按摩さんの日記・過去ログ





01年10月16日


ひっっさしぶりに「ダイナミック瞑想」をやる。
会場の手配がうまくいかず、今月のワークショップは2回のみ。

呼吸のステージ。
はじめ、鼻の通りが悪く、かなり息苦しい。
からだ全体を反らすように吸って、からだ全体を丸くするように吐く。
鼻から吸って、鼻から吐く。
それを激しく繰り返す。

からだの動きの大きさに比べて、入る息、出ていく息の量が少ない。
最初は息苦しい感じだったけれど、続けるにつれて鼻の奥が開いてくる。
呼吸がスムーズに出入りし、からだ全体が「ふいご」のよう。

その後はカタルシス、ジャンプ、ストップ、ダンスと続くのだが。
くぅ〜。
意識やからだが流れるようにスムーズで……。
澄み渡っていく。

終わってから。
しみじみと、いかにそれまで滞っていたのかを実感。
意識や感覚、呼吸が、やっとからだ全体に行き渡った感じ。


何となく、鼻の奥の詰まり具合は、「アタマの詰まり」と関係あるような気がする。
アタマの柔軟性がなくなって、アタマが硬直してくると、同時に鼻の奥も詰まって来るような……。


OSHOコミューンでリバランシングのトレーニングを受けていた時。
その中に鼻の奥のワークがあった。(らしい)
手術用の薄いゴム手袋をはめ、グリセリンを塗って、相手の鼻の奥に自分の小指を入れていく。
指を入れ、ある時点でそれ以上は入らないところがある。
そこで軽く圧をかけたままじーっと待っていると、鼻の奥が開き始め、指が徐々に深くまで入り込んでゆく。
感じとしては、目頭付近まで。(ホントそんな感じ)

実はこれ、たまたまその日トレーニングをサボっていたぼくはやらなかった。( ^ ^ ゞ
なので、ある日トランスレーターの日本人お姉さんに頼んで、個人セッションをやってもらったのだ。

指が鼻の奥にじわりじわりと入って来て。
指が奥の何かに触れた瞬間、いきなり
  ぎゃははは
と笑い出してしまった。

鼻の奥に指を突っ込まれたまま、笑い転げるぼく。( ^ ^ ;

別に何か可笑しいことがあった訳じゃないんだけれど。
まるで、笑いのスイッチを押されたみたいに……。
もう一方の鼻をワークした時も、最初ほどではなかったけれど、笑い転げた。( ^ ^ ;

セッションを終え、インドの町に出てビックリした。
「顔中が目になっちゃった!!」
いや、ホントそんな感じだったんス。

顔中が目になったかのように、視界が広いっ!
それまでもマッサージを受けた後、視野が拡がったり、ものがクッキリ見えるようになったりしたことがあるけれど。
その時のように「顔中目」と思うほど視界が広がった経験はなかった。


もちろん顔や頭の緊張自体、「深刻さ」や「アタマの詰まり」と密接に結び付いていると思うのだが、鼻の奥もけっこう関係が深そうな気がした。



01年10月19日


最近、季節の移り変わりが何だかウダウダ行ったり来たり。
寒いんだか暑いんだか……。
からだがすんなり、夏モードから秋モードへ移行出来ない。
4〜5日前。
「う〜、寒いなぁ」と思い、温度計を見ると19度。
何だかねえ。
これでは夏モードの体感だ。

でも、昨日、今日と、やっと寒くなって来た。
今朝温度計をみ見たら14度。
うん。
秋はこうでなくてわ。( ^ ^ )

このまま順調に寒くなってくれると、からだのエネルギーのベクトルは、やっと内向きの集約モードで定着出来る。
めもメモ4(9/23)の「秋の過ごし方」らしい季節。

ふぅ〜っとお腹に重心を落として。
焦ることなく、ゆったりと。
色鮮やかな風景と、澄んだ空気を味わいつつ。

さて、と。
次の仕事までちょっと時間があるし……。

ゲームでもやるか。( ^o^ ;



01年10月21日


家からJR新秋津駅まで、徒歩で17〜8分。
所々に畑もあったりして、のどかな風景が広がっている。
距離では西武所沢駅の方が近いのだけれど、新秋津駅を利用することが多い。

からだが今ひとつクリアーに感じられない。
呼吸もスッキリと拡がらない。
そんな時。
新秋津駅までの、のどかな風景の中を歩きながら。
吐く息を強く意識する。

歩きながら、重心が下に落ちていくように、下腹部を引き締めるように息を吐く。
息を吐き出し、下腹部が引き締まっていくにつれ、重心が腰、足に落ちていき。
歩くうごき、骨盤、太股、膝、下肢、足首、足の、感覚が鮮明になる。

吸う息は、入って来るに任せる。
吐く息は長く、吸う息は短い。
はじめは、吐く息は口から、吸う息は鼻から。
なんとなくその方が実感的だ。

7〜8分くらい、そうして歩いていると、だんだん息が上がってくる。( ^ ^ ;
運動不足&タバコの吸い過ぎか?( ^ ^ ゞ
うはは。

少し呼吸が苦しくなってきたら、強制的に息を吐くのは止める。
自然に任せ、鼻から吸って鼻から吐く、に切り替え。

でも、もう既に呼吸の深さが変わっている。
らく〜に息が入り、らくに吐いている。
全身の感覚もクリアーに拡がって……。


そう、そう。
最近腸の具合や、日常の感覚の鮮明度がイマイチだったけれど。
行き帰り、こんな呼吸をしていたら、それだけでスッキリ快調に復活した。



01年10月22日


今日は一日しとしと雨。
意味もなく悲しい日だった。

心許なくて、自信がなくて。
役立たずな自分、無意味な自分。

ず〜っと、そんな気分の中にいた。

こんな日。
何故か按摩は……、いい。
自然に、ありのままに触れられるから。

変な自信、構え、防御は、按摩の邪魔。
と、思った。

からだには。
傷つきやすいほど無防備で、触れたい。



01年10月24日


最近、頻繁に師匠(OSHO)のことを思い出す。

数日前、はじめての患者さんに「先生のマッサージ、ホントに丁寧ですね。お師匠さんが素晴らしかったんですねえ、きっと。」と言われた。
何も言えなかった。
胸にこみあげるものがあって。
泣きそうになった。

感謝、のような。
有り難さ、のような。


19年前、弟子にしてもらった。
といっても、エアメールでの申請。
一年後、アメリカ・オレゴンのコミューンに出掛けたけれど。
現実的には、個人的面識なんてない。
広い空間の、遠くの方から見てただけ。
それは10年前、OSHOが亡くなるまで同じ。

師、弟子、と書いてはいるが。
自分で一番馴染む言葉は「私淑」。

   私淑する師、OSHO



01年10月28日


「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」田中嫺玉著 中公文庫

を読む。

インド三大聖人(ゴータマ仏陀、シャンカラ大師、ラーマクリシュナ大覚者)のひとり、ラーマクリシュナ(1863〜1886)の伝記。

狂おしいほど純粋にカーリー女神を求め、瞑想し、感得した人。
後にカーリー女神に遣わされたタントリカ(タントラ行者)から、タントラの奥義を伝授され、たちまちそのすべてに熟達し師をしのぐ。
また、相対世界を超えた意識、無分別三昧を得たトータプリという大悟解脱した師から、そのすべてを伝授され、またもや師をしのいでしまう。

無分別三昧を得た後もその探求はとどまらず、それまで得たものすべてを捨て、イスラム教の見神者ゴヴィンドに導かれ、イスラム教の真理に到達。
また後には、同じくキリスト教も。



国(民族)と、時代と、容器いれもの(人の理解力)に応じて、神さまはいろいろな宗教をおつくりになるということだ。



読んでいて、ラーマクリシュナの純粋さは感動的だ。
「その純粋さはラーマクリシュナだからこそ」「自分とは違う世界の人」と思ってしまうけれど。
「ここからなら始められるかも」と思える教えもあった。


真理を体得した人、つまり覚者はどういうわけで信仰を持ち続けているか、わかるかい?
それは、”私”の念おもいが無くならないからだ。
三昧のときには”私”は無くなるのだが、三昧から下りるとまたもどってくる。
まして、普通の人間の”我執”なんか、どうしたって無くならない。
アスワッタの樹を切っても次の日には新芽がふいてくる。

正しい智慧を得た後でも、まだ”私”はどこからともなくやって来る!
夢で虎に追っかけられて、目が覚めたのにまだ胸がドキドキしている。
生きものは、この”私”があるためにどんなに苦しいことか。

      ……略……

”私”と”私のもの”、この二つが無智だ。
私の家、私の財産、私の名誉、私の学識。
こういう思いは無智から出てくる。

神よ、あらゆるものは全てあなたのものです。
家も、息子も娘も、使用人も、友人知人、みんなあなたのものです。
こういう気持ちは真理の智慧から来る。

~

世間のことが捨てきれない人や、”このワタシが”という気持ちからどうしても抜けられない人は、こうしたらいい。
つまり、私は神の召使い、私は神の信者だと誇らしく思っているのがいい。
信仰の道をすすんでも、ちゃんと神をさとることができるんだから。



神への信仰……。
特定の神は知らないけれど、ぼくの中に「彼方なるもの」「神なるもの」への憧れは、おぼろげに、何となくあるように思う。
それは、この世界から孤立して存在するのではなく「ひとつ」、というような感覚。



ラーマクリシュナを読みながら。
昨日は「ブレス&メディデーション」の日。
最初はいつもの「ミスティック・ローズ瞑想」の短縮版。

「笑い」のステージ。
笑うことはすべてを放棄してしまう、明け渡してしまうこと。
そんな感じがする。
”私”を手放して、笑いだけがある。
……と、考えてたりするのだが。( ^ ^ ;うはは

「泣き」のステージ。
泣くことは感謝であり祈りなんだ、と実感。
彼方なるものへの憧れ。
世界から孤立し分離した”私”が、”ひとつ”に恋い焦がれる。
そんな、祈りに似た涙が胸から溢れ出した。

瞑想の後。
溢れ出した涙が、からだ全体を潤わせてくれた感じがする。
昨日は一日中何かに満たされていた。


で、ワークショップ後自宅に戻り、按摩のお仕事。
同郷の患者さんが「青森ヒバのお香」を持って来てくれる。
焚くと、治療室の空気が爽やかに! ( ^ ^ )



話は、また「インドの光り」に戻るけど。
この時期、タイムリーな話題もあった。

1893年、アメリカで世界宗教会議が開催される。
その場で、ラーマクリシュナのすべてを受け継いだ弟子のヴィヴェーカーナンダは、普遍的な宗教真理を確立し、会議に重要な一大結論を与えるような講演を行う。


キリスト教徒はヒンズー教や仏教に改宗すべきではない。
ヒンズーや仏教徒はキリスト教に改宗すべきではない。
しかし各人は、他の人々の精神を同化しながらも自分の個性を保存し、かつ生長の法則に随って生長しなければならない……。
もし宗教会議が世界に対して何か示したことがあるとすれば、それはこういうことである。
すなわち、この会議は、神聖、純粋、および慈悲ということは世界におけるどの教団の専有物でもないこと、および何れの組織も最も高い人格を持つ男女を生んだということを、世界に対して証明したのである。

この証拠があるにもかかわらず、もし誰かが、ただ自分の宗教のみが正しくて永久に存続し、他の宗教は破滅すると夢想しているならば、私はその人を心底から憐れみ、彼にこういう事実を指摘しよう。
それは、たとい誰が抗議しようとも、何れの宗教の旗幟の上にも間もなく、『互いに助け合い、戦わず』『理解して、破壊せず』『調和して、不毛の論争をせず』と書かれるであろうということである。



そして、西洋文明やキリスト教にも遠慮のない所信を表明している。


西洋文明の特色は国民的虚栄心と利己心であり、華美を競い、宗教および文化上においては排他的、独善的であり、経済上では弱者を搾取し、政治上では陰謀と暴力が行われている。

~

あなた方の自慢するキリスト教は剣なしに何を世界でなしたか?
イエスはあなた方の教会の中に頭を休めるべき石一つ見出さないでしょう。
あなた方はキリスト教徒ではない。
キリストに帰りなさい!




実はこの本。
プラバさんが友だちから借りて来た本を、彼女が読む前に横取りして読んだ本なのだ。( ^ ^ ゞ
何度も繰り返して読みたいので、本屋さんで探して買うことにしよう。



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九段下でマッサージ!悠の癒
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