Tag Archives: 正座

腰を立ててみる







先ほどの、食事中にうまく腰が据わらない話を打ち終えて。
ふと、ディスプレイの前に座っている腰もまた逃げていることに。
今更ながら気づいたのでした。

そうか、こういった日常の「座る」から意識してみよう、と思い。
逃げて後湾していた腰を立ててみると、ディスプレイを見る視線が若干高くなり、視線は平行からやや見おろす角度になります。
おぉ、快適、快適。
これだと、丹田も自然に意識出来る姿勢です。

そういえば、お尻の下に薄い枕のような前傾したスロープ状のクッションがあり、このおかげもあり腰が立てやすいのでした。
実はこれ、ずいぶん以前にプラバさんからもらったものの、お尻の後ろの方に追いやってほとんど使っていなかった物。
すごく役に立つ物だったのですね。(^^;

というわけで。
いつもプラバさんには、重要なヒントというかアドバイスをもらっていることが多いのだけれど。
毎度のことながら、上の空で聞いてしたりロクに活用せずにいたりします。

が。
ある日突然。
自分が偉大な発見をしたかのように「これすごい! こうするとね ……云々」と話はじめたりすることがあり。
「はい、はい。それ、私が前に説明したでしょ?」と呆れられることが多々あるわけです。

今回もそれです。(^^ゞ

なるほど。
そういえば、プラバさんが椅子に座っている時は、背もたれは使わずにちゃんと腰を立てて座っていました。
ぼくは背もたれフル活用でしたが。

見習おう。

Tags: ディスプレイ, 椅子, 正座,

腰が据わらない私

食事の時には正座するようになったものの、まだまだ腰の置き所が定まりません。
なんとなく、腰(腰椎)を反らすでもなくスッと腰が立つように足に乗せたいのですが、気がつくと腰が逃げるように腰椎が後湾気味に。

これ、癖なんですよね。
椅子に座る時は、いつもこの、腰が逃げた状態で座ってしまうし。
床でアグラの時もこんな状態。

初老と呼ばれるような年齢になって、この体たらく。orz

まあ、ぼちぼちと慣れていきましょう。

Tags: 正座,

そいえば昭和は座ってた

思い返してみれば。
子どもの頃は普通に正座してました。

食事はちゃぶ台だったし。
正座して食事をしていたんですよね。
「膝をくずす」という言葉があるくらい、膝をくずせば父親に怒られたものです。

小学生の頃は、習字も柔道も習っていましたから、正座は当たり前だったんですよね。

中学生あたりから椅子に腰掛けてテーブルで食事するようになり、椅子での勉強机になったのかな。
居間に応接セットなんかもこの頃に入ってきました、そういえば。

昭和30年代くらいまでは疊。
昭和40年代くらいから、ぼちぼちと椅子の生活が導入されてきたのかも。

Tags: ちゃぶ台, 昭和, 椅子, 正座, , 膝をくずす

座る文化を取り戻してみたい

何故かは知らず、突然正座に興味が湧いたのが四月頃。
はじめは単に言葉や正座法を調べていただけでしたが、実際に正座するようになったのは2、3週間前からでしょうか。
それも一日10分程度から。

2、3日前からは、食事のときは正座して食べることにチャレンジ。
「チャレンジ」って、ぼく、日本人なのに。(^^;うはは

おとといは、食事中正座しているのがやっとだったのに。
今日は既に、食事後の晩酌突入時まで正座でいられます。

おぉ、すごい。
人間の体って、これだけ適応力があるんですね。

それにしても、日本の生活もかなり欧米化し。
床、疊での生活がなくなって来てますね。

トイレも、今ではほとんどの家庭が洋式だし。
座る、かがむという動作が生活の中から激減し。
下肢や股関節を大きく動かす機会も減少。

これからちょっと、座る生活を取り戻してみます。

Tags: かがむ, 文化, 日本的生活, 正座

プラーナと仏陀の呼吸法

プラーナという言葉を勘違いしていたようです。
例えば「プラーナを吸収する」のように、大気中にある精気、エネルギーのようなものだと思っていました。
ウィルヘルム・ライヒがいう「オルゴン・エネルギー」のように。

OSHOはこう言います。

息それ自体はプラーナではない。
プラーナとは、中へ入ることと外へ出ることという、その両極性によって顕れる生命エネルギーのことだ。
息を吸い込むエネルギーがプラーナであって、息そのものはプラーナではない。
息を吸い込むエネルギー、息を吸い息を吐いているそのエネルギーこそプラーナなのだ。

そして、仏陀の呼吸法「安般守意(アナパーナ・サティ・ヨーガ)」に言及します。

アナパーナ・サティ・ヨーガという仏教の瞑想法はこのこととかかわりがある。
この瞑想法は、自分の入息と出息に対してただ観照者でいなさいと教える。
ただ観照者でいてごらん。

上記は「瞑想…祝祭の芸術」[第十七章/七つの身体におけるプラーナの顕現]からの引用ですが、[第十八章/伝統的な技法]ではアナパーナ・サティ・ヨーガの技法を詳しく解説しています。

仏陀は、同時に二つのことを実現する手段として、息を用いた。
ひとつめは醒めた意識を生み出すこと。
いまひとつは、その意識を体の細胞そのものにまで浸透させるということだ。
仏陀はこう言った、
「呼吸を意識しなさい。」

これは、調息(プラーナヤーマ)(ヨーガの呼吸法)をやれということではない。
それはただ、息を変えることなく、その息を覚醒の対象にしなさいということだ。

息を変える必要はない。
あるがままに自然にしておきなさい。
息を変えたりしないこと。
ただし、入息のとき、その息を意識しなさい。
あなたの意識を入息に合わせてゆきなさい。
そして、出息のときは、あなたの意識もそれにつれて外に移してごらん。

息とともに動きなさい。
息に合わせて注意しなさい。
息といっしょに流れるがいい。
ただのひと息でも忘れてはいけない。

はじめ、このアナパーナ・サティ・ヨーガを拾い読みしたのですが、あとになってプラーナの解説を読み、俄然興味深くなってきました。
ある意味、プラーナ:息を吸い込むエネルギーを観照する瞑想でもあるのですね。

OSHOはアナパーナ・サティ・ヨーガについて、下記のようにも言っています。

意識的に出入息してゆくと、やがてあなたは自分のセンター(中枢)に至る。
というのも、息はあなたの存在の中枢(センター)そのものにまで触れるからだ。
息が入ってくるたびごとに、それはあなたの存在の中枢(センター)に触れる。

生理学的には、呼吸は血液浄化のためのもので、単に肉体的な機能だと思われている。
だが、自分の呼吸に覚醒しはじめたら、ほどなくあなたは生理学よりも深い地点にまで達するだろう。
そうしてある日、臍のすぐ近くにある自分の中枢(センター)に気づきはじめるに違いない。

毎日の正座や数息観をやる時の参考になります。
ありがとうございます。>OSHO







Tags: OSHO, アナパーナ・サティ・ヨーガ、仏陀, プラーナ, 呼吸法, 安般守意, 数息観, 正座