按摩さんの日記・過去ログ


01年8月29日


ワイドショーを見ていたら、五木寛之氏が出ていた。
映画の話。
「忘れられた日本人の心」がテーマらしい。
家事をしながらだったのでしっかりとは見ていなかったが、「おっ」と思う言葉があった。

「朝日に柏手を打ち、夕日に合掌する。それが日本人のメンタリティーだ」
そんな内容。
ご飯を前にして「頂きます」と合掌すること。
クリスマスを祝い、大晦日はお寺に詣で、新年は神社にお参りすること。

今でも都会は別にして、ほとんどの日本の家庭に仏壇がある。
毎朝、ご飯とお水をあげ合掌する。
映画の中で、外国人がその仏壇を目にし、「その中には何が祀られているのですか?」と尋ねる。
日本人の女の子が「ブッダ」と答える。


人間型ロボットの開発は日本がトップらしい。
欧米人はそもそもロボットが人間型であることにはこだわらないらしい。
効率的にオートマチックに仕事がこなせるのがロボット。

身の回りのものを擬人化すること。
それは、日本人にとって容易に「擬仏化」にもつながる、、のかも知れない。


青森に住んでいた頃、下北半島方面にドライブに行った時。
町と町の間がかなり離れていて、海岸線に面した長〜い国道が続く道。
少し腰の曲がったお婆さんがひとり佇んでいた。
気になったので車を止め、「母っちゃぁ、どすたんだっきゃぁ?」と聞いてみた。
どうも疲れちゃったらしい。
「乗へで行ぐがあ?」と言うと、有り難そうに乗り込む。
「わい〜〜、有り難てじゃ、有り難てじゃ。ホドゲ様だけんだ(のような)人だぁ」と言いながら、ぼくに向かって合掌する。

人に拝まれること自体はじめてだったけど、有り難さをありのままに感じているお婆さんが素敵で、ぼくの方が有り難かった。

「ラッキー!」とか「得したあ」と喜ぶのは自己的、利己的だけど。
有り難さをしみじみと味わうこと、まわりのものを敬い祈ること、は、世界とつながること、のような、そんな気がする。



01年8月31日


数ヶ月に一度治療を受けに来る、サニヤシンの友だちが来た。

最近、彼のからだやその雰囲気が、前よりすごく静かに感じる。

前に来た時。
エンライトした(光明を得た、悟りを開いた)といわれる人のセッションに参加したと言っていた。
その前に治療を受けた時と、その時とでは明らかにからだは違っていた。
どう違うかは、「静か」としか表現出来ないのだが。( ^ ^ ;

最近は、別の人が中心の集いに参加しているらしい。
その集いの事を話している時、治療室の中が静けさで満たされる。

彼の話に耳を傾け、その静けさを味わいながら思い出した。
「この静けさは、あの部屋と一緒だ」と。

人が静けさに満たされている時。
人が発している可聴領域ではとらえられない波は、自然のせせらぎと同じような成分なのかも知れない。
逆に葛藤していたり、アタマに振り回されている時、人は外界に影響を与える可聴領域外のノイズを発しているのかも知れない。

と、フト思った。



01年9月1日


新聞の折り込み広告を見ていたら、今やDVDプレーヤーが一万円代で買えるらしい。
DVDの他に、ビデオCD、音楽CD、MP3まで再生可能とか。


以前、「パソコン真っさら再インストール計画」を立てた時、データのバックアップの為にCD-R/RW、DVDのコンボドライブを購入した。
SCSI接続で安いのがあったから。

「これで劇場未公開のインド映画(DVD)が見れる」と喜んだのだが。
いざ見てみると、動きの早いダンスシーンなどでコマ落ちする。
AMD K6-2の500MHzじゃ力不足なのね。( ^ ^ ;
画面も、ディスプレイ全画面表示にするとイマイチだし。
結局映画は最初のさわりしか見ていない。

友だちからもらった、インド映画音楽のビデオCDもテレビ画面で見てみたい。
パソコン以外のMP3プレーヤーも持っていないし。

DVDプレーヤーか……。



01年9月4日


と、いう訳で。
DVDプレーヤーを買った。

どひゃ〜、画面が目に痛い。
確かに、スッキリくっきりデジタル映像。

見たのはインド映画『KOYLA 愛と復讐の炎』 (シャールク・カーン/マドゥーリ・ディークシット主演)。
インドの風景、色は、目に痛いくらいの鮮やかさだから、これくらいが丁度いいのか。( ^ ^ ;
ともあれ、劇場未公開インド映画が見れるのは感激だ。

『KOYLA』自体はまあまあ面白い。
『インディ・ジョーンズ』の悪役を演じた、国際的インド人怪優アムリシュ・プリが敵役だったりして贅沢な映画。
でも、この映画を見ながら、以前映画祭で見た、同じくシャールク・カーン、マドゥーリ主演映画『アンジャーム』を懐かしく思ってしまう。

映画祭で『アンジャーム』を見終わった後の感想。
「朝早くから、こんなえげつない映画を見せるなよなぁ」。
だったのだが。
時間が経つにつれて、「もう一度見たい!」という思いが募っていく。( ^ ^ ;
内容は、鬼畜的ストーカー→不幸のどん底→復讐、という単純なもの。
単純とはいえシャールク・カーン演じるところのストーカーの仕打ちは、インド映画のくどさが存分に出ていてビックリするというか呆れるというか……。( ^ ^ ;

この映画の白眉は、マドゥーリ演じるヒロインが復讐に立ち上がるところ。
黒いサリーをまとうマドゥーリは、「ハッ」とするほど美しいし、ドゥルガーの神に捧げるスーフィー・テイストな歌、踊りがとにかく素晴らしい。
映像、音楽の出来は、マニラトナム監督『ボンベイ』と肩を並べるかも。

『アンジャーム』のDVDを探そうか。
ぼく的インド映画No.2『DDLJ』のDVDは、年末発売予定とか。



01年9月6日


今日は木曜日か。

月曜日には、また例のスピーカー開発者のところへ遊びに行った。
スピーカーがまたバージョンアップしていた。
昼から夕方まで、音の微妙な響きの中に浸かっていた。

不自然な高周波ノイズを取り除いたあの部屋で、ちょっとだけだけど”ゆる”をやってみた。
いつも以上に、からだの微細な部分まで感覚出来る。
う〜む。
いつか、あの部屋で瞑想してみたい。


火曜日はウチ主催の「ブレス・セラピー・ワークショップ」。
リーダーはぼくとぷらばさんのふたり。
参加者1名。
最近はず〜っとこんな感じだ。
たまに参加者2名だったり、3名とかだと「今日は随分参加者が多いな」と思ったり。( ^ ^ ;

毎回、参加者の状態に合わせてその回のメニューを決めるのだけれど、今回は1時間の瞑想をふたつやることに。
数年に渡っての参加者なので、状態によってはブレス・セラピーなしの時もある。

最初に「ダイナミック瞑想」、休憩の後「禅ウィング瞑想」。
どちらも、からだや呼吸をとてもアクティブに使う瞑想。
リーダーも参加者と共に行う。

前日、感覚、特に聴覚に十全に浸っていたせいで、瞑想中のからだの感覚が違う。
普段は意識出来ないような、繊細な感覚にまで意識が行き渡り、からだの使い方も違う。

ふたつの瞑想が終わったあと、いつも以上にスッキリさわやか。( ^ ^ )



01年9月7日  


久しぶりにOSHOの講話を読む。
タントラ秘法の書(ヴィギャン・バイラヴ・タントラ)シリーズ『沈黙の音』市民出版社刊。

音がらみで本棚から選んでみたのだけれど……。

ぼくが惹かれるのは、やはり二元性をありのままに受け入れるということ。

易経・繋辞上伝
      『易に太極あり、これ両儀(陰・陽)を生ず』

この響き、この香り……。
これをOSHOは分かりやすく語ってくれる。



生には、<存在>には、根本的な二元性がある。
<存在>は二元性として存在する。
ところが、マインドは一方を選び、もう一方を否定しようとする。
たとえば幸福になりたい、快楽が欲しい、でも苦痛はいらない。
ところが苦痛は快楽の一部であり、快楽の裏面だ。
コインのようなものだ。
一方の面は快楽で、他方の面は苦痛だ。
いくら快楽を求めても、実のところは、快楽を求めれば求めるほど、苦痛がそれに伴う。
そして快楽に敏感になればなるほど、苦痛にも敏感になる。

だから快楽を求める人は、苦痛を受け入れる覚悟が必要だ。
それはちょうど山と谷のようなものだ。
もし峰や山だけを求めて、谷はいらなかったら、いったい谷はどうなるだろう。
また谷なしで、峰がどうして存在できるだろう。
谷がなかったら峰は存在できない。
もし峰を愛するなら、谷も愛することだ。
どちらも運命の一部だ。

マインドは一方を求め、他方を否定する。
ところが他方はその一部だ。
マインドは言う、「生は善い。死は悪い」。
だが死はその一部だ、谷部分だ。
そして生は峰部分だ。
死なしには生は存在できない。
生は死があるからこそ存在する。
もし死が消え去ったら、生も消え去る。
だがマインドは言う、「私は生だけが欲しい。死はいらない」。
こうしてマインドは、どこにも存在しない夢の世界へと向かう。
そしてすべてのものと戦い始める。
なぜなら生の中では、すべてはその反対物と関わっているからだ。
その反対物を拒否すれば、そこに戦いが始まる。

生の二元性を理解する人は、両方を受け入れる。
彼は死を受け入れるが、それは、生に対立するものとしてではなく、そ一部として、谷部分としてだ。
彼は夜を受け入れる――昼の部分として……。
ある瞬間にあなたは至福を感じ、次の瞬間にはあなたは悲しんでいる。
だがあなたは悲しみの瞬間を受け入れたくない――それは谷部分だ。
至福の峰部分が高ければ高いほど、谷は深い。
だから高きに進めば進むほど、低きへ落ちる。
それはちょうど波と同じだ。
高くせり上がれば、やがて谷部分がやってくる。

理解するということは、この事実を認識するということだ。
たんに認識するのみならず、この事実を深く受け入れることだ。
この事実から逃れるわけにはいかない。
虚構を創ることは可能だ――私たちは何世紀にもわたって虚構を創ってきた。
たとえば下方のどこかに地獄を置き、上方のどこかに天国を置いた。
私たちはこのふたつの間に、絶対的な隔たりを設けた。
だが、それはナンセンスだ。
なぜなら地獄は天国の谷部分だからだ。
地獄は天国とともに存在する。
別々には存在できない。

この理解によって、あなたは肯定的になれる。
そうなればすべてを受け入れることができる。
「肯定的」という言葉で私の意味することは、すべてを受け入れるということだ。
なぜならあなたは、<存在>を分割するのは不可能だと知っているからだ。

息を吸えば、まらすぐに吐き出す必要がある。
私は息を吸い、そして吐く。
もし息を吸うばかりで吐き出さなかったら、私は死んでしまう。
また、吐き出すばかりで吸い込まなかったら、やはり死んでしまう。
吸気と呼気とはひとつの作用、ひとつの円環の一部だ。
吐き出すからこそ吸い込むことができる。
両者はひとつであって、分割できない。

非分割、これこそが解放された人間だ。
それが起こるのは、この理解が現れたときだ。
<存在>の二元性を受け入れる人間のことを、私は、解脱した人間、開悟(エンライト)した人間と呼ぶ。
彼は肯定的になった。
なにが起ころうとも受け入れる。
もはやどんな期待もない。
もはや<存在>へのどんな要求もない。
ただ下流に向かって流れていくのみだ。



これは、「チュアカ」で引用したのと内容的には同じ、かな。

ふと「ミスティックローズ瞑想」を思い出した。

「笑い」は光。
笑う時、外に向かって手放しになる。
深刻に、何かにしがみついていては笑えない。
手放しに、開け拡げになって……。
淡い光の中で、漂い拡がる。

「泣き」は闇。
自分の内側、暗い闇の中で泣く。
その時、悲しみ、悲嘆でさえ、味わい深いものになる。
感謝の涙。

そして静けさ。




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