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 *心と体 [#z86d36a4]
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 #insert
 
 2009-03-21 (土) 15:44:37
 
 ''首の横の凝り''
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903211.gif,nolink);
 
 
 ストレスにさらされたり、眉間にシワを寄せるように深刻に考え込んだり悩んだり、自分を守るように身を固くしたり……。
 そんな体の状態が継続したり無意識なクセになっていたりすると凝るのが首の横。
 繊細だったり過敏だったりする人もよく凝っています。
 
 ここが凝ると同時に胃やお腹のあたりも凝るのですが、ず〜っと以前から興味を惹かれるのはやはり首の横の凝り。
 胃やお腹の凝りよりも、より繊細で敏感な層というか感性、感覚が緊張して凝っている感じがします。
 本来は「豊かな感性」だったものが「過敏」のような鋭角的な感じになったような。
 ここの凝りが緩むと、集中的で過敏だった感性に余裕が生まれ、視野が拡がる、そんな感じもします。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903212.jpg,nolink);
 
 
 実際に首の横の凝りに触れた時、主に触れるのが上図の前斜角筋だと思われ、このすぐ奥には中斜角筋があり、この前斜角筋と中斜角筋で出来る隙間=斜角筋三角を腕の主動脈である鎖骨下動脈や頸椎から出た腕の神経群が通っています。
 ですから、この斜角筋が凝ると腕の神経や動脈への影響も考えられますよね。
 
 
 以前、呼吸も全身が微妙に連動しつつその働きを続けていると書きましたが、多くの場合全身が協調的に連動せずに胸部付近で局部的に浅い呼吸をしていることが多いです。
 斜角筋は首の骨から一番上の肋骨に付いていて、息を吸う時、それも肺の頂上部に吸い込む時に活躍するのですが、凝りや感覚の無さ故に活躍出来ない斜角筋が多いみたいです。
 また、人は体の周囲に拡がり感や開放感を感じることが出来るのですが、肩や首周囲が凝っていて感覚が鈍っていたり仮死状態に近くなっていたりすると、肩から上の拡がり感が感じられなくなります。
 
 という訳で、主に斜角筋のことを書いてきましたが、要するに首や肩周囲の凝りを和らげて、感覚を活き活きと蘇らせたいのです。
 その為にも毎日前屈で呼吸してます。
 
 「[[呼吸を拡げる・前屈(1)>http://tao.main.jp/anma_pukiwiki/index.php?%B8%C6%B5%DB%A4%F2%B3%AB%A4%AF#w21f71f0]]」は、この肩や首周囲、特に首の横と前の感覚を蘇らせるよい機会です。
 (ちなみに、感覚が蘇れば凝りは自然に緩んでます。前にも書きましたが、按摩やマッサージで凝りが緩むのは、凝っている状態をありありと感じられるように触れることで感覚が蘇り、結果として凝りが緩むということです)
 息を吸いながら詰まり感や凝り感のあるところをじっくりと縮ませて、吐く息とともにリラックスする。
 無意識に緊張していた部分を、意識的に更に緊張させることで感覚を蘇らせていく。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903213.gif,nolink);
 
 
 
 意識的に緊張させる時、前屈の姿勢で縮んでいる部分、首の横の部分や肩の盛り上がっている部分、腕の三角筋付近などをより緊張させてみる。
 緊張させながら、両肩や両肘を内側に回すようにしたり、首を微妙に左右に傾けたり回したりすると、緊張する部分が微妙に変化し、目覚める部分も多くなります。
 
 そして、吐く息とともにリラックス……。
 
 
 
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 2009-03-19 (木) 12:40:15
 
 ''呼吸を拡げる・前屈(2)''
 
 前屈したまま、片側で伸びをします。
 
 ''前屈したまま片側で伸び''
 ''1.''
 まず、右の座骨(お尻で床に接地している部分)を床に押し込むように、床から座骨で伸び上がるようにします。
 実際は座骨に充分に重心がかかり、若干右脇腹が伸びるような感じになります。
 息を吸いながらゆっくりじっくりと座骨で伸び上がるようにし、吐く息とともにリラックスします。
 リラックスした時には、伸び上がった姿勢は若干ゆるむものの、伸びた部分は自然にそのままにしておきます。
 これを2〜3呼吸行います。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903181.jpg,nolink);
 
 
 ''2.''
 次ぎに、脇腹を伸ばすように、伸び上がります。
 以下「2」〜「4」すべて、吐く息とともにリラックスした時は、無理に戻さず伸びたままでよいです。
 これも「1」同様、呼吸とともに2〜3呼吸行います。
 
 ''3.''
 今度は右腕を内側に回すようにしながら、肘を上方に伸び上げるようにします。
 画像では、両手指先が離れていますが、実際の四肢指先は足の指(足の裏側)にフックのようにひっかけ、両手母指はからめたままです。
 ここでも「1」同様、呼吸とともに2〜3呼吸行います。
 
 ''4.''
 「3」までは伸び上がる右側だけを意識しましたが、今度は「3」を反対の左側を充分縮めるよう意識して行います。
 左腕の肘が床につくようイメージするといいと思います。
 これも呼吸ととともに2〜3呼吸。
 
 「1」〜「4」まで行ったら、また最初の前屈した状態に戻ります。
 この時、左右の感覚差をじっくり味わってみて下さい。
 伸び上がった右側だけが緩んで拡がった、なんだか奇妙な感じが味わえると思います。
 これだけ右側に呼吸するスペースが生まれたということです。(^^)
 
 左右の感覚が妙に異なる感じを味わったら 、「1」〜「4」を左側でやってみましょう。
 
 
 ここでは、「伸び」または「伸び上がる」感じで行うのがコツです。
 ストレッチ等で体の各部を伸ばしたり柔らかくしようとする時、痛みやつっぱり感を無視してひたすら伸ばそうとすると、身体各部には葛藤が生じます。
 体としては、それまでの生活習慣上必要な部分だけ効率的に動かしてきたものを、突然習慣から逸脱した動きや姿勢を強制される訳ですから、当然嫌がります。
 それを「体を柔らかくする」という大義の元、本人が強制しちゃうんですから、葛藤している部分の感覚は徐々に鈍化していきます。
 結果、体のある部分は可動域が拡がるかも知れませんが、感覚の鈍化した使えない部分が増えることになります。
 
 活き活きとした風通しのよい体は、意識を向ける多くの部分が感じられて動かせ、使うことが出来る体です。
 
 ですから、コツは「伸びる」です。
 単に伸ばすのではなくて、積極的自発的に「伸びる」。
 これ、気持ちいいです。
 続けていると、どのように伸び上がれるようになってきたか、その変化や進化、深化の具合がよくわかります。
 
 一応やり方ということで道筋を書いていますが、どんどん自分なりに伸び方を感覚とともに工夫していけたらベストです。
 
 
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 2009-03-17 (火) 17:20:26
 
 ''呼吸を拡げる・前屈(1)''
 
 ここ数ヶ月特に「体の風通しがいい〜」と感じるようになったのですが、それはず〜っと続けていたストレッチをともなう呼吸法と、文字通りの呼吸法、そして感覚イメージを積極的に取り入れてから。
 誰かの参考になるかも知れないので、それらをメモしておくことにします。
 
 ''■前屈しながら呼吸を拡げる''
 
 まずは床に腰を下ろして前屈します。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903171.jpg,nolink);
 
 
 背中や下肢の後側が適度に伸びてつっぱり感を感じられる程度の姿勢にします。
 痛みが出るほど無理して伸ばさないように。
 自然に膝が伸びてしまう人は伸びたままでよいですが、伸びない人は無理のない角度まで曲げておきます。
 
 両手の四指は足先から足の裏にまでフックのように指先を引っかけておき、ブレないように両手の親指をからめておきます。
 (ぼくはガニ股なので(^^ゞ、両手親指をからめておかないと、リラックスした途端に両足先や膝が開いてしまいます)
 
 
 このように体を適度に窮屈にした状態で、3〜4呼吸、楽に呼吸をしてくつろぎましょう。
 息を吸う時に体がゆっくりと膨らんで、息を吐く時には縮んでいくのを意識すると楽しいです。
 また、吸う息の時は特に意識しなくていいですが、吐く息ととももにリラックスするようにすると、よりくつろげます。
 
 3〜4呼吸くつろいだら、そのままで緊張しているところや詰まり、多少痛みがあるところを確認します。
 背中や下肢の後側は特に気にしないで、主に上半身の縮んでいる側を意識してみましょう。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903172.jpg,nolink);
 
 
 人によって緊張や詰まりのあるところは異なりますが、股関節の前側(鼠径部)や下腹部、みぞ落ちのお腹内部、特に首の横や肩の付け根、三角筋付近の感覚をじっくりと観察します。
 緊張しているところや詰まっているところ、多少痛いところが大体わかったら、ゆっくりと息を吸いながらその部分(複数箇所あればその複数箇所全部)をぎゅ〜っと緊張させていきます。
 そして、息を吐くと同時に全身をリラックスさせていきます。
 風船から空気が抜けていくように、風船がしぼむように。
 
 このリラックスした状態でも、足先にフックのように引っかけている指先は引っかけたままです。
 息を吸いながら緊張しているところを意識的に更に緊張させていき、吐く息とともにリラックス……、これを3〜4呼吸繰り返します。
 
 
 これだけで、身体前面の緊張して呼吸が入らなかった部分にも楽に呼吸が入るようになり、はじめに前屈した時より余裕が出来て楽になっているはずです。
 
 
 〜つづく〜
 
 
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 2009-03-16 (月) 18:03:52
 
 ''パソコンでの目の疲れ''
 
 パソコンを長時間使っていると目の奥に塊が出来たように痛くなって疲れたりしますが、テレビを同じくらい見続けてもそうはなりませんよね。
 それはたぶん、テレビを見ている時は、映っているものを眺めるように見ていて、積極的に見てるというよりは映っているものを見させられている、そんな状態に近いのではないでしょうか。
 意識もそれほど見ることに集中してはいなくて、身体性をともなった日常空間と無理なく行き来できる感じ。
 
 一方、パソコンを見ている時は、身体性をともなう日常空間から思考偏重にシフトしていて、積極的にディスプレイを見にいっている、そんな感じがします。
 あまりに集中してディスプレイを見詰めていると、ついつい顔が前に出て首の後(後頭部の生え際、頭蓋骨底部付近)が縮んで緊張しています。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903161.jpg,nolink);
 
 
 無意識にこんな状態が継続すると、当然後の首や首と頭の付け根付近が凝り、肩も凝ってきます。
 
 ぼく自身はパソコンに向かっている時は、基本的にはディスプレイ画面の映像が目に入ってくるように意識して、眺めるように見ています。
 それでも時々「え!?」と思うような情報を目にした時など、上の図のようになったりし (^^;、「いかん、いかん」と基本的な眺めるモードに戻します。
 これだと、思考世界ドップリよりはそこそこの身体性は残したまま、首の後を緊張させることなくパソコンに向かえます。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903162.jpg,nolink);
 
 
 たぶん、数年前はそんなことは意識せず、いつも見にいくモードだったと思われ、長時間パソコンの前に座っていると度々目の奥が痛くなっていました。
 でも、基本を眺めるモードに変えてからは、目の奥が痛くなることはほとんどないです。
 最初のうちは無意識にけっこう見にいくモードになっていますが、気づく度に眺めるモードに戻していると、数回で眺めるモードが基本になります。
 
 ただ、やはり長時間一定焦点距離の画面を見続けていると、目全体がボ〜っと疲れたようにはなります。
 なおかつ、ほとんど身体性から切り離された思考世界に浸っている訳ですから、身体感覚もおろそかに。
 ですから、適度な眼球運動と焦点を移動する目の体操のようなものを時々行い、ストレッチをともなった呼吸法のようなものは必須です。
 
 思考世界に浸った分、感覚世界にはそれ以上の濃度で浸らないと、どっちがメインなんだか分からなくなっちゃいますよね。
 
 
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 2009-03-14 (土) 15:56:23
 
 ''風通しのよい体とは''
 
 風通しのよい体になるにはどうしたらよいでしょう。
 
 「風通しのよい体」にも書きましたが、呼吸は全身が協調的に連動する全身運動です。
 
 
 #flash(http://tao.main.jp/img/yin_yan.2.swf);
 
 
 全身が協調的に連動し、呼吸の繰り返しが微妙なうねりとなって収縮・膨張し続けている体。
 感覚的には、呼吸が全身に行き渡っている感じ。
 体がそんな状態だと、ものすご〜く風通しがよいです。
 もちろん体も軽いし、感覚も思考も体の外に対して開放的に拡がっています。
 
 全身に呼吸が行き渡るためには、全身の感覚が目覚めている必要があります。
 これは別に「100%目覚めていること」が必要とされている訳ではなくて、常に「今まで以上に」ということ。
 全身の感覚を目覚めさせようとするベクトル、感覚のネットワークをより濃厚に密にしようとするだけでよいと思っています。
 40%の感覚しか目覚めていない体が50%まで感覚が目覚めるようになったら、かなり快適に風通しよく感じるはずです。
 
 「風通しのよい体」で、マッサージに関して次のように書きました。
 
 >マッサージをした後、体が軽く感じられたり視界のモヤが晴れたようにスッキリしたりしますが、
 >要するに風通しが悪かった体が風通しがよくなったからそうなる訳で、感覚的にはとってもわかり
 >やすい現象ですよね。
 
 按摩やマッサージでコリがほぐれたり体が軽くなるのは、按摩やマッサージされた部分から感覚が目覚めてくるからです。
 凝っていたり澱んでいたり滞っている所は、感覚が眠っていたり仮死状態になっている所。
 その感覚が第三者に触れられることで目覚める、それが按摩やマッサージの本質だと、ぼくは思っています。
 施術者自身が、そこがどのような状態になっているか感じられるように触れる。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903141.jpg,nolink);
 
 
 そうすると、受け手は意識的に、または意識と無意識の狭間で「そこがどのような状態になっているか」を感じます。
 「感じる」のですから、既に感覚は目覚めはじめてますよね。(当たり前ですね)
 
 なので、必ずしも第三者に触れてもらう必要はなくて、自分ひとりで凝っていたり澱んでいたり滞っている所を見つけ、その部分の感覚を目覚めさせるだけでもよいです。
 というか、「凝っていたり澱んでいたり滞っている所を見つけ」た段階で、既に感覚は目覚めはじめているのですが……。
 
 
 ところで、按摩やマッサージを受けた後、それまでより格段に目覚めた全身の感覚を、積極的に味わい愉しむことが出来れば、効果(感覚の目覚め)はより浸透し発展していきます。
 患者さんには、もっともっと「感覚」にフォーカスを当て、価値を見出してほしいです。
 
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 2009-03-13 (金) 17:43:59
 
 ''風通しのよい体''
 
 自分の体が風通しよくてまわりに拡がっている、そういう状態が気持ちいいです。
 単純なことですが、そういう時、しあわせだな、と思います。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903131.jpg,nolink);
 
 
 逆に、体が澱んでいて重く閉塞的な時、そういう時の体の状態には気づいてません。
 たまに気づくと、ものすご〜〜〜く気持ち悪いです。
 
 
 &ref(http://tao.main.jp/img/0903132.jpg,nolink);
 
 
 なので、ほとんど毎日、体に呼吸が行き渡っているか、滞っているところをチェックしたり、全身に呼吸を行き渡らせる呼吸法のようなことをしています。
 
 無意識に吸ったり吐いたりを繰り返している呼吸は、ものすご〜く微妙なのですが全身が協調して連動している全身運動です。
 体に澱んだり滞っているところがあると、その分呼吸は偏ったり浅くなったりし、そして気づかないうちに体の風通しは悪くなり、閉塞的に重く感じられるようになります。
 マッサージをした後、体が軽く感じられたり視界のモヤが晴れたようにスッキリしたりしますが、要するに風通しが悪かった体が風通しがよくなったからそうなる訳で、感覚的にはとってもわかりやすい現象ですよね。
 
 ところで、マッサージ師は自分で自分の体をマッサージする訳にもいかず、日々の体のメンテナンスは自給自足するしかないのですが、実際にはそれほど難しいことではないです。
 風通しのよい体の感覚を知っていて、なおかつ体が澱んでいたり風通しが悪いと気づくことが出来れば、あとは何としてでも感覚を風通しよくするしかないですものね。
 ただ。
 風通しのよい体の感覚を知ってはいてもそれに価値を置いていなかったり、体の澱みや風通しの悪さ、ダルさや重さを、ストレートに気持ち悪いと感じなかったり無視する傾向があったりすると、セルフメンテナンスは難しいです。
 って、多くの人がそうなんですけど。(^^;
 
 体が風通しのよいと感じる感覚以上に大切な仕事や目標や成すべき事がてんこ盛りだろうし、多少の体の澱みや風通しの悪さ、ダルさや重さなんかにかまけていられないみたい。
 でもね。
 人生の変わり目や病気の時、自分や体をもっとあるべき姿にしたいと思った時には。
 
 そういった感覚たちにも目を向けて欲しいと思ったりする按摩さんなのです。
 
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 2008-04-24 (木) 15:26:19
 
 ''マッサージ雑感'' 其の弐
 
 前回、ぼくが行っている按摩を「慰安の技としての情緒的按摩なのです」と書きました。
 それを具体的に説明してみたいのですが、その前に病(やまい)とは何か、痛みや苦しみ、病気とは何かを、古典を通して説明したいと思います。
 
 江戸時代の按摩の古典「導引口訣鈔・導引根源の訓」には以下のように記されています。
 
 >''ある人が問う。''
 >''「諸々の病気は何が根本原因なのか。」''
 >''答えて曰く。''
 >''「つかえ滞ることによって起こる。」''
 
 
 病気の根本原因はつかえや滞りだと言い切っています。
 これを現代的に身体だけに限定してとらえないで下さいね。
 心身ともに気がつかえ滞ることで病を得る、と考えればよいと思います。
 
 柳生但馬守宗矩による「兵法家伝書」は剣術の伝書ではありますが、病は思い詰めること、心の滞りだと言います。
 
 >''勝たんと一筋に思ふも病なり。''
 >''兵法使はむと一筋に思ふも病なり。''
 >''習ひのたけを出さんと一筋に思ふも病、掛からんと一筋に思ふも病なり。''
 >''待たんとばかり思ふも病なり。''
 >''病を去らんと一筋に、思ひ固まりたるも病なり。''
 >''何事も心の一筋に、留どまりたるを病とするなり。''
 >''この様々の病、みな心にあるなれば、これらの病を去って心を調うる事なり。''
 
 
 では、その病から去るにはどうしたらよいのでしょう。
 「兵法家伝書」は具体的に言います。
 
 >''一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。''
 >''去らんと思うが病気なり。''
 >''病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。''
 >
 >
 >>病を去ろうと思う心が一切無いこと、それが病を去るということだ。
 >>去ろうという思いもまた病気なのだと知りなさい。
 >>病気に任せ切り、病気の内に溶け込み一体となることが病気を去るということになる。
 
 
 最初の「一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり」が重要なポイントになります。
 病気とは心身の気のつかえや滞りですが、それは心身の痛みや苦しみ、不快感として感じます。
 普通、不快な感覚や想いはじっくりとは感じたくないものですから、出来る限り感じないようにし、「何とか治そう、なくそう」と考えます。
 ですが、いくら心や頭で考えたり望んだりしたところで、リアルな不快感が自分の中にあるのは事実です。
 そして、心や頭で考えたり望んだりするエネルギーが強ければ強いほど、リアルな不快感との間の葛藤はより強くなります。
 この葛藤、実はこれ自体もつかえ滞りで、「去らんと思うが病気なり」ということになります。
 
 ところで、不快感を「何とか治そう、なくそう」と考え葛藤している時、不快感は表面的にしか感じていません。
 そもそも感じたくないのですから、その感覚を深く味わうどころの話ではないですよね。
 
 さて、先ほどのところにもう一度戻りましょう。
 
 >''一向に病を去らんと思ふ心の無きが、病を去るなり。''
 
 
 まず、「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤自体も滞りなのだから、その焦りや葛藤を捨てることが心身の不快感(痛み、苦しみ)から去る第一歩なのだよ、ということです。
 
 >''病気に任せて、病気の内に交わりて居るが病気が去つたるなり。''
 
 
 「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨て、心身の不快感を「事実あるのだ」と受け容れ、その感覚を内側から感じて一体となれば心身の不快感は去るのだよ。
 「何とか治そう、なくそう」という焦りや葛藤を捨てた時、ようやく不快な想いや感覚をその内側から味わい感じる準備が出来ます。
 例えば、自分の中に不快なボールがあるとしましょう。
 その不快さを「何とか治そう、なくそう」と葛藤している時、それを外側からボールの表面的な感じを嫌々感じていることになります。
 ボールの内側の感じはわかりません。
 
 &ref(http://anma.air-nifty.com/photos/uncategorized/2008/04/24/kokoro001.jpg,nolink);
 
 ところが、不快感をなくそうという心を捨て不快感に任せ、今在る不快感の中に深く溶け込み味わおうとした時、自分の意識は不快感の内側にあって不快感と一体です。
 
 &ref(http://anma.air-nifty.com/photos/uncategorized/2008/04/24/kokoro002.jpg,nolink);
 
 こうして一体と溶け合った時、不快感は去っているということになります。
 ちょっとわかりにくいかも知れませんね。(^^; 文章ヘタクソ)
 
 以下次号、ということで。(^^ゞ
 
 
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 2008-04-23 (水) 16:09:27
 
 ''マッサージ雑感'' 其の壱
 
 按摩のことをマッサージと呼ぶようになって久しいですが、日本のマッサージ店やマッサージ治療院、サウナ、温泉等で行われているマッサージのほとんどすべてが、実は手技としては"按摩"です。
 では手技としての"マッサージ"は何かといえば、皮膚に直接に働きかけるのが西洋由来の"マッサージ"。
 エステやアロマなどで行われるオイルマッサージがその代表格だといえばわかりやすいでしょう。
 他にタルクと呼ばれるパウダー(ベビーパウダーがわかりやすいと思いますが)を用いたパウダーマッサージなどがそれです。
 
 片や日本の按摩は、衣服の上から日本手拭いをかけ、その上から主に母指を用いて働きかけます。
 まあ、按摩もジャパニーズ・マッサージという広義の意味でのマッサージですから間違いではないのですが、この日本の風土で独自に育まれた伝統の技を広義のマッサージという名称で埋没させてしまったのは如何にも残念なことです。
 言葉が埋没してしまえば、そこに含まれている精神や雰囲気、情緒まで損なわれてしまいますから。
 
 今「伝統の技を広義のマッサージという名称で埋没させてしまった」と過去形で書きましたが、それはおそらく過去形で語るべきことなのだと思います。
 西洋医学や科学を信奉し、合理性や論理性に重きをおくようになった時、それははじまったのでしょう。
 医学や科学、合理性、論理性への盲進が頂点にある今、過去に持っていた按摩の空気は既に失われてしまったのだと思います。
 
 
 かつて按摩は慰安の技でした。
 一応「抑按調摩の術」などと治療理論があるかのようにもいわれていましたが、その実際は、撫でさすり揉む、素朴で原初的なものです。
 ただ、世界に類を見ないほど繊細な感性を持つ日本人が行う按摩は、相手の人や相手の体に対していたわりと畏敬の念さえ抱く、優れて情緒的な慰安の技でした。
 
 医学、科学、治療効果、結果が重視されはじめると、いたわりや畏敬、情緒などは必要なくなります。
 本当は、それらによって治癒が促されるのですが……。
 
 という訳で、実のところぼくが行っているのは。
 国家が認めるあん摩マッサージ指圧師免許や医業類似行為や治療効果などとはまったく無関係な、慰安の技としての情緒的按摩なのです。
 (二次的に治療効果があったり治癒が生じたりはしますが、それは二次的なこと)
 
 
 タイトルを"其の壱"としましたが、つづきはあるのでしょうか。笑)
 
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 2008-04-16 (水) 16:53:53
 
 ''養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 3''
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 >''道に遊んで長生せんとおもひ給はば、却ってまづ生死を捨給へかし。''
 >''生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。''
 >''これ天命に安んずといふ。''
 >''天命に安んずるは、すでに道に遊べるなり、其胸中ここに豁然たらば、など元氣の屈伏せる事のあるべき。''
 >''元氣融通無碍にして天地の生育の化を蒙らば、などうくるほどの天命を盡さざらん。''
 >&color(white){.};
 >&color(white){.};
 >>道に遊んで長生きしようと思うのならば、逆に長生きしよう死から逃れようとする思いを捨てなさい。
 >>生死を捨て、生死をすべて天命に任せ、私(わたくし)を用いずに生きるということ。
 >>これを天命にくつろぐというのだ。
 >>天命にくつろげば、それは既に道に遊ぶことであり、その胸中は迷いがなく爽やかで、元気が鬱屈するということもない。
 >>元気が融通無碍にのびやかで天地のエネルギーを存分に浴びていれば、どうしてこの天命を尽くさないということがあるだろうか。
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 
 
 この段では、道に遊び長生きするにはどうすればいいかが述べられます。
 柳井三碩さんは、まず、なにはともあれ「生死を捨給へかし」と言います。
 
 「長生きしたい」というこだわりは、「死から逃れたい」という恐怖心から起こるのだと思います。
 恐怖ゆえに安全を求め、養生訓などの養生や健康法にこだわり、「これさえ続けていれば大丈夫」という保証を手に入れる。
 この安全への保証は根深いものがあって、現実をありのままに受け容れることからぼくたちを遠ざけています。
 「〜していれば大丈夫」や「〜であるべきだ」、または「〜が正しい」と固定し保証を得る。
 このように固定、規定してしまえば、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動きに関係なく一定した方法論がある訳ですから、わかりやすくて安全です。
 
 でも柳井三碩さん、このことに関しては最初から「そういう風にこだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうんだよ。知らないだろうけれど、そういったほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに」と警告しています。
 安全を求める為に固定した方法論を手に入れたのだろうけれど、そもそものその安全を求める心が思い違いなんだよ、と言っているようです。
 
 生まれたらいつかは死にます。
 それは、人生のありのままの現実です。
 まずは、それを理解しようとすること。
 丸ごと受け止められないかも知れませんが、理解しようとは思えるはずです。
 「死から逃れよう」と考えるのではなくて、「いつか死ぬということを理解しよう」と考えてみる。
 そんな些細な違いが大きな違いになるのだと思います。
 
 そして、いつかは死ぬと理解しようとした時。
 (えと、いつでもとっても大切なことは「100%理解出来た」とか「どれだけ理解出来たか」ではなくて、そうしようと心のベクトル(向き)を向けるということです)
 いつかは死ぬと意識しはじめた時、「何が何でも死から逃れたい」というトンチンカンな私(わたくし)が激減します。
 安全な保証にばかりこだわっていた意識が、自分や自分の周りの世界で常に起きている変化や動き、"現実"にも開かれるようになります。
 
 現実の生(なま)の自分は、常に変化し続けています。
 その想い、興味、好奇心は常に湧き出し、流れ、一定することはないです。
 それを大切に育み、機会があれば表現し、生きること。
 それが柳井三碩さんの言う「生死をすつれば生死皆命(めい)にまかせて私(わたくし)を用ゐず。これ天命に安んずといふ」なのだと思います。
 
 さて、こだわりなく、自分の内側から湧き出す内発性(想い、興味、好奇心)を育み、それに従って生きるということは、それは既に「道に遊ぶ」ということであり、その胸中には迷いや澱みもなく爽やかで、元気が鬱屈するということもはありません。
 「天命を全うする」という言葉がふさわしいですね。
 
 
 だんだん面白くなってきましたが、次の段がちょっと難しいです。
 手持ちの「療養聖典」にある「寝ぬ夜の夢 抄出」ですが、「抄出」とあるので、掲載してある段落それぞれが連続した段落なのか、飛び飛びにピックアップした段落なのか不明です。
 この次アップするのは、少し先になりそう。(^^;
 
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 2008-04-11 (金) 17:18:15
 
 ''養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 2''
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 >''彼の「養生訓」に書ける内慾をこらへよ、外邪を防げ、飲食はうすくせよ、色慾はこらへよ等の事みなこれ術(すべ)なり。''
 >''行ふを惡しきといふにはあらず、道に遊ぶことを知らざれば必ず拘(かかは)るに至る。''
 >''拘(かかは)るが故に元氣鬱滞す。''
 >''鬱滞すれば、血氣の流行よぞむ。''
 >''表と裏との氣通ぜず、上と下との氣交らず、表裏通ぜざれば天地生育の化を我にうくる事得ず。''
 >''上下まじはらざれば我腔内の精氣、五臓百骸をやしなふこと能わず、外閉じれば病外より生じ、内塞がれば病内に生ず。''
 >''此故に養生に拘(かかは)る人身(じんしん)却って衰弱なり。''
 >''試に田野の人を見よ。''
 >''偶然として百歳にわたる者多く、あながち美食せざるのみにあらず、その心、無我にして知らず識らず道に遊ぶことを得ればなり。''
 >&color(white){.};
 >&color(white){.};
 >>「養生訓」に書いている"内欲をこらえなさい、外邪を防ぎなさい、飲食を少なくしなさい、色欲をこらえなさい"等の事柄はすべてガイドに過ぎない。
 >>これらに従うことが悪いとはいわないけれど、道に遊び人生をのびのびと愉しむことを知らなければ、必ずこだわることになってしまう。
 >>こだわるからこそ元気は鬱屈して停滞してしまうのだ。
 >>生命活動の源である元気が鬱滞すれば当然気血の流れは澱むだろう。
 >>表と裏の気が交流せず、上と下の気が交わらず、表裏交流しなければ天地の有機的生成変化を我が身に受けることは出来なくなる。
 >>上下が交流しなければ、体内の精気、五臓やあらゆる骨を栄養することが出来ず、外が閉じれば病は体表から生じ、内が塞がれば病は体内から生じる。
 >>このようにして養生にこだわる人の身体はかえって衰弱しているのだ。
 >>試しに世間の人を見てみるとよい。
 >>偶然百歳になった人が多く、あながち美食をしないというだけではなく、その心中は無我であり意識せずに道に遊びのびのびと愉しんでいる。
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 
 
 前回に続いて、この段落でも術や方法論にこだわることが気の鬱滞や病を招き、道に遊ぶことの大切さを語っています。
 秘訣は、術にこだわらず道に遊ぶことのようですが、これを説明するのは難しいですよね。
 
 前回も今回も「道に遊ぶ」を気が鬱滞するような「術にこだわる」に対比させて「人生をのびのび愉しむ」という風に表現してみましたが、これだけでは伝わりません、おそらく。(^^;
 
 「術にこだわる」を"考える"ということにしてもよいかも知れません。
 人生をあらかじめ考えたように送る、という表現にすれば文脈的にも合っていそう。
 例えば「〜すべきだ」「〜するのが正しい」という教条的な捉え方。
 人は生(なま)ものですから、このようなハウツー的教条的な枠に縛り付けて人生を送っていれば、必ず破綻をきたすことは目に見えています。
 
 片や「道に遊ぶ」は内発的感性や感覚主導で生きるということになります。
 指針はすべて自らの内側から湧いてくるのですから、予測不可能でありながらも生き生きとしています。
 自分の感性、感覚でありながら、あたかも第三者であるかのようにそれらを観察する観察者の目を持つ必要があります。
 こう書くとなんだか難しく思えますが、まぁ、単純に自らに対して"より意識的になる"ということです。
 100%意識的になる必要なんかはなくて、"より意識的に"、"出来るだけ意識的に"というベクトルこそが大切なんだと思います。
 
 「寝ぬ夜の夢」でも、この先もう少し角度を変えながらこの辺のことを語ってくれると思うので(しっかりとはまだ読み込んでいない(^^ゞ)、ゆっくりと進んでいきましょう。(^^)
 
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 2008-04-09 (水) 14:36:18
 
 ''養生書「寝ぬ夜の夢」を読む 1''
 
 昔買った古書の中に、昭和十三年発行「療養聖典」伊藤康善/編 自然良能社/刊 という本があります。
 療養に役立つ数々の古典の抄出からなる編纂本ですが、時々読み返しているお気に入りの一冊。
 いつも拾い読みするのですが、今回は今まで気づかなかった編で、なおかつ共感するものがあったので、転載しつつ読んでみることにします。
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 >''柳井三碩著「寝ぬ夜の夢」抄出''
 >
 >(※編者注)
 >柳井三碩は徳永末期の醫師なれども傳記は詳かならず。
 >本文は東海道旅行記に寄せて養生を論じたるものなれど、殊に益軒の「養生訓」の意味を強化せる點が面白しと思ひ茲に抄出せり。
 >&color(white){.};
 >&color(white){.};
 >''正徳の年ごろ貝原篤信翁といへる人、「養生訓」を著はして今世に流布す。''
 >''されど其をしへて守る人は甚だ稀なり。''
 >''また能くその言ふ所を守り明け暮れ養ひ拘(かか)れる人、却って多くは多病をまぬがれず。''
 >''これ如何。''
 >
 >''翁曰く、養生訓の術(すべ)に拘(かか)はれる人は枉(まげ)て是をなす者は氣屈してのびず、多病なるもうべなり。''
 >''これ道に遊ぶことを知らずして徒に術(じゅつ)に依って長生せんと思ふなり。''
 >''毫厘の差(たが)ひ謬(あやま)りて千里を以てするものか。''
 >&color(white){.};
 >&color(white){.};
 >(評註)
 >古人が益軒の養生訓を座右の銘とせるはまだ良し。
 >養生訓は衛生醫學を論じ忍耐節制の道徳を教へたる好著なれば也。
 >現代人に至っては新聞雑誌の療病知識を借りて病に對して狼狽すること笑止に過ぎたり。
 >素人には役にも立たぬ醫書抜きて、あれこれと自己診断に惑ひ、足を空に浮かせて藥局の店頭に走る。
 >野菜スープに過ぎざる漢藥か、モヒの毒藥を盛る洋藥か、好む所に随って右往左還し、醫者の門を叩く時は既に病は九分通り快癒せる時か、然らずんば命旦夕に迫る時なり。
 >早死する時は自己の天命を思はずして却って醫藥を恨むなり。
 >古人既に「養生訓」にすら捉はる。
 >今人醫藥に捉はるる愚を笑ふべからずと雖も、主客轉倒せる療養知識も亦憐むべし。
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 
 
 柳井三碧を検索してみると、この「寝ぬ夜の夢(ねぬよのゆめ)」の情報しかありませんでした。
 1802(享和二)年に出ています。
 
 貝原益軒著「養生訓」もそうですが、ぼくの好きな「和漢三才図絵」も「寝ぬ夜の夢」の90年前の1712年。
 「導引口訣鈔」もほぼ90年前の1713年。
 図解入り按摩ハウツー本「按摩手引」が同じ頃の1801年です。
 この数年後に、日本独自の骨接ぎ(整骨)本が出版されはじめます。
 そんな時代ですね。
 
 
 >
 >>正徳年間に貝原篤信翁という人が「養生訓」を書き、今世間で広く読まれている。
 >>しかしその教えを守り行っている人はほとんどいない。
 >>というか、その教えを朝な夕なにかけてこだわって養生している人は、逆にその多くが多病を患っている。
 >>これは何故だろう。
 >>
 >>翁は言う。
 >>養生訓に書いてある方法にこだわる人、無理をして行っている人は気が鬱屈してのびのびせず、多病になるのも当たり前だ。
 >>人生をのびのび生き生きと愉しむことも知らず、あざとくも養生ハウツーに頼って長生きしようと望んでいるのだから。
 >>ほんのささいな思い違いが、取り返しもつかないほどの大きな違いになるというのに。
 &color(white){.};
 &color(white){.};
 
 
 こんな感じでしょうか。
 
 『氣屈してのびず、多病なるもうべなり。』
 感覚的に、病(やまい)=こだわり=気が鬱屈、と思っているのですが、サクッと語ってくれていますね。
 
 『道に遊ぶことを知らずして徒に術に依って長生せんと思ふなり』
 「道に遊ぶ」はごくシンプルに、人生をのびやかに愉しむ、でよいと思います。
 「術によって」は、理論や方法論、ハウツーみたいな、生(なま)の感覚や感性とは対極にあるもの。
 「道に遊ぶ」は生の感覚や感性から為されるものですからね。
 
 シンプルで深い文章です。(^^)
 
 ちなみに、編者の評註も、現代でもそのまま当てはまる痛快な文章です。
 
 (つづく)
 
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 2008-01-18 (金) 15:56:00
 
 ''法を無視した法務省の新職業訓練''
 
 穏やかじゃないタイトルをつけちゃいましたが。(^^ゞ
 原則論としては、こういうタイトルにならざるを得ないということでして。
 法律は、時代や世論によって、その解釈、運用が異なったりしますからね。
 
 ・受刑者にエステ、CADの職業訓練…法務省が来年度から(読売新聞) - Yahoo!ニュース
 [[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080112-00000003-yom-pol>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080112-00000003-yom-pol]]
 
 >法務省は来年度から、刑務所の受刑者を対象に、顔の手入れや脱毛など
 >全身美容サービスを提供するエステティシャンなどを養成する職業訓練
 >を新たに始める。
 
 エステティックの主要な業務内容は、上記記事にもあり皆さんもご存じなように全身美容サービス=全身オイルマッサージです。
 テレビのCMでもよく見ますよね。
 
 ですが、厳密に「あん摩マツサージ指圧師、はり師及びきゆう師に関する法律」(※以後「あはき法」と略します)に照らすと、あはき師免許取得者以外がオイルマッサージを行うということはバリバリの違法行為です。
 ちなみにこれは、現在のあはき法運用において実質的に機能していない条文によれば、という話なのですが。
 ですが、実質的に機能していない条文があるということ自体、おかしくないですか?
 
 
 ''免許所持者以外は違法''
 
 あはき法のトップ、第一条には高らかにこう宣言されています。
 
 &color(darkred){第一条};
 &color(darkred){医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。};
 
 ここで注意してほしいのは、「あん摩、マツサージ若しくは指圧」という名称。
 「あん摩」も広義としてはジャパニーズ・トラディショナル・マッサージと呼べるマッサージに含まれる行為、名称ですが、敢えて「マッサージ」と区別して記述してあるので、ここで述べられている「マッサージ」とは狭義の西洋由来のマッサージと考えるべきです。
 実際、鍼灸マッサージ学校でもそう教えられます。
 
 さて、西洋由来のマッサージの特徴とは何でしょうか。
 それは、あん摩や指圧のように、衣服の上からの施術ではないということです。
 皮膚に直接触れて働きかけるマッサージ。
 ベビーパウダーのようなタルクを塗布して行うマッサージもありますが、最も広く行われている代表的なものがオイルマッサージです。
 
 ね。
 あはき師免許無しで、マッサージの代表選手たるオイルマッサージを業務とすることは、あはき師法違反なのですよ。
 
 ''美容目的だからいいんじゃない?''
 
 当然そういう意見が出ますよね。
 ぼくもそう思います。
 
 ちょっと複雑ですが、ここであはき法第十二条が顔を出します。
 
 &color(darkred){第十二条};
 &color(darkred){何人も、第一条に掲げるものを除く外、医業類似行為を業としてはならない。};
 
 ここで出てくる「医業類似行為」という名称がわかりにくいですよね。
 医行為とか医業とかが医師免許を持った人しか出来ないのはわかりますが、それの類似行為って?
 第一条の人以外ってことですから、「あはき業」のいわゆる治療に類する行為、業のことを規定しているんだから、やっぱり美容目的は関係ないんじゃない? とかそう思うでしょ。
 でも、ダメなんです。
 
 法律を解釈、運用するにあたって、いろいろな疑義が生じます。
 それに対して、厚労省(以前の厚生省)から回答や通達が出るのですが、この「医業類似行為」に対しては、昭和41年に医事第一○八号としてキッパリ、サクッと言い切っています。
 
 &color(darkred){医行為又は医業類似行為(広義とする。)であるか否かはその目的又は対象の如何によるものではなく、その方法又は作用の如何によるものと解すべきである。};
 
 ここでの文脈からいえば、要するに「医業類似行為かどうかは、目的がどうであれその方法が医業類似行為と同じであれば医業類似行為と解すべき」な訳です。
 マッサージを業として行っていたらそれは医業類似行為だよ、ってことですね。
 
 ここまで見てきたように、オイルマッサージが主業務であるエステティックは明らかにあはき師法に抵触する職業です。
 あはき師免許無しでこの業を行うことは、当然違法行為にあたるはずです。
 なのに、何故今まで法に問われることなく、またあはき師会及び関連団体から大きな批判も出ることなく、今ある一大産業になり得たのでしょうか。
 まったくもって不可解です。
 
 過去の国会議事録を調べてみると、あはき師法に関しては療術師やカイロ、整体が問題視されたことはあります。
 ですが、エスティックが国会で取り上げられたのは、回数券や会員登録等の商取引法関連が主で、次に脱毛等の医師法関連のみです。
 あはき師法に関連して取り上げられてたことは一度としてありませんでした。
 何故なのでしょうか。
 
 推測に過ぎませんが、あはき師会等にとって自らの職域に関連する療術師や整体、カイロ等は大問題になり得ても、異業種である美容業界のエステティックは眼中になかったのではないか、ということです。
 まぁ要するに、目先の利益と無関係なことには感心を示さなかった、ことなのでしょうか。
 
 他に、エステティック業はオイルや化粧品等の使用や販売を通して、化粧品、医薬品業界と深く関わっていると推測されるので、そういった資金力、政治力も影響しているのかも知れません。
 が、この辺のことは全然詳しくないので不明。
 
 ''そろそろあはき師法を改正しませんか''
 
 ともあれ、エステティックは厳密にいえばあはき師法に抵触するにも関わらず、その部分を特に問われることなく、今では晴れて法務省が管轄する刑務所の職業訓練に採用されるまでになりました。
 この事は、ぼくには大きな象徴的出来事に思えるのです。
 
 今では、あはき師業以外の足裏、アロマ、タイ古式等、リラクゼーション目的のマッサージ店を街のアチラコチラで見かけるようになりました。
 これらに関して国は、今まで客観的に容認というグレーな態度で臨んできたのですが。
 今回法務省が職業訓練にエステティックを採用したということは、(厳密には)あはき師法に抵触する業務を「国が主体的に推進している」、ということにもなるのです。
 
 ※リラクゼーション目的の民間療法的マッサージや整体、カイロが国によって許容されてきた経緯は、按摩Pukiwiki内の「[[無資格マッサージ問題・まとめ>http://tao.main.jp/anma_pukiwiki/index.php?%CC%B5%BB%F1%B3%CA%A5%DE%A5%C3%A5%B5%A1%BC%A5%B8%CC%E4%C2%EA%A1%A6%A4%DE%A4%C8%A4%E1]]」を参考にして下さい
 
 
 「癒し」という言葉がこれほどまでに流通している社会です。
 もう、美容やリラクゼーション目的のマッサージは、あはき師が独占する職業でもないでしょう。
 あはき師法第一条の主目的は、国民の健康を損なう要因を排除する為です。
 事実、過去の最高裁判所の判決理由で「医業類似行為を業とすることを禁止処罰するのも人の健康に害を及ぼす虞のある業務行為に限局する趣旨と解しなければならない」とあります。
 エステティック業界が現れてから、そしてまたリラクゼーション目的の民間療法的マッサージが出現してから、そのマッサージ行為自体に顕著な危険性が認められたことはありません。
 
 &color(darkred){第一条};
 &color(darkred){医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。};
 
 この第一条のマッサージの定義を医療目的に限定し、昭和41年に出された医事第一○八号
 
 &color(darkred){医行為又は医業類似行為(広義とする。)であるか否かはその目的又は対象の如何によるものではなく、その方法又は作用の如何によるものと解すべきである。};
 
 上記を、目的(美容またはリラクゼーション等)によっては医業類似行為とみなさない旨改正すべきではないかと思います。
 
 また、国がカイロや整体を業として容認しているのですから(※[[無資格マッサージ問題・まとめ>http://tao.main.jp/anma_pukiwiki/index.php?%CC%B5%BB%F1%B3%CA%A5%DE%A5%C3%A5%B5%A1%BC%A5%B8%CC%E4%C2%EA%A1%A6%A4%DE%A4%C8%A4%E1]]を参照)、第十二条は既にその機能を失っています。
 この条文も見直すべきでしょう。
 
 &color(darkred){第十二条};
 &color(darkred){何人も、第一条に掲げるものを除く外、医業類似行為を業としてはならない。};
 
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 2007-06-28 (木) 11:05:03
 
 puru
 
 セカンドライフをはじめてから(ていうか、その前からですが)、ディスプレイの前に座っている時間が増え、その分、目の移動&焦点がものすごく狭い範囲に限定される時間が増えます。 
 もちろん頭や首を固定している時間も増加。 
 
 まず首の後ろがドヨンとして来、その内目の奥がズンとして来ます。 
 こんな時は、自己流ストレッチ&呼吸法で頭=思考に集中していたエネルギーをからだ=感覚に戻る時間を持ちます。 
 すると、たいていは首も目もスッキリして来るのですが。 
 ディスプレイの前に座っている時間がもっと長くなると、それだけでは足りなくなり。 
 ひと月前くらいからは、首の運動もプラス。 
 
 首を上下、左右に倒し、捻転し、前に倒したまま左右傾倒&ねじり、それと同様なことを後ろに倒したまま、右に倒したまま、左に倒したまま、と続けます。 
 次はニワトリのように前後に頭を出したり引っ込めたり。 
 あんど、頭をぐるっと右回し、左回し。 
 これをそれぞれ10ずつやります。 
 
 目的は、眠っている首周囲の感覚を呼び覚ますこと。 
 別に可動範囲を拡げたり、柔らかくすることではなく。 
 優しく丁寧に動かしながら、感覚を味わうこと。 
 これだけで、二次的に可動範囲は広がり柔らかくなります。 
 
 んで、続けていると、どんどん眠っていた感覚が蘇り、スッキリ爽やかになって来ました。 
 出来なかった動かし方も出来るようになったりし。 
 あの、バリ舞踊とかで首を水平に横移動させる動き。 
 前はまるっきり見当もつかいない動きでしたが、今はなんとなく出来るようになってます。 
 
 からだの感覚を呼び覚ますのは、要するに按摩なのですが、ひとりでもかなりのことが出来ますね。 
 むふふ。 
 楽し〜。(^^)
 
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 2007-05-12 (土) 18:31:39
 
 puru
 
 -「グルジェフ伝 〜神話の解剖〜」ジェイムズ・ムア/著 浅井雅志/訳 平河出版社
 
 を読みました。
 発行が2002年。
 先日、図書館に行った時にはじめてこの本の存在を知りました。
 10年以上前、グルジェフに関する本はほとんど読んだつもりでしたが、その後は本そのものからかなり遠ざかっていたので……。
 
 以前グルジェフは、ぼくにとってはかなり怖いというか厳しいという印象がありました。
 でも、この本を読んでから、グルジェフがものすごく近く感じられます。
 「近く」という表現はおこがましいし変ですね。
 なんというか、思った以上に暖かい存在に感じられるようになった、そんな感じです。
 
 波瀾万丈の生涯、近づいては離れていく弟子たち。
 身近にいる弟子たちには醒めて在ることを促す為、自らの存在も含めて敢えて常軌を逸した状況を創り出すグルジェフ。
 価値判断や情動に同一化した機械人間から、醒めて在る為に。
 それを醒めて見守っているであろうグルジェフの眼差しが、とても温かく感じます。
 (それはおそらく、著者自身のグルジェフに向ける目が温かい故だと思うのですが)
 
 著者のスタンスもバランス良く感じられ、知的でユーモア交えた文体も読みやすく、一気に読んでしまいました。
 今、二度目。
 
 それにしても、こういった本に出会えるのは、本当に有り難いです。
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 2007-05-09 (水) 17:25:44
 
 puru
 
 先日のテレビ朝日「ナンだ!?」。
 バスケットボールやバレーボールなどで司令塔といわれている人たちの特集でした。
 中でも興味深かったのは、試合中に全体の様子を眺めているのは、普通の目からの視線ではなく、やや上空の俯瞰した所から見ているという発言。
 もちろん脳内でイメージ処理したイメージ映像なのだろうけれど、それを試合中当然のごとく行っているというのには驚きます。
 
 バスケットボールが上達しない人は、ゴールのリングを見た目のまま見ている人だとか。
 リングは横から見ると、線に見ますものね。
 上手くなる人は、ゴールにシュートする時、リングを円として(俯瞰したイメージ映像で)見ていてその中にシュートするんですって。
 なので、下手な人はリング前面にボールを当てやすく、上手い人は輪っかの中に入るかリングの向こう縁に当てるとか。
 面白いですね。
 
 ところで、最近マスコミでぼちぼちと取り上げられているオンラインゲーム「セカンドライフ」というヤツに、時々潜り込んでいます。
 潜り込んでも何もすることがなく、すぐ飽きるのですが。
 でも、世界がバーチャル3Dで出来ていて、その中を自分の分身が動き回るというのは、何やら新鮮なものがあります。
 先の俯瞰した目線に限らず、バーチャル上で自由に3次元をフル活用して上下左右から眺められるのですから。
 そう、空も飛べます。
 
 CENTER:&ref(http://tao.main.jp/img/sl05.jpg,nolink);
 
 このゲームをするようになってから、普段の生活でも周りの風景をイメージ内3Dで眺めたりし、けっこう遊んでいます。
 スズメさんがベランダにやって来るのを楽しみしていたりするのですが、スズメさんの視線でこのベランダを眺めたら……。
 道の向かい側の電線に留まって、そこからベランダを眺め。(おぉ、なるほど。網戸越しにかすかにレースのカーテンの揺れが見える。)
 一旦すぐ向かいの家のひさしに留まり様子を伺う。(む。けっこう部屋の様子もわかるですね。)
 ……などとシュミレーションしてみたり。
 意外と簡単にイメージ出来るのも不思議。
 
 ところで、仕事柄、人の体に触れている時は3Dで見ている時がほとんどです。
 こちらは俯瞰ではなく、断面図みたいなのを含む透視図、かな。
 凝りに触れている時は、触れている周囲の皮膚、筋肉、骨などの内部映像が立体的にイメージ内に浮かんでいます。
 例えば、横向きに寝ている患者さんの背後から背中に触れている時。
 皮膚に触れ、そしてもう少し中に入り筋肉にも触れます。
 この時、触れるとともに入っていく指の圧は患者さんのお腹方向にかかっていますから、必然的に背骨のたわみ具合が感じ取れます。
 背中の筋肉が凝っていると背骨の動き(たわみ具合)も当然悪くなるのですが、その動きの悪さを形成しているのは背中の筋肉の凝りだけではない場合もあります。
 そんな時、入っていく指の圧が背骨前面で止まったり(大腰筋などの緊張)、それよりもっと前に進んでお腹あたり(腹直筋の緊張)で止まったり。
 その止まる場所で緊張している場所がわかります。
 
 いつか、こんな按摩中の視覚イメージを、3D画像にしてみたいのです。
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 2007-05-04 (金) 09:24:30
 
 だるま
 
 おはようございます!
 
 >でも、整体でいう「心の打撲のほうが厄介」というのは、事故とか手術のショックじゃなくて、もっと精神的なトラウマっぽいもののことを指しているのかな?
 
 そうすっね、色いろな解釈があると思いますが、精神的なトラウマと考えてよさそうっす。ただし、大きなショック(例えば、好きだった身内が亡くなった場合)だけでなく、普段の生活の中で、人から、何気なく言われたことが、言われた人の中で、嫌な空想や連想に結びついてトラウマとなってしまうこともあります。
 
 人によって言葉を選んで話さないと、大変なことに発展する可能性があるので、私も注意していますが、なかなか難しいすっね!
 
 
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 2007-05-03 (木) 13:58:22
 
 puru
 
 こんちわ、だるまさん。
 
 >プルさん、面白い記事を紹介してくれてサンキューっす。
 
 いへいへ。
 ていうか、こういったレスポンスがあるとうれしいです。
 話しが広がるし。
 
 >ちょと、ずれてしまうかもしれませんが、整体には、「心の打撲のほうが厄介」と言われています。
 >これは、体の奥のほうにショックが入ってしまい、症状の改善に長い年月がかかるからです。
 
 うん。
 体の奥にショックが残ること、あるよね。
 事故とか手術、歯の治療なんかでも。
 人や状況、タイミングにもよるらしく、大きな事故後でもまったくショックが残らないこともあるので不思議。
 
 でも、整体でいう「心の打撲のほうが厄介」というのは、事故とか手術のショックじゃなくて、もっと精神的なトラウマっぽいもののことを指しているのかな?
 
 今回は、CBSドキュメントでメモリードラッグ・プロプラノロールに関する番組を見て興味をひかれたのですが。
 電車事故の現場に居合わせ、それ以来その時のことを思い出す度にパニックに襲われるという女性が、プロプラノロール服用後は思い出してもパニックに襲われなくなったという事例を見。
 プロプラノロール使用前・使用後の体を診てみたい! と思ったことでした。
 
  PTSDの発作で極度の恐怖を感じる際には、カテコールアミン(アドレナリン)と呼ばれるホルモ
  ンが放出される。
  プロプラノロールなどのβ遮断薬は、カテコールアミンが作用する細胞の受容体(ベータアドレナ
  リン受容体)の一つを遮断することによって、記憶に起因する恐怖を軽減させる働きをもつ。
 
 身体的ブロック(緊張、凝り)に働きかけることで、そのブロックの原因となる情動が誘発されたりその記憶が蘇ったりすることは、ライヒにはじまるボディーワークやセラピーではお馴染みの現象で、その身体的ブロックを取り除くことで心的トラウマも解消するとしているのですが。
 カテコールアミン(アドレナリン)放出と身体的ブロックはどう関係する(または関係しない)のでしょう。
 脳の働きと身体的ブロック、凝りとの関連……。ムズカシイ
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 2007-05-03 (木) 10:21:58
 
 だるま
  
 プルさん、面白い記事を紹介してくれてサンキューっす。
 
 ちょと、ずれてしまうかもしれませんが、整体には、「心の打撲のほうが厄介」と言われています。これは、体の奥のほうにショックが入ってしまい、症状の改善に長い年月がかかるからです。
 
 ショックを受けた記憶とからだの強張りが本人の中で理解できると、良くなることが多いです。
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 2007-05-02 (水) 16:06:20
 
 puru
 
 下でリンクしていた2chのスレッドが、早くもdat落ち(過去ログ倉庫行き)になりました。
 >【脳】 脳は痛みを受けたことを想像するだけで、実際に痛みを受けた時とほぼ同じ活動を行う  群馬大学発表
 
 dat落ちする直前に別ソースの情報あり。
 -上毛新聞ニュース
 http://www.raijin.com/news/a/27/news01.htm
 
 こちらの記事は、先に挙げた朝日新聞、読売新聞より分かりやすいです。
 
  ●群馬大教授らが共同研究 「心の痛み」を解明  
   人間が心の痛みを感じたとき、脳の活動は身体的な痛みを受けた場合と同様の反応を起こすこ
  とが、群馬大大学院医学系研究科の斎藤繁教授と生理学研究所(愛知県岡崎市)の柿木隆介教授
  による共同研究で明らかになった。
  心も「痛い」と感じていることが科学的に証明された。
  心の痛みのメカニズムが解明されたことで、これまで治療方法を明確に打ち出せなかった心的外
  傷後ストレス障害(PTSD)など心の病やいじめ対策への将来的な応用が期待される。
  
   今回の研究成果は、大脳生理学の分野では世界のトップ級に位置する米国の脳科学専門誌「セ
  レブラル・コルテックス」五月号に掲載される。
  大脳生理学の研究者は同誌への掲載を目標とすることが多く、日本人研究者の掲載は珍しいとい
  う。
  群馬大では初めて。
  
   実験方法は、二十代の男性十人に痛みを連想させるため、注射をしている写真を見せて脳の活
  動の様子を調べた。
  脳の活動の活発化は、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴画像装置)で血流変化を測定。
  花や緑の平和な風景写真を見たときと痛みの連想時との血流変化の差をみた。
  
   その結果、注射の写真を見た場合、実際に針を刺したときと同じ部位となる大脳辺縁系を中心
  に活動が活発化。
  本当に痛みが与えられたときと同様に「心が痛む」ことが証明された。
  
   大蛇や毒グモなど恐怖を感じる写真を見た場合には、痛みは感じていないことも分かった。
  
   うつ病やPTSDなど心の痛みは本人にしかわからず、ヒステリーや詐病と判断されるケース
  があり、説明のつかないことも多かった。
  そのため医師側も科学的、計画的な治療が行えないなどの弊害があった。
  
   心の痛みのメカニズムが解明できたことで、斎藤教授は「鎮痛剤から心理療法に切り替えるな
  ど治療方針も立てやすくなる」と患者へのメリットを説明する。
  
   このほか、いじめを打ち明けられない子供にいじめた子供の写真を見せ、反応を見るなどの応
  用についても「同様の効果が想像できる」(柿木教授)と期待を寄せている。
 
 この、「うつ病やPTSDなど心の痛みは本人にしかわからず、ヒステリーや詐病と判断されるケースがあり、説明のつかないことも多かった。」という記述から、これまでは
 -うつ病やPTSDを訴える患者の中には、ヒステリーや詐病であるケースも多かった
 -うつ病やPTSDに関して、特定出来る客観的診断基準がなかった
 
 という事になるのでしょうか。
 それが今回の研究により、
 -機能的MRI測定により、うつ病やPTSD等の心的トラウマ疾患の客観的診断が可能になった
 
 ということ、なのかな。
 なるほど。
 まずは正確な診断、はじめの一歩だけれど大きな一歩、なのでしょうね。
 などと、勝手に推測してますが。
 もしそうだとしたら、朝日新聞、読売新聞ともに、めっちゃ分かりにくい記事だ。
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 2007-05-02 (水) 11:01:27
 
 puru
 
 昨日の朝日新聞に「写真見て連想…痛い! 脳内メカニズム解明」という記事が。
 -asahi.com: 脳内メカニズム解明 写真見て「痛い」 群馬大院教授ら - サイエンス
 http://www.asahi.com/science/update/0501/TKY200705010002.html
 
  脳内メカニズム解明 写真見て「痛い」 群馬大院教授ら
  2007年05月01日05時58分
  
   肉体的な痛みを連想させる写真を見ると、実際には痛くなくても脳は「痛い」と感じる――。
  群馬大学大学院医学系研究科の斎藤繁教授らが、人が痛みを感じるときに特徴的な脳の活動を発
  見し、米国の脳科学専門誌に発表した。
  味覚など他の感覚と比べて、痛みには感情の動きが大きく関与しているためらしい。 
  
   男子学生10人に、注射針が刺さった腕の写真を5秒間見せ、「痛み」を想像してもらった。
  この時、機能的MRI(fMRI)と呼ばれる装置で脳の活動を調べると、10人全員で、本当
  に痛みがあったときに興奮する側頭葉の一部などが興奮していた。
  この部分は情動をつかさどっているとされる。 
  
   一方、花畑や湖の「平和的」な風景写真を見せた場合は、視覚野しか反応がなかった。 
  
   傷が治った後でも痛みを訴え続けたり、心理的に強いショックを受けて「心が痛い」と訴えた
  りする患者がいる。
  しかし検査で異常が見つからず、痛み止めの薬なども効かないため、治療が難しい場合が少なく
  ない。 
  
   共同研究者の一人、自然科学研究機構・生理学研究所(愛知県)の柿木隆介教授らは痛みには
  感情の動きが深く関与している可能性を考えており、「今回の結果は、『心の痛み』に対する治
  療に役立つのではないか」としている
 
 
 調べてみたら、既に4/26読売新聞で報道されていたみたい。
 -【脳】 脳は痛みを受けたことを想像するだけで、実際に痛みを受けた時とほぼ同じ活動を行う  群馬大学発表
 http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1177644977/
 
  脳内でほぼ同じ活動 群大発表 
   群馬大学は26日、痛みを受けたことをイメージするだけで、実際に痛いと感じるのとほぼ同
  じ活動が脳内で行われていることが、自然科学研究機構生理学研究所(愛知県)との共同研究で
  わかったと発表した。
  研究成果は米国の脳科学専門誌「セレブラル・コルテックス」5月号に掲載される。
  同大などは、原因不明の痛みなどの解明や治療につながるとしている。 
  
   共同研究をしたのは、同大大学院の斎藤繁教授(麻酔神経科学講座)と、同研究所の柿木隆介
  教授(感覚運動調節研究部門)。
  20歳代の男性10人に、注射する場面の写真を見せて痛みを想像させ、脳内の活動を機能的M
  RI(磁気共鳴画像装置)で撮影したところ、体の痛みとほぼ同じように、大脳内などの10か
  所程度の部位が、同時に活動していた。 
  
  けがが完治した後でも痛みを訴えるケースや、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などは、こ
  れまで治療が困難だったが、記者会見した斎藤教授は、「(今回の研究で)痛みのメカニズムを
  解明でき、治療を科学的にデザインすることが可能になる」と説明している。 
  (2007年4月26日 読売新聞) 
  群馬 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 
 
 上のリンクは2chなので、その内消えるかも知れないのでメモしておくことに。
 ちなみに、読売新聞のサイトには過去ログはない模様。
 
 しかし、朝日新聞、読売新聞、いずれも、
 -痛みを受けたことをイメージするだけで、実際に痛いと感じるのとほぼ同じ活動が脳内で行われている
 -機能的MRIで確認
 
 ということだけしか報道されていないですね。
 この結果が、何をどのようにして
 -治療を科学的にデザインすることが可能になる
 
 のかは、まったく分かりません。
 気になる……。
 
 ところで、先日のTBS「CBSドキュメント」で2006年11月に放映されたCBS「60Minutes」を紹介していました。
 内容は、β遮断薬プロプラノロールを用いることで、心的トラウマ体験の記憶から喚起される情動的苦痛を消すというもの。
 いまだに試験段階ではあるとしているものの、その可能性は非常に興味深いです。
 
 以下でその番組が見られますが、今日は広告しか出て来ません。
 昨日は番組も見れたのですが。(何故だろう)
 -Memory Drug ...on 60 Minutes; Exclusive Video Only on Yahoo! News
 http://60minutes.yahoo.com/segment/21/memory_drug
 
 
 また、以下のページには、番組と同様な研究内容の記事(2005年8月)があります。
 -いきいき健康 NIKKEI NET
 http://health.nikkei.co.jp/hsn/hl.cfm?i=20050804hk001hk
 
   PTSDの発作で極度の恐怖を感じる際には、カテコールアミン(アドレナリン)と呼ばれるホルモ
  ンが放出される。
  プロプラノロールなどのβ遮断薬は、カテコールアミンが作用する細胞の受容体(ベータアドレナ
  リン受容体)の一つを遮断することによって、記憶に起因する恐怖を軽減させる働きをもつ。 
 
 「交通事故とPTSD」という論文にもプロプラノロール投与試験内容が紹介されています。
 -[[交通事故と PTSD 松岡 豊(まつおか ゆたか)>http://72.14.235.104/search?q=cache:OFydhaT1zDgJ:square.umin.ac.jp/matsuoka/MVA%2520and%2520PTSD.pdf+%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9&hl=ja&ct=clnk&cd=14&lr=lang_ja]]
 
 上記リンクの論文は、とても読みやすい文章。
 特に、終盤の章「PTSDの治療」には共感します。
  薬物療法や精神療法を通じて患者と治療者が目指す心的トラウマからの回復とは、「心的トラウマ
  体験を忘れることではなく、外傷性記憶が通常の記憶のネットワークのひとつになること」と言い
  表すことができるであろう。
  外傷性記憶とは、対処できないほどの圧倒的な出来事を経験したために、出来事の時の五感、感情、
  認知、思考がまるで冷凍保存されたように残ってしまうものを言う。
  それは非常に鮮明で、思い出すと苦痛なもので、言葉で説明するのが難しい、という特徴をもつ。
  症状や不適応をもたらすこの外傷性記憶を、いかに少ない苦痛で安全に処理するかが治療の要諦で
  ある。
 
 記憶とそれに固着した情動、とある出来事や状況に誘発されて生じる情動。
 PTSDならずとも興味深い現象です。
 
 という訳で、群馬大大学院教授の研究内容の詳細が知りたいっす。
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 2007-04-17 (火) 10:12:16
 
 puru
 
 友だちから「何か電磁波対策はしてますか?」という質問が。
 そいえば、いち時期、電磁波測定器を購入してパソコン周りの電磁波を調べてみたりもしました。
 
 治療でもプライベートでもたまに使用している「パワーオイル」ですが。
 その製造元が電磁波除去シールも出しています。
 (電磁波除去というかエネルギー浄化というか、まぁ、よくあるパワーグッズみたいなものでしょうか)
 で、そのシールをディスプレイの角に張ると、ディスプレイ周囲に楕円の範囲で出ていた電磁波が減少し、場所によっては激減。
 楕円の範囲が狭くなり波形に。
 
 電磁波そのものや、その影響について確かなことはわかりませんが。
 エネルギーグッズやパワーグッズは嫌いではないので、そのシール、電化製品や家の要所要所に張ってます。
 
 ところで、パソコンやディスプレイですが。
 仕事の合間や暇な時は、ほとんどディスプレイの前にいることが多く。
 当初は目が疲れることが多かったです。
 そこで取った対策。
 
 -ディスプレイを「見る」のではなくて、「眺める」。
 --「見」ようとすると、意識がディスプレイに「集中」し、体の動きとしては若干顔が前に出、後頭部が縮んでいます。
 目がディスプレイの中の文字や絵を捕まえに行っている、そんな感じ。
 --「眺め」ていると、視野にはディスプレイ周囲も入っており、ディスプレイ上の絵や文字が目に入って来る感じ。
 慣れないと、すぐ絵や文字を捕まえようとし、ディスプレイに「集中」しがち。
 なので、気がついたら後頭部や首の皮膚感覚を感じるようにする。
 うまく感じられない時は、実際にその部を手で触れて感覚を呼び起こす。
 
 -ディスプレイ脇に観葉植物
 --ディスプレイ脇、視野の中に観葉植物が入るように並べておく。
 電磁波カットが得意な観葉植物もあるらしいですが、よくわからないです。
 視野に植物が入っているのは、目が嬉しいです。
 
 -散歩
 --朝の散歩は、ディスプレイで固着した目の焦点を散らすのに最適。
 特に、大好きな鳥たちを眺めるのはものすごく効果的で、散歩後の目の感じの変化が実感出来ます。
 
 -体を感じる
 --ディスプレイ上世界に長く浸っていると、それだけ思考世界に浸っていることになります。
 感覚の世界から乖離した状態。
 なので、思考世界に浸っていた分だけ感覚世界に戻りたくなります。
 いくつかの軽いストレッチをしたまま、呼吸につれて膨らんだり縮んだりする体全身の感覚を味わいます。
 
 と、書いていて気づいたのですが。
 朝の散歩をするようになってから、体感覚に戻る時間が減って来ています。
 また、以前と同じくらい体感覚に戻る時間を持たなくては。
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