見えず、然るに我大
御國よ、王匣二百年よりこなた、誠に安國の安穏に、科戸の風の荒振、綿津見の波の騒
動も絶果て、治たまひ福給へる御世の御陰に隠れて、天下の蒼生、尊も卑も、甚静なる
世を樂しむ、此御時を得て、萬の發たるが興ざるもなく、千々の絶たるが繼れぬも將あ
らざめる程に、我醫道も又しかなり、是に因て、其道に精しき書も、技に委しき人も、
其名聞ゆる野邊の蔓、林の木葉と世に乏しからず、誠に此道全備と謂べし、さるを橿實
の濁此導引按矯の術のみ、古衣うち捨て眞木柱誰取立る人も無りしに、葦垣の近き年頃
内日指都の醫士、香河氏、賀川氏の二人、世に勝れて、我醫道を、石上古きに復せり、
其醫論の餘波、此術に及せり、故世人、此二子を以て、此術再興祖と思へり、されど其
著書をみれば、香河氏は療病の末助とし、賀川氏は養妊之本務とす、その旨意甚齟齬る
而ならず、共に岩淵の深理を極得しにあらねば、其末流を汲徒をや、又空蝉の世に此技
を業とする人、多くは盲人、寡婦、或は流落家、貧學醫生輩此技を以て、糊口の資とす
るに過ず、是に因て、此術をするを倭文手纒甚卑しめり、さる故、識見人は、此術をし
も、恥且悪む事にはなりにたり、



按摩治療


〔曲亭漫筆 下〕鬼貫が傳同道引
鬼貫姓は、上島氏、俗稱は與総右衛門、槿花翁と號す、攝州伊丹の人なり、後大坂に家
して、姓を平泉と更む、はじめ俳諧を維舟及宗因に學び、後一家をなす、鬼貫獨言、同
句選等世に行はる、元文三年八月二日、七十八歳にして没す、伊丹墨染寺に墓あり、浪
花客中、或人の話に、鬼貫、中ごろは行れざりしにや、ひところ和州郡山侯の足輕など
つとめ、その後大坂にすみて、小兒の道引などして、かすかに世をわたりぬ、今なほ大
坂に鬼貫道引とて、小兒の療治に、足より上へも上る按摩の法のこれり、

〔甲子夜話 六十二〕林曰、或人ノ談話ニ、故豆州(松平信明閣老)臨終前ノ疾、腫氣ニ
テ、不通ニナリシトキ、醫案腹シテ、小水ヲ通ズル秘術ヲ爲ス者アリト聞テ、其者ヲ呼
デ案腹セシムレバ、果シテ通利アリ、ソノ翌日ニ、醫至リテ、又案ズルトキ、豆州云フ、
今度、我ガ疾ハ迚モ不治ト覺ヘタリ、モハヤ頻ニ案スルニ及ブマジ、併シコノ法ハ、平
素未ダ知ラザル所ノ奇術ナリ、諸人ヲ救フベキ大切ノ術ナレバ、秘セズシテ、ソノ傳ヲ
廣クスベシト、諄々曉諭セリトゾ、眞ニ老職得體ノ言ト謂ベシ、折ニ觸レ、何カノ事ド
モ、思出デ丶、痛惜ニ堪ザル人ナリケり、



按摩科雑載


〔守貞漫稿 五 生業〕按摩
諸國盲人業乏スル者多シ、或ハ盲目ニ非ルモノアリ、或ハ得意ノ招ニ應テ行クノミモア
リ、或路上呼巡リテ應需ズルアリ、蓋三都諸國トモニ、振リ按摩ハ小笛ヲ吹ヲ標トス、
振ハ得意ニ往々路上ヲ巡リ、何家ニテモ需ニ應ズルヲ、諸賈亦准之テ振賣卜云ニ同ジ又
京坂フリアンマハ夜陰ノミ巡リ、江戸ハ晝夜モ巡ル、又江戸ニハ笛ヲ用ヒズ、詞ニアン
マハリノ療治ト呼巡モアリ、小兒ノ按摩ハ、或ハ上下揉テ二十四文ナンド呼ブモアリ、
江戸ハ普通上下揉四十八文也、又店ヲ開キテ客ヲ待チ、市街ヲ巡ラズ、足力ト號テ、手
足ヲ以テ揉者ハ、上下揉百文也、京坂ニハ此足力按摩無之、又京坂從來普通上下揉者ハ
價ヲ半ニス、因云、盲人ハ鍼治ヲ兼ル、足カ等ハ灸治ヲ兼ル、又別ニ三都トモ灸スエ所
ト云者アリ、大略百灸以上千灸以上ヲ一庸トス、銭廿四文許也,

〔嬉遊笑覧 六上 音曲〕按摩とり笛をふく事、太平樂府に河東夜行、按摩痃癖吹笳去、
温飩蕎麥焚火行、(是明和六の撰なり、この頃めづらしきことどもいふにや))江戸
は、其後、天明七年狂詩諺解に、按摩の笛を吹は、近ごろの事なりといへり、

〔執苑日渉 一〕醫方之設、蓋起于地神氏之前、(中略)在此方風科、仍大方脈之所兼、
祝由是巫覡之爲巳、別有按摩(註略)灸師(註略)及草家(中略)即今過路按摩或揺鈴
或吹笛之類、類書纂要有虎とう、報若知即鈴醫之所持也、



 
 
 

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