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人生の転機と按摩







昔、お母さんと一緒に来ていた女子高校生だった患者さんが、いつの間にか若奥様になって久しぶりに来てくれています。

今回来始めた時は、身も心もボロボロ状態。(^^;
もちろん体も閉塞的になっていて、身体表層は弾力に乏しく澱んでいました。
どうやら人生の一大転機に遭遇していた模様。

身体全体に渡る表層の澱みもさることながら、特に下肢部分の澱みは根深くて……。
この状態では、体全体が重くてダルイだけではなくて、日常生活も重い体を引きずるような感覚だと思われ。
当然ながら、思考や精神生活も陰鬱極まりない状態だったと思います。

そんな時に按摩に来てくれて。
そのボロボロの体に触れられることが、本当に有り難かったです。
悲鳴を上げることさえ諦めたようなその体に、なんとか精気を取り戻してもらえるから。
按摩さんは、いつだって体の味方なのです。

一枚一枚澱みの皮を剥ぐように、まるで仮死状態のような表層の感覚を呼び覚ますように按摩を続け。
徐々に澱みもピークの半分近くなった頃、人生の転機もピークを迎えたようでした。

そのピークも、笑いながら報告出来るほど心身ともに余裕が生まれ。
治療師という第三者から見れば、そのピークは新たなる出発、スタートとも思える出来事だったのですが。
本人曰く「マッサージに来ていなかったら、絶対刃傷沙汰になって新聞に載っていたはず」という出来事だったらしいです。

「肚を据えられた体」は、そのピーク前後の内容でした、実は。

仕事が休みの週末には、土日と二日続けて治療に来ることもありましたが、今日は全体の澱みも1/3か1/4にまで減少。
ここまで来ると、感覚がかなり開いて来て、マッサージするこちらの手を、相手の体が受け容れている感じになります。
マッサージされている感覚を、食べるように吸収している感じ。
推す指の、その感覚が、体の中に浸透するのがリアルに感じられます。

もちろんこんな時は、「感覚が染み込んでくるように気持ちいい」という反応が返ってきます。
ふぅ~。
やっとここまで来ました。
安心、安心。(^^)

極私的按摩心得

4~5年前になるのでしょうか。
「按摩Pukiwiki」の「按摩等雑記録」というページに書いておいたメモ「極私的按摩心得」がありました。

先ほど見つけて、「なるほど、なるほど」と感心しながら読んでいる自分がいたりして。(^^ゞ

でも、よくもまあサクッとまとめたものです。
最近は、論理的に考えたりまとめたりするのがチョー苦手なので、感心しちゃいます。

こちらにも転載しておきましょう。

極私的按摩心得

  • 他者の体を操作したり、矯正しないこと。
  • 自己と同様に尊厳を持つ相手の存在(体)には、謙虚に繊細に、尋ねるように触れることしか出来ない、という基本的原則を忘れずに。
  • 操作、矯正しようと触れる時相手の体は身構える、という以前に、自身が身構えていることを理解する。
  • 「私は、自身はおろか相手のことも体のことも、何ひとつ知りはしないのだ」。
    知ること(体感的に)はそれだけで歓びであり、知らないということは歓びの源。
  • ”触れる”ということは、身体的、心理的、エネルギー的コミュニュケーションであるということを忘れずに。
  • コミュニケーションとは、”知らない”が知り合うということ。
  • 凝り、澱みは、”ほぐす”ものではなく、自ずと”ほぐれる”もの。
  • 体の感覚が鈍く、または感覚なくなれば、その部は澱み、硬くなる。
  • 体の感覚が目覚め、よみがえれば、その部は流れ、生き生きと柔らかくなり、繊細になる。
  • 日常、気付いた時には全身の感覚を拡げよう。(施術中はいうに及ばず)
  • 体は決して物ではなく、心が物質化したものであると感じてみる。
  • 触れる密度は感覚の繊細さに左右され、触れる密度が増すほど周りを包む空間の密度も濃厚となり、同時に浸透度も増している。
  • 密度、浸透度の濃密さは、触れられている対象の感覚回復度に直に影響する。
  • 無垢なまま触れ、無防備さに安住すること。
  • 防御や虚勢、権威性は、感覚を眠らせる格好の条件。
Tags: マッサージ, 感覚, 按摩, 触れる

寒さと体のダルさ、澱み

昨日今日と寒いですね。

陽気が芽吹いているこの季節、これだけ寒いと体表から発散されるべき陽気が、体表で閉じこもってしまって澱むことが多いです。
ひどい時は、皮膚や皮下組織が生ゴムのようにべっとり張り付いているような感じになります。
(これも凝りと呼んでいますが)このような表層の凝りが、下肢、特にふくらはぎ部分にみられると、体全体が重くダルくなります。

実際、昨日や特に今日来た患者さんのほとんどすべてがそんな凝りになっていました。
指揉み時、感覚が体外に拡がる患者さんもほとんどいません。
これほどおしなべて体表が澱んでいる患者さんばかりというのも、近年稀にみるほどの珍しい現象。

中には、感覚がものすごく繊細で、指揉み時には、細かい霧のように感覚が体外広く拡がっている患者さんも、今回は体表が澱んでおり感覚が閉じこもっています。
「体、重くてダルイでしょ」と聞くと、「当然でしょ。指揉みのあの感じもぜんぜん感じないんだから」と、当然のように答えました。
なるほどです。(^^;

あまりに似たような患者さんが続くので、これはひょっとしてぼく自身の感覚が鈍くなっていたり、体表が澱んでいるのではないかと思い。
いつものチェック箇所、ふくらはぎと腕の三角筋あたりの皮膚や皮下組織の弾力を確認してみるも、いつも通りの弾力。
(ふくらはぎ=行動力、三角筋=自己防御、みたいな感じ)
ひとりで感覚を体外に開いてみるも、これまたいつも通り。

やはり、この季節でこの寒さ。
体はビックリしてしまいますよね。

前に書いた「春の体のダルさを解消する」が参考になると思うので、興味のある方はそちらもどうぞ。

エネルギー感覚

按摩師、マッサージ師にとって感覚は、相手の人を理解、把握するための強力な道具です。
その道具は、治療の濃度や深度にダイレクトに影響します。

指揉みのやり方をちょっと変えたら、拡がりや情動エネルギーがまるで手で触れられるように感じるようになったのですが、これは何も「エネルギーがわかる」といったものではないと思います。

ぼくの感覚を通して感じていることの密度が増した、みたいな感じ。

基本的に治療に対する感想などは聞かないのですが、時々「なに?これ?」とか「前と違う」といった反応をする繊細な患者さんもいます。
ですが、意識的には違いを感じていない患者さんが大半です。

もちろん、違いを感じてくれた方が「やっぱりわかっちゃいます?」的なうれしさがあるのですが(^^;、基本的に、こちらの治療プロセスの感覚的理解が密度を増した、ということの方が大切なのでした。

もちろん、治療プロセスの感覚的理解が密度を増すと、結局それは施術深度の深まりや治療結果にも影響します。

以前から、「体は各自の想いが現実化物質化したもの」というイメージがあるのですが、それをより強く感じている今日この頃。
指揉みの空間から按摩に移行する時、指揉み時の感覚を携えたまま身体各部に触れるのですが、患者さんの身体や感覚空間が、前以上に繊細で壊れやすい、愛おしいものに感じられるのです。

丹田からのマッサージ

丹田を意識しはじめてから、治療中に手や腕だけでマッサージ(按摩)している箇所がいくつか判明。

手揉み、腕揉み、って感じです。
これだと、明らかに「力」でのマッサージになってしまい、単なる刺激。
うわあ、マズイ、マズイ。(^^;

ぼくの手は、相手の体の中に浸透してません。
だって小手先の刺激なんですもん。

こんな時は、ぼくの体は怠けてます。
総体としての体は、ベッドに寄りかかって休んでいたりし。
上半身の力だけで相手の体に向かっていたりします。

む~。
情けない。(T_T)

丹田というか、それはおそらく腰でもいいのでしょうが。
そこから働きかけるのは、なんて安定していて浸透度が高いんでしょ。
あらためてわかりました。orz (今更ながらですが、やっぱり情けないっす)

という訳で、数日前から働きかけ方の再編成してます。
見た目、カタチはまったく一緒ですが。
体の微妙な使い方が要所要所で変わってきてます。

その分、無意識的で円滑な動作ではない分、意識的ではあるけれど微調整的な動きも入り、不慣れな体の使い方になっていたりし。
ちょっと疲労度も増加。
風邪っぽさも加わって、何やら体や感覚も混沌としながら再編成している感じ。

焦らずに進めていきます。