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プラーナと仏陀の呼吸法







プラーナという言葉を勘違いしていたようです。
例えば「プラーナを吸収する」のように、大気中にある精気、エネルギーのようなものだと思っていました。
ウィルヘルム・ライヒがいう「オルゴン・エネルギー」のように。

OSHOはこう言います。

息それ自体はプラーナではない。
プラーナとは、中へ入ることと外へ出ることという、その両極性によって顕れる生命エネルギーのことだ。
息を吸い込むエネルギーがプラーナであって、息そのものはプラーナではない。
息を吸い込むエネルギー、息を吸い息を吐いているそのエネルギーこそプラーナなのだ。

そして、仏陀の呼吸法「安般守意(アナパーナ・サティ・ヨーガ)」に言及します。

アナパーナ・サティ・ヨーガという仏教の瞑想法はこのこととかかわりがある。
この瞑想法は、自分の入息と出息に対してただ観照者でいなさいと教える。
ただ観照者でいてごらん。

上記は「瞑想…祝祭の芸術」[第十七章/七つの身体におけるプラーナの顕現]からの引用ですが、[第十八章/伝統的な技法]ではアナパーナ・サティ・ヨーガの技法を詳しく解説しています。

仏陀は、同時に二つのことを実現する手段として、息を用いた。
ひとつめは醒めた意識を生み出すこと。
いまひとつは、その意識を体の細胞そのものにまで浸透させるということだ。
仏陀はこう言った、
「呼吸を意識しなさい。」

これは、調息(プラーナヤーマ)(ヨーガの呼吸法)をやれということではない。
それはただ、息を変えることなく、その息を覚醒の対象にしなさいということだ。

息を変える必要はない。
あるがままに自然にしておきなさい。
息を変えたりしないこと。
ただし、入息のとき、その息を意識しなさい。
あなたの意識を入息に合わせてゆきなさい。
そして、出息のときは、あなたの意識もそれにつれて外に移してごらん。

息とともに動きなさい。
息に合わせて注意しなさい。
息といっしょに流れるがいい。
ただのひと息でも忘れてはいけない。

はじめ、このアナパーナ・サティ・ヨーガを拾い読みしたのですが、あとになってプラーナの解説を読み、俄然興味深くなってきました。
ある意味、プラーナ:息を吸い込むエネルギーを観照する瞑想でもあるのですね。

OSHOはアナパーナ・サティ・ヨーガについて、下記のようにも言っています。

意識的に出入息してゆくと、やがてあなたは自分のセンター(中枢)に至る。
というのも、息はあなたの存在の中枢(センター)そのものにまで触れるからだ。
息が入ってくるたびごとに、それはあなたの存在の中枢(センター)に触れる。

生理学的には、呼吸は血液浄化のためのもので、単に肉体的な機能だと思われている。
だが、自分の呼吸に覚醒しはじめたら、ほどなくあなたは生理学よりも深い地点にまで達するだろう。
そうしてある日、臍のすぐ近くにある自分の中枢(センター)に気づきはじめるに違いない。

毎日の正座や数息観をやる時の参考になります。
ありがとうございます。>OSHO

Tags: OSHO, アナパーナ・サティ・ヨーガ、仏陀, プラーナ, 呼吸法, 安般守意, 数息観, 正座

感性のなかに成長する -OSHO-

ハラや呼吸に関しては「やっぱりOSHOだよね」と、我が師OSHOの本をいろいろ引っ張り出していたら、ついついOSHOの言葉にハマってしまいました。

OSHOの言葉は、すーっと染みこみます。
そして、この存在に溶けこむような拡がりを感じてしまいます。

しみじみ~。

という訳で、OSHOカテゴリーを作って、時々お気に入りの言葉をアップしてみましょう。

感性のなかに成長する

瞑想は感性をもたらす……世界に属しているという大いなる感覚。
これは、私たちの世界だ。
星々は私たちのものであり、私たちはここで異邦人ではない。
私たちは本質的にこの宇宙に属し、その一部だ。
私たちはその核心だ。

あなたは、草の葉ですら大いに重要性を帯びるほどに感覚的になる。
あなたの感性は、この小さな草の葉が、最大の星と同じように宇宙にとって重要であることをはっきりと知らせる。
この草の葉がなければ、宇宙はいまより少し縮小する。
この小さな草の葉は個性的だ。
それは置き換えできない。
それ自身の固有性を持っている。
そして、この感性が新しい友情を生み出す。
樹や、鳥や、動物や、山や、川や、海や、星たちとの友情だ。
愛が育まれ、友愛が生まれ、生はより豊かになる。

            「新瞑想法入門」第二章 瞑想の開花より

感覚を開いて感性を拡げ、それを育むこと。
それを、ことさら瞑想として意識はしなくても。

自ずと、この世界との友情や愛が育まれるのですね。

Tags: OSHO, 友情, , 感性, 感覚, 瞑想

肚を据えられた体

関係性で悩みを抱えていた患者さん。
どうやら関係性に肚を据えられたらしい。

「こうなったら怖い」「そうなったらどうしよう」という恐怖感が頭がもたげて、ズルズルと相手の態度に依存した関係性を続けて来ていたんだけど。
相手の出方や態度に巻き込まれずに、少なくても自分のスタンスは決められたみたい。

黒く澱んでいた顔色も、スーッと白っぽさが出て綺麗になるし。
感覚も空間に広く拡がるようになるし。
張り詰めていた背中はプニョプニョになったりし。

いやぁ、自分を取り戻すと、体は激変しますね。
感覚が拡がるようになると当然視野も拡がるので、相手を見る視点も変わるはず。
今後、関係性も微妙に変化して来るでしょう。

かなり気になっていた患者さんだったので、超ひと安心です。
良かったぁ。(^^)

丹田からのマッサージ

丹田を意識しはじめてから、治療中に手や腕だけでマッサージ(按摩)している箇所がいくつか判明。

手揉み、腕揉み、って感じです。
これだと、明らかに「力」でのマッサージになってしまい、単なる刺激。
うわあ、マズイ、マズイ。(^^;

ぼくの手は、相手の体の中に浸透してません。
だって小手先の刺激なんですもん。

こんな時は、ぼくの体は怠けてます。
総体としての体は、ベッドに寄りかかって休んでいたりし。
上半身の力だけで相手の体に向かっていたりします。

む~。
情けない。(T_T)

丹田というか、それはおそらく腰でもいいのでしょうが。
そこから働きかけるのは、なんて安定していて浸透度が高いんでしょ。
あらためてわかりました。orz (今更ながらですが、やっぱり情けないっす)

という訳で、数日前から働きかけ方の再編成してます。
見た目、カタチはまったく一緒ですが。
体の微妙な使い方が要所要所で変わってきてます。

その分、無意識的で円滑な動作ではない分、意識的ではあるけれど微調整的な動きも入り、不慣れな体の使い方になっていたりし。
ちょっと疲労度も増加。
風邪っぽさも加わって、何やら体や感覚も混沌としながら再編成している感じ。

焦らずに進めていきます。







指揉みの練習(ひとりで)

ひとりで指揉みの練習をしようという人は、たぶんいないのではないかと思います。
ぼく自身、朝一番の治療前に、たまに体をゆるめるためにちょっとやることがあるくらいですし。

でも、丹田を意識するようになってから、ちょくちょく短時間やるようになりました。
朝、体を目覚めさせるためにいろいろ伸びをするのですが、たまに体が冷えていたり澱んでいたりすると、体から「伸びたい」という内発性が出てこないことがあります。
こんな時に、この指揉みの練習をやると、短時間でも体が暖まって自然に「伸びをしたい」という欲求も湧き出してきます。

やり方は簡単。
正座の場合は、座って上半身の無駄な緊張をゆるめ、丹田あたりに呼吸をいれてお腹や横腹、腰の皮膚が吸気とともに軽く膨張して張る感じを意識します。
そして、丹田から体を上下にリズミカルに揺らします。

丹田を意識する前は、丹田を前に押し出すように揺らしていたのですが、丹田を意識するようになってからは、丹田を真下に押すように揺らしてます。
この方が重心が落ちてよい感じです。

小刻みに揺れたり、ちょっと大きめに揺れたり、体の感じに任せて揺らしていると気持ちよいです。
(実際に患者さんに指揉みをやっている時は、体や揺れに任せています)
やっているうちに、体を横に、ヘビのように背骨ををうねらすように揺らしたくなったりしたら、そうします。
また、伸びをしたくなったり、縮めたくなったら、積極的にやってみます。

気持ちよい伸びが出てくると自然にアクビが出、終わった時には顔中涙でぐしょぐしょになるので。
必ずタオルやティッシュを用意してます。

床での治療の場合は、上記のように正座して指揉みを行いますが、普段の治療は治療用ベッドでやってますから、立った状態で行います。
この立った状態での指揉み練習は、気功の鍛練法である馬歩にちょっと似ています。

立って膝を軽く曲げ、上半身の無駄な緊張をゆるめて、丹田から体を上下に揺らします。
これで手の平を下に向けると、馬歩とほとんど同じ。
ですが、正座の時と同様に、からだをうねらせたり伸びがしたくなったら、積極的にそうしちゃいます。

時間などは超テキトー。
やりたくなった時がやりたい時。
やめたくなった時がやめる時。