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指もみで共振している時に得られる感触







指もみ(操体法の基本的な手技)をしている間は、相手のゆれと共振しつつ、自分の内側に漂ったり湧き上がるエネルギーや衝動を眺め、そして外側の波紋を第三者的に眺めています。
特徴的な何かを探したり焦点を当てることなく、少し引いた所から眺める感じ。

共振しているゆれには、内側から外側に拡がるスペースが感じられ、その濃度や拡がりの大小は人により時により異なります。
その濃度や拡がりの中に、様々な印象も滲んでいるのですが、多くの場合、その印象はハッキリとしたものではないです。

時々、実際の按摩に移行してから、その抽象的な印象が具体的な”何か”(感情や衝動、意味)として表出してきたりもします。
または共振しつつ、内側に吹き上がるような具体的な感情や衝動が現れることもあります。

いずれにしろ、これまでは単に眺めていたのですが。

>わたしは発見した、フレンド・ダニール、自触媒作用のよう
>なものを自分がはじめたのだということを。
>わたしが強化したそれぞれの糸が、近くにある同じ種類の
>糸を強化し、その二本がいっしょになり、さらに近くにある
>何本かの糸を強化した。
>わたしはそれ以上なにもする必要がなかった。

>>強制的矯正的に介入するのではなく、自らがふっくらと柔軟に
>>なり(または”その状態”であろうとしつつ)その毛糸状のもの
>>と向き合い。
>>ほつれがほぐれ出しそうな、動き出したいのだけれどどう動い
>>てよいのかわからず逡巡しているような箇所を見守り。
>>そして、さらに温かく見守り・・・。

今日は、この「動き出しそうな気配」「これから拡がろうとする衝動」に意識を向けてみました。
そして、そのような漠然としたイメージや感覚を意識しただけで、それに該当するような気配や衝動が、ピントを合わせたかのように浮かび上がってきます。
意識を向けた途端にフッと浮かび上がったそれは、見守っていると、内側から外側にほわんと拡がっていきます。

思い描いていた、二本の糸からはじまるような自触媒作用とは違いますが、今まで感じたことのない新鮮な感触でした。

その後もこの感じで試していて、いくつか気づいたこと。

感情や情動のようなものは、内側から湧き上がって来ます。
また、外側に拡がる波紋は、これまで上の方に拡がって感じられました。
ですが、「動き出しそうな気配」に意識を合わせるようになってから、下の方、足から大地に向かって拡がるように降りていく衝動というかエネルギーをはじめて感じました。
こういう感触もあるんですね。
今後どんな感触が現れてくるのか楽しみです。

他に、人により(同じ人でも時により)、共振している時の意識の深さが異なるということ。
共振しつつ、意識を意図的に引いて(繊細に繊細に深くして)いったりもするのですが、その深まりと拡がりは、対象となる人により異なります。

このことが具体的にどのような違いを表しているのか、なんとなくは理解できるのですが、まだまだ明確ではありません。

心理歴史学と按摩

アイザック・アシモフさんの「銀河帝国興亡史(ファウンデーション)」シリーズの中核「心理歴史学」を構築するにあたって、重要な概念になると思われる描写をメモ。

ロボットと帝国」から
人間であるイライジャ・ベイリがその死に際して、ロボット・ダニール・オリバーに人類の未来を託した遺言。

「人類ひとりひとりの仕事は人類全体に貢献しているんだよ、だからそれは全体の一部となって永遠に消えることはない。
その全体は……過去も現在も、そして未来も……何万年となく一枚の綴織(タピストリー)を織りなしてきた、そいつはしだいに精緻になって、おおむね美しくなった。
スペーサーだって、そのタピストリーの一部なんだぞ、そしてやつらだってタピストリーの模様を精緻に美しくしてきたんだ。
個人の生命はタピストリーの一本の糸だよ、全体に比べたら、たかが一本の糸、そんなものがどうしたというのだ?

ダニール、きみはこのタピストリーのことだけをしっかりと考えろ、そして一本の糸が消えるぐらいで動揺しないようにな、他にたくさんの糸があるんだ、それぞれ貴重で、立派な役割を果たし……」

同じく「ロボットと帝国」。
ほんとは上記引用の10頁ほど前の場面。
人間の感情を読み取り操作も出来る唯一のロボット・ジスカルドが、聴衆と対峙した時の様子をロボット・オリバーに語る場面。

「わたしは聴衆の多様な精神(マインド)と相対した。
レディ・グレディアと同様、これほど多くの人間に出会ったことなどなかった。
マダムと同じように非常に驚いた。
はじめ、わたしに襲いかかった重なりあう大きな精神(マインド)の群れを相手になすすべのないのを発見した。
わたしはとほうにくれた。

そこからわずかな親しみ、好奇心、興味のようなものを感知した……言葉ではうまく言いあらわせないが……それにはレディ・グレディアに対する同情の色がにじみでていた。
そこでわたしは、この同情の色をもったものを見いだすと、ほんのわずかに引きしめて稠密にしてやった。
わたしは、レディ・グレディアを元気づけてくれるようなささやかな反応を望んでいた。そうすれば、それ以上レディ・グレディアの精神(マインド)を操作する必要はなくなるからだ。
わたしがしたのはそれだけだ。
その色の糸をいったい何本操ったのか、わたしにはわからない。
それほど多くはなかった」

ダニールは言った。
「それからどうしたのだね。
フレンド・ジスカルド」

「わたしは発見した、フレンド・ダニール、自触媒作用のようなものを自分がはじめたのだということを。
わたしが強化したそれぞれの糸が、近くにある同じ種類の糸を強化し、その二本がいっしょになり、さらに近くにある何本かの糸を強化した。
わたしはそれ以上なにもする必要がなかった。
レディ・グレディアが話していることに賛成をしめすようなわずかな身じろぎ、ささやき、少しの視線、それがまたまわりの人々を刺激した。

そしてもっと不思議なことに気がついた。
そうした賛同のわずかな徴候は、それらの精神(マインド)がわたしに向かって開いているのでわたしには感知できたのだが、レディ・グレディアも同じように感知したようだった。
なぜならば、わたしが触れないのに、マダムの精神(マインド)が抑制していたものがほどけてしまったからだ。
マダムは前より早口に、自信たっぷりに話しはじめ、聴取はいっそう敏感に反応した……わたしがなにもしないのに。
そして最後にはヒステリア、嵐、精神(マインド)の雷鳴と稲妻の大嵐、あまりの強烈さにわたしは心を閉じねばならなかった、さもなければ回路に過負荷がかかっただろう」

…中略…

「感情の数は少なく、理性はあまた、したがって群衆の行動は、一人の人間の行動よりたやすく予測できる。
そしてそれはまたこういうことになる、もし歴史の流れを予測しうる法則を見つけようとするならば多数の人間を対象にしなければならないということだね、その数は大きければ大きいほどよいのだ。
これは心理歴史学の第一原則になるかもしれない、人間工学の研究の鍵かもしれない」

前に「ロボットと帝国」を読んだ時に「おぉ」と思ったものの、読み進みたくてとりあえずスルーしてしまった部分。

プラバさんがまた図書館から借りて来てくれたので再読。
該当箇所に再度感嘆したものの、またまた読み進む誘惑に負けてメモし忘れ。
結局再読し終わった後に該当箇所を探してメモしたわけですが。

アシモフさん、すごいなあ。
どこからこんな壮大なイメージを湧出させるんでしょか。

人類とその進歩、進化という、時間の流れとともにその拡がりや厚さ、彩りを微妙に変えながらたゆたう広漠としたタピストリー。

その一箇所にぐい~んとズームインしていくと、その広漠とした厚みのある織物を織りなす、一本一本の毛糸のような、これもまたさらに細かで繊維な糸で織りなされた、ひとりひとりの人間が・・・。

>わたしは発見した、フレンド・ダニール、自触媒作用のよう
>なものを自分がはじめたのだということを。
>わたしが強化したそれぞれの糸が、近くにある同じ種類の
>糸を強化し、その二本がいっしょになり、さらに近くにある
>何本かの糸を強化した。
>わたしはそれ以上なにもする必要がなかった。

このロボット・ジスカルドが施した自触媒作用のようなもの。
按摩もこういうものでありたいのです。

ひとりの人間という、細やかで繊細な糸状のもので紡がれた、毛糸のようなふっくらとした存在。
その所々に、または全体的に、よじれたり固まったり、柔軟さを欠き硬くなった糸とその総体としての毛糸状のもの。

強制的矯正的に介入するのではなく、自らがふっくらと柔軟になり(または”その状態”であろうとしつつ)その毛糸状のものと向き合い。
ほつれがほぐれ出しそうな、動き出したいのだけれどどう動いてよいのかわからず逡巡しているような箇所を見守り。
そして、さらに温かく見守り・・・。

触れることなく触れ。
(または、触れたとしても、それは見守り確かめるため)
そして、触れることなく触れ続け。

一本の繊細で細やかな糸がふっくらとほぐれだし。
それがその近くの似通った糸とともにほぐれだし、さらに近くにある何本かの糸を巻き込んでほぐれだし・・・。

この、一本の毛糸の中から始まる自触媒作用のようなものが、目には見えない微細な現象が、人類という広漠としたタピストリーの極く微細な一部分で、それが常態になるまで繰り返し生じたら・・・。

う~ん。
夢は広がる^^

ぼくたちは地球と人類の進化の一部なのだ(きっと)

ぼくたちの意識や精神、魂も含めた身体は、下図のようなものだと思ってます。
ぼくの持っている原初的イメージ。

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按摩は、自分も含めて縁ある人たちがより生き生きと、上図左に近づいていくことを指向します。たぶん

個や自我の中に閉じ籠もり、頑なで閉塞的で孤立するのではなくて。
または自分以外の”何者か”や”かくあるべき人”になるのではなくて。

生き生きとありのままの自分を、真摯に誠実にまっとうすること。

農耕や狩猟、部族社会から19世紀になり工業化、近代化していった人類。

世界大戦などの国家間戦争もはじまり、世界は工業型社会、軍隊型社会になっていった頃。
そんな近代化しはじめた社会で、それまでは強く意識していなかった”自我”や”個意識”が近代化という圧力釜の中で急速に形成されはじめ。
(って、世界史とか心理学とかよくわかってません。なんとなくな話。(^^ゞ)

この工業化近代化しはじめた19世紀って、フロイトやユング、ウィルヘルム・ライヒ、ルドルフ・シュタイナー、グルジェフ、出口王仁三郎なんかが活躍した時代なんですよね。
近代化という進化(だということにして)が、”自我”や”個意識”の形成や結晶化を促し、精神や魂の要求として心理学や神秘学が勃興したのだと思ってみたり。
流れとして、21世紀の今は”自我”や”個意識”が成熟し、次の段階に進んでいると想像され。

それまでの”自我”や”個意識”の「内側」から、21世紀は「外側」からそれを意識、認識しはじめるのではないかと思ってみたりします。

そしてそうなってはじめて、地球と人類はひとつの有機体として躍動し。
個々の人間は、地球=人類有機体の細胞一個一個なのだという認識を持つのではないか。

個々の細胞は有機体の一部なのだけれど、それぞれユニークで異なった存在であり。
例えば、ひとりの人間の中での、手や足、内臓、筋肉、神経、などなど。
それらはまったく異なった働きをする部分ではあるけれど、ひとりの人間を形成する貴重な存在。
そんな地球=人類有機体としての人間=細胞一個一個。
人間=細胞一個一個は、そのユニークで独自な個性を十二分に発揮しなくちゃなのです。

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そして、インターネットは今より更に密になり、個々の細胞たる人間ひとりひとりと直にコンタクトが可能になるのではないか。
苫米地さんが著書で、Googleのような検索システムの次の世代はP2Pだと書いていたけれど。
もしP2P貨幣システムであるBitcoinが全世界的に普及したならば。
世界の貧困撲滅はぜんぜん夢じゃないです。
(※Bitcoinについてはコチラにいろいろ書いてます)

Bitcoinの取引手数料はほとんどゼロに近いので、10円とか100円単位の送金が気軽にサクッと送金出来てしまいます。
数十万、数百万の人々が、例えば100円でも、NPOやボランティア団体、自立支援プロジェクトなどに、月に一度でもポチッとBitcoin募金をすれば。
(該当団体がHP上で逐次進捗状況を更新するなど公開していれば、その切実さや募金が反映さていく様などが確認出来ますよね)
それだけで、今まで無駄に眠っていた少額のお金が、全地球的に必要される場所に移動することが出来ます。
それまで移動することがなかった少額貨幣が、各国法定通貨に換金可能なお金が、地球上をさらさらさらさらと自由に移動し。
地球上の少額経済が怒濤のように活性化するやも知れず・・・。

そんなことを夢想している今日この頃なのでした。







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歓びの可能性を開くキッカケとしての症状:按摩(2)

前回の投稿から3ヶ月。
というわけで、前回の患者さん。
3ヶ月ぶりの来室なのでした。

>患者さんの胸の中から「もう、すぐに歓びがわかるよ」という声が聞こえたように感じました。
>
>確かな手応え。
>たぶん、これで大丈夫。

>そういえばその後、坐骨神経痛がどうなったのか聞いていません。
>もしまだ痛みがあったとしたら、まだまだ歓びの可能性を開くキッカケが眠っているということなんですよね。

前回の治療の数日後、とあるキッカケで。
「そう、それ! 私が望んでいたのは!」という出来事があり。
その後、ウソのように坐骨神経痛が消えたみたい。

歓びがマインドと体に浸透するまでは、まだ時間が掛かりそうですが。
一歩前進。^^

Tags: 坐骨神経痛, 好奇心, 按摩, 歓び, 治療

歓びの可能性を開くキッカケとしての症状:按摩

お馴染みの患者さん、今回は1ヶ月ほどぶりに来室。

数ヶ月前からの坐骨神経痛が相変わらず続いているといいます。
寝ていても、痛みで目が覚めてしまうくらいの鈍痛様の痛み。
いつもであれば、たいてい一度の治療で良くなる不具合が治らないので、腑に落ちないという様子。

難しいですね、体には体の都合があって、人の思惑を越えていたりしますから。

これまでの治療の時にも、「何故治らないのかまったくわからない」といった表情が続いていました。
時々小さな「あっ、そうか」という腑に落ちるポイントは何度かあって、一時的に症状が軽減するということはあったのですが。

ぼくから見た、今のその人の大きなテーマは、「楽しく、しあわせに生きている?」ということで。
まあ、それは、ほとんどすべての人に当てはまることだったりし。

体のその内側からは、いつでも興味や好奇心が浮上し、湧き出しています。
そして、その興味や好奇心を暖め、それを携えて生きていると、それだけで活き活きとします。
目を輝かせている幼子のような感じ。
体や心の内側から湧き出す興味や好奇心は、純粋で無垢なエネルギー。

逆に、頭で決めたり判断した「正しいこと」「~すべき」「普通はこうする」に沿って生きていると、体は歓びを失い硬直していきます。
果ては、内側から湧き出す興味や好奇心を認識する回路自体が錆び付き。
「私のやりたいこと、楽しいこと」がわからなくなったりもします。

座骨神経痛の患者さんですが、もともとが気持ちよいくらい好き嫌いのハッキリとした人。
ですから、まさか自分自身が楽しくしあわせに生きていないとは到底思えません。
ぼくから見ても、とても無理をして頑張っているようには見えず。
とはいえ、自分で作った限界、固定観念の枠に閉じこもっているようには見えるのです。

内側からの興味や好奇心、楽しみたいというエネルギーの表面に触れたり、離れたりしていたこれまでの治療。
今回はこれまで以上に体は頑なになっていました。
肩から首はガチガチ。
そして、背中を按摩、胸郭の後ろ上部を揉んでいると。
前側、胸の上の方が硬直していて、背骨に動きがなくなっています。

背中~腰の按摩を終えて、お腹と背中を伸ばすようにしてから再度背中を触れると。
背骨と胸が緩んでいて、胸郭自体の動きも柔らかくなっており。
患者さんの胸の中から「もう、すぐに歓びがわかるよ」という声が聞こえたように感じました。

確かな手応え。
たぶん、これで大丈夫。

按摩後、これまでも按摩は気持ちよいと思っていたけれど、今回はひと揉みひと揉みで体全体が気持ちよく、「こんな気持ちよさがあったのね」としみじみ言います。
そして、その気持ちよさと、楽しさや歓びは似ているのだと、ひとつ腑に落ちたとのこと。
それを言っている患者さんの顔は、子どものような無邪気さを取り戻していました。

そういえばその後、坐骨神経痛がどうなったのか聞いていません。
もしまだ痛みがあったとしたら、まだまだ歓びの可能性を開くキッカケが眠っているということなんですよね。

(ちなみに、痛みのひどい患者さんには、必ず西洋医学的医療を受診するよう勧めています。
 その上での按摩であり、ぼくは按摩を治療だとは思っていないのです。
 按摩は慰安です。)