武術書に見る「病を去ること」4
病から去るには
江戸時代の按摩の古典「導引口訣鈔・導引根源の訓」には以下のように記されています。
ある人が問う。
「諸々の病気は何が根本原因なのか。」
答えて曰く。
「つかえ滞ることによって起こる。」
病気の根本原因はつかえや滞りだと言い切っています。
これを現代的に身体だけに限定してとらえないで下さいね。
<心身ともに気がつかえ滞ることで病を得る、と考えればよいと思います。/p>
柳生但馬守宗矩による「兵法家伝書」は剣術の伝書ではありますが、病は思い詰めること、心の滞りだと言います。
勝たんと一筋に思ふも病なり。
兵法使はむと一筋に思ふも病なり。
習ひのたけを出さんと一筋に思ふも病、掛からんと一筋に思ふも病なり。
待たんとばかり思ふも病なり。
病を去らんと一筋に、思ひ固まりたるも病なり。
何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。
この様々の病、みな心にあるなれば、これらの病を去って心を調うる事なり。
では、その病から去るにはどうしたらよいのでしょう。
「兵法家伝書」は具体的に言います。
一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
去らんと思うが病気なり。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
病を去ろうと思う心が一切無いこと、それが病を去るということだ。
去ろうという思いもまた病気なのだと知りなさい。
病気に任せ切り、病気の内に溶け込み一体となることが病気を去るということになる。
最初の「一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり」が重要なポイントになります。
病気とは心身の気のつかえや滞りですが、それは心身の痛みや苦しみ、不快感として感じます。
普通、不快な感覚や想いはじっくりとは感じたくないものですから、出来る限り感じないようにし、「何とか治そう、なくそう」と考えます。
ですが、いくら心や頭で考えたり望んだりしたところで、リアルな不快感が自分の中にあるのは事実です。
そして、心や頭で考えたり望んだりするエネルギーが強ければ強いほど、リアルな不快感との間の葛藤はより強くなります。
この葛藤、実はこれ自体もつかえ滞りで、「去らんと思うが病気なり」ということになります。
ところで、不快感を「何とか治そう、なくそう」と考え葛藤している時、不快感は表面的にしか感じていません。
そもそも感じたくないのですから、その感覚を深く味わうどころの話ではないですよね。
さて、先ほどのところにもう一度戻りましょう。
一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。
まず、「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤自体も滞りなのだから、その焦りや葛藤を捨てることが心身の不快感(痛み、苦しみ)から去る第一歩なのだよ、ということです。
病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。
「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨て、心身の不快感を「事実あるのだ」と受け容れ、その感覚を内側から感じて一体となれば心身の不快感は去るのだよ。
「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨てた時、ようやく不快な想いや感覚をその内側から味わい感じる準備が出来ます。
例えば、自分の中に不快なボールがあるとしましょう。
その不快さを「何とか治そう、なくそう」と葛藤している時、それを外側からボールの表面的な感じを嫌々感じていることになります。
ボールの内側の感じはわかりません。

ところが、不快感をなくそうという心を捨て不快感に任せ、今在る不快感の中に深く溶け込み味わおうとした時、自分の意識は不快感の内側にあって不快感と一体です。

こうして一体と溶け合った時、不快感は去っているということになります。
ちょっとわかりにくいかも知れませんね。(^^; 文章ヘタクソ)