CENTER:[[按摩さんのいる風景]]トップ
 
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 ~
        一~
 ~
 婦人は、座の傍&size(9){かたわら};に人気のまるでない時、ひとりでは按摩&size(9){あんま};を取らないが可&size(9){い};いと、昔気質&size(9){むかしかたぎ};の誰でもそう云う。~
 上&size(9){かみ};はそうまでもない。~
 あの下&size(9){しも};の事を言うのである。~
 閨&size(9){ねや};では別段に注意を要するだろう。~
 以前は影絵、うつし絵などでは、巫山戯&size(9){ふざけ};たその光景を見せたそうで。~
 ――御新姐&size(9){ごしんぞ};さん、……奥さま。~
 ……さ、お横に、とこれから腰を揉&size(9){も};むのだが、横にもすれば、俯向&size(9){うつむけ};にもする、一つくるりと返して、ふわりと柔くまた横にもしよう。~
 水々しい魚&size(9){うお};は、真綿、羽二重の俎&size(9){まないた};に寝て、術者はまな箸&size(9){ばし};を持たない料理人である。~
 衣&size(9){きぬ};を透&size(9){とお};して、肉を揉み、筋を萎&size(9){なや};すのであるから恍惚&size(9){うっとり};と身うちが溶ける。~
 ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。~
 きちんとしていてさえざっとこの趣。~
 ……遊山&size(9){ゆさん};旅籠&size(9){はたご};、温泉宿などで寝衣&size(9){ねまき};、浴衣に、扱帯&size(9){しごき};、伊達巻&size(9){だてまき};一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可&size(9){よ};いが想像が出来る。~
 膚&size(9){はだ};を左右に揉む拍子に、いわゆる青練&size(9){あおねり};も溢&size(9){こぼ};れようし、緋縮緬&size(9){ひぢりめん};も友染&size(9){ゆうぜん};も敷いて落ちよう。~
 按摩をされる方&size(9){かた};は、対手&size(9){あいて};を盲&size(9){めくら};にしている。~
 そこに姿の油断がある。~
 足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛&size(9){ふくらはぎ};から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服&size(9){きもの};の褄&size(9){つま};を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵&size(9){かかと};を摺下&size(9){ずりさが};って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡&size(9){うち};に糸の乱るるがごとく縺&size(9){もつ};れて、艶&size(9){えん};に媚&size(9){なまめ};かしい上掻&size(9){うわがい};、下掻&size(9){したがい};、ただ卍巴&size(9){まんじともえ};に降る雪の中を倒&size(9){さかし};に歩行&size(9){ある};く風情になる。~
 バッタリ真暗&size(9){まっくら};になって、……影絵は消えたものだそうである。~
 ~
 ――聞くにつけても、たしなむべきであろうと思う。――~
 ~
 が、これから話す、わが下町娘&size(9){したまちっこ};のお桂&size(9){けい};ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。~
 ~
 問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人&size(9){なきひと};の数に入ったが、照降町&size(9){てりふりちょう};の背負商&size(9){しょいあきな};いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。~
 体量も二十一貫ずッしりとした太腹&size(9){ふとっぱら};で、女長兵衛と称&size(9){たた};えられた。~
 ――末娘&size(9){すえっこ};で可愛いお桂ちゃんに、小遣&size(9){こづかい};の出振&size(9){だしっぷ};りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが店頭&size(9){みせさき};に、多人数立働く小僧中僧若衆&size(9){わかしゅ};たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤&size(9){あご};の福々しいのに、円々とした両肱&size(9){りょうひじ};の頬杖&size(9){ほおづえ};で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、&size(9){お母さん、少しばかり。};黙って金箱から、ずらりと掴出&size(9){つかみだ};して渡すのが、掌&size(9){てのひら};が大きく、慈愛が余るから、……痩&size(9){やせ};ぎすで華奢&size(9){きゃしゃ};なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと溢&size(9){こぼ};れたと言う。~
 ……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、&size(9){桂坊へ、};といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土珠数&size(9){じゅず};一聯&size(9){れん};、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍&size(9){はた};で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆&size(9){ひゃくいくつ};の、皆真珠であった。~
 ~
 姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。~
 ――この温泉旅館の井菊屋と云うのが定宿&size(9){じょうやど};[#ルビの「じょうやど」は底本では「じやうやど」]で、十幾年来、馴染&size(9){なじみ};も深く、ほとんど親類づき合いになっている。その都度秘蔵娘のお桂さんの結綿&size(9){ゆいわた};島田に、緋鹿子&size(9){ひがのこ};、匹田&size(9){ひった};、絞&size(9){しぼり};の切&size(9){きれ};、色の白い細面&size(9){ほそおもて};、目に張&size(9){はり};のある、眉の優しい、純下町風俗のを、山が育てた白百合の精のように、袖に包んでいたのは言うまでもない。……~
 ~
 「……その大島屋の先&size(9){せん};の大きいおかみさんが、ごふびんに思召&size(9){おぼしめ};しましてな。……はい、ええ、右の小僧按摩を――小一&size(9){こいち};と申したでござりますが、本名で、まだ市名&size(9){いちな};でも、斎号でもござりません、……見た処が余り小&size(9){ちっ};こいので、お客様方には十六と申す事に、師匠も言いきけてはありますし、当人も、左様に人様には申しておりましたが、この川の下流の釜&size(9){かま};ヶ淵&size(9){ふち};――いえ、もし、渡月橋&size(9){とげつきょう};で見えます白糸の滝の下の……あれではござりません。もっとずッと下流になります。――その釜ヶ淵へ身を投げました時、――小一は二十&size(9){はたち};で、従って色気があったでござりますよ。」~
 「二十にならなくったって、色気の方は大丈夫あるよ。――私が手本だ。」~
 と言って、肩を揉ませながら、快活に笑ったのは、川崎欣七郎&size(9){きんしちろう};、お桂ちゃんの夫で、高等商業出の秀才で、銀行員のいい処、年は四十だが若々しい、年齢にちと相違はあるが、この縁組に申分はない。~
 次の室&size(9){ま};つき井菊屋の奥、香都良川添&size(9){かつらがわぞい};の十畳に、もう床は並べて、膝まで沈むばかりの羽根毛&size(9){はね};蒲団&size(9){ぶとん};に、ふっくりと、たんぜんで寛&size(9){くつろ};いだ。……~
 ~
 寝床を辷&size(9){すべ};って、窓下の紫檀&size(9){したん};の机に、うしろ向きで、紺地に茶の縞&size(9){しま};お召の袷羽織&size(9){あわせばおり};を、撫肩&size(9){なでがた};にぞろりと掛けて、道中の髪を解放&size(9){ときはな};し、あすあたりは髪結&size(9){かみゆい};が来ようという櫛巻&size(9){くしまき};が、房&size(9){ふっさ};りしながら、清らかな耳許&size(9){みみもと};に簪&size(9){かんざし};の珊瑚&size(9){さんご};が薄色に透通る。~
 ……男を知って二十四の、きじの雪が一層あくが抜けて色が白い。~
 眉が意気で、口許に情が籠&size(9){こも};って、きりりとしながら、ちょっとお転婆に片褄&size(9){かたづま};の緋の紋縮緬&size(9){もんちりめん};の崩れた媚&size(9){なまめ};かしさは、田舎源氏の――名も通う――桂樹&size(9){かつらぎ};という風がある。~
 ~
 お桂夫人は知らぬ顔して、間違って、愛読する……泉の作で「山吹」と云う、まがいものの戯曲を、軽い頬杖で読んでいた。~
 「御意で、へ、へ、へ、」~
 と唯今&size(9){ただいま};の御前&size(9){ごぜん};のおおせに、恐入った体&size(9){てい};して、肩からずり下って、背中でお叩頭&size(9){じぎ};をして、ポンと浮上ったように顔を擡&size(9){もた};げて、鼻をひこひこと行&size(9){や};った。~
 この謙斎坊さんは、座敷は暖かだし、精を張って、つかまったから、十月の末だと云うのに、むき身絞&size(9){しぼり};の襦袢&size(9){じゅばん};、大肌脱&size(9){おおはだぬぎ};になっていて、綿八丈の襟の左右へ開&size(9){はだ};けた毛だらけの胸の下から、紐&size(9){ひも};のついた大蝦蟇口&size(9){おおがまぐち};を溢出&size(9){はみだ};させて、揉んでいる。~
 「で、旦那&size(9){だんな};、身投げがござりましてから、その釜ヶ淵……これはただ底が深いというだけの事でありましょうで、以来そこを、提灯&size(9){ちょうちん};ヶ淵――これは死にます時に、小一が冥途&size(9){めいど};を照しますつもりか、持っておりましたので、それに、夕顔ヶ淵……またこれは、その小按摩に様子が似ました処から。」~
 「いや、それは大したものだな。」~
 くわっ、とただ口を開けて、横向きに、声は出さずに按摩が笑って、~
 「ところが、もし、顔が黄色膨れの頭でっかち、えらい出額&size(9){おでこ};で。」~
 「それじゃあ、夕顔の方で迷惑だろう。」~
 「御意で。」~
 とまた一つ、ずり下りざまに叩頭&size(9){おじぎ};をして、~
 「でござりますから瓢箪淵&size(9){ひょうたんふち};とでもいたした方が可&size(9){よ};かろうかとも申します。小一の顔色&size(9){かおつき};が青瓢箪を俯向&size(9){うつむ};けにして、底を一つ叩いたような塩梅&size(9){あんばい};と、わしども家内なども申しますので、はい、背が低くって小児&size(9){こども};同然、それで、時々相修業に肩につかまらせた事もござりますが、手足は大人なみに出来ております。大&size(9){おおき};な日和下駄&size(9){ひよりげた};の傾&size(9){かし};いだのを引摺&size(9){ひきず};って、――まだ内弟子の小僧ゆえ、身分ではござりませんから羽織も着ませず……唯今頃はな、つんつるてんの、裾&size(9){すそ};のまき上った手織縞か何かで陰気な顔を、がっくりがっくりと、振り振り、(ぴい、ぷう。)と笛を吹いて、杖を突張&size(9){つっぱ};って流して歩行&size(9){ある};きますと、御存じのお客様は、あの小按摩の通る時は、どうやら毛の薄い頭の上を、不具&size(9){かたわ};の烏が一羽、お寺の山から出て附いて行&size(9){ゆ};くと申されましたもので。――心掛&size(9){ここころがけ};の可&size(9){よ};い、勉強家で、まあ、この湯治場は、お庇様&size(9){かげさま};とお出入&size(9){でいり};さきで稼ぎがつきます。流さずともでござりますが、何も修業と申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの芸妓屋&size(9){げいしゃや};道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお宜&size(9){よろ};しゅう……はい。~
 そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に掛&size(9){かか};りますと、希代にのべつ、坐睡&size(9){いねむり};をするでござります。古来、姑&size(9){しゅうとめ};の目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」~
 とぱちぱちぱちと指を弾&size(9){はじ};いて、~
 「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡&size(9){ねむ};い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命&size(9){いのち};を果しましたような次第でござりますが。」~
 「何かい、歩きながら、川へ落&size(9){おっ};こちでもしたのかい。」~
 「いえ、それは、身投&size(9){みなげ};で。」~
 「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言&size(9){こごと};が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」~
 「……不断の事で……師匠も更&size(9){あらた};めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」~
 「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも同&size(9){おんな};じだ。」~
 と欣七郎は笑って言った。~
 「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上&size(9){かみ};が、半月と、一月、ずッと御逗留&size(9){ごとうりゅう};の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」~
 「ふ――」~
 と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の頸許&size(9){えりもと};に、擽&size(9){くすぐ};ったそうな目を遣&size(9){や};った。~
 が、夫人は振向きもしなかった。~
 「ために、主な出入場&size(9){でいりば};の、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で……肥満&size(9){こえふと};って身体&size(9){からだ};が大&size(9){おおき};いから、小按摩一人肩の上で寝た処で、蟷螂&size(9){かまぎっちょ};が留まったほどにも思わない。冥利&size(9){みょうり};として、ただで、お銭&size(9){あし};は遣れないから、肩で船を漕&size(9){こ};いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」~
 と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、~
 「どうも意固地&size(9){いこじ};な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」~
 「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」~
 「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍&size(9){そば};には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」~
 「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌&size(9){ろく};な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」~
 「勿体&size(9){もったい};ない。――香都良川には月がある、天城山&size(9){あまぎやま};には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」~
 「按摩さん、按摩さん。」~
 と欣七郎が声を刻んだ。~
 「は、」~
 「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」~
 「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋&size(9){こちら};様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚&size(9){ふぐ};のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」~
 「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」~
 「旦那、口幅&size(9){くちはば};っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確&size(9){たしか};でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬&size(9){ぷん};とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅&size(9){か};ぎますようで、はい。」~
 ~
 座には今、その白梅よりやや淡青&size(9){うすあお};い、春の李&size(9){すもも};の薫&size(9){かおり};がしたろう。~
 うっかり、ぷんと嗅いで、~
 「不躾&size(9){ぶしつ};け。」~
 と思わずしゃべった。~
 「その香の好&size(9){よ};さと申したら、通りすがりの私どもさえ、寐&size(9){ね};しなに衣&size(9){き};ものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと爽&size(9){さわや};いで、一晩、極楽天上の夢を見たでござりますで。一つ部屋で、お傍にでも居ましたら、もう、それだけで、生命&size(9){いのち};も惜しゅうはござりますまい。まして、人間のしいなでも、そこは血気&size(9){ちのけ};の若い奴&size(9){やつ};でござります。死ぬのは本望でござりましたろうが、もし、それや、これやで、釜ヶ淵へ押&size(9){おっ};ぱまったでござりますよ。」~
  お桂のちょっと振返った目と合って、欣七郎は肩越に按摩を見た。~
 「じゃあ、なにかその娘さんに、かかり合いでもあったのかね。」~
 ~
        二~
 ~
 「飛んだ事を、お嬢さんは何も御存じではござりません。ただ、死にます晩の、その提灯&size(9){ちょうちん};の火を、お手ずから点&size(9){つ};けて遣わされただけでござります。」~
  お桂はそのまま机に凭&size(9){よ};った、袖が直って、八口&size(9){やつくち};が美しい。~
 「その晩も、小一按摩が、御当家へ、こッつりこッつりと入りまして、お帳場へ、精霊棚&size(9){しょうりょうだな};からぶら下りましたように。――もっとももう時雨の頃で――その瓢箪&size(9){ひょうたん};頭を俯向&size(9){うつむ};けますと、&size(9){おい、霞の五番さんじゃ、今夜御療治はないぞ。};と、こちらに、年久しい、半助と云う、送迎&size(9){おくりむかえ};なり、宿引&size(9){やどひき};なり、手代なり、……頑固で、それでちょっと剽軽&size(9){ひょうきん};な、御存じかも知れません。威勢のいい、」~
 「あれだね。」~
 と欣七郎が云うと、お桂は黙って頷&size(9){うなず};いた。~
 「半助がそう申すと、びしゃびしゃと青菜に塩になりましたっけが、(それでは外様&size(9){ほかさま};を伺います。)(ああ、行って来な。内じゃお座敷を廻らせないんだが、お前の事だ。)もっとも、(霞の五番さん)大島屋さんのお上さんの他&size(9){ほか};には、好んで揉&size(9){も};ませ人&size(9){て};はござりません。――どこをどう廻りましたか、宵に来た奴が十時過ぎ、船を漕&size(9){こ};いだものが故郷へ立帰ります時分に、ぽかんと帳場へ戻りまして、畏&size(9){かしこま};って、で、帰りがけに、(今夜は闇&size(9){やみ};でございます、提灯を一つ。)と申したそうで、(おい、来た。)村の衆が出入りの便宜同様に、気軽に何心なく出したげで。――ここがその、少々変な塩梅&size(9){あんばい};なのでござりまして、先が盲だとも、盲だからとも、乃至&size(9){ないし};、目あきでないとも、そんな事は一向心着かず……それには、ひけ頃で帳場もちょっとごたついていたでもござりましょうか。その提灯に火を点&size(9){とも};してやらなかったそうでござりますな。――後での話でござりますが。」~
 「おやおや、しかし、ありそうな事だ。」~
 「はい、その提灯を霞の五番へ持って参じました、小按摩が、逆戻りに。――(お桂様&size(9){さん};。)うちのものは、皆お心安だてにお名を申して呼んでおります。そこは御大家でも、お商人&size(9){あきんど};の難有&size(9){ありがた};さで、これがお邸&size(9){やしき};づら……」~
 ~
 嚔&size(9){くしゃみ};の出損&size(9){でそこな};った顔をしたが、半間&size(9){はんま};に手を留めて、腸&size(9){はらわた};のごとく手拭&size(9){てぬぐい};を手繰り出して、蝦蟇口&size(9){がまぐち};の紐に搦&size(9){から};むので、よじって俯&size(9){うつ};むけに額を拭&size(9){ふ};いた。~
 意味は推するに難くない。~
 欣七郎は、金口&size(9){きんぐち};を点&size(9){つ};けながら、~
 「構わない構わない、俺も素町人だ。」~
 「いえ、そういうわけではござりませんが。――そのお桂様に、(暗闇&size(9){くらやみ};の心細さに、提灯を借りましたけれど、盲に何が見えると、帳場で笑いつけて火を貸しません、どうぞお慈悲……お情&size(9){なさけ};に。)と、それ、不具&size(9){かたわ};根性、僻&size(9){ひが};んだ事を申しますて。お上さんは、もうお床で、こう目をぱっちりと見てござったそうにござります。ところで、お娘ごは何の気なしに点けておやりになりました。――さて、霞から、ずっと参れば玄関へ出られますものを、どういうものか、廊下々々を大廻りをして、この……花から雪を掛けて千鳥に縫って出ましたそうで。……井菊屋のしるしはござりますが、陰気に灯&size(9){とも};して、暗い廊下を、黄色な鼠の霜げた小按摩が、影のように通ります。この提灯が、やがて、その夜中に、釜ヶ淵の上、土手の夜泣松の枝にさがって、小一は淵へ、巌&size(9){いわ};の上に革緒&size(9){かわお};の足駄ばかり、と聞いて、お一方&size(9){ひとかた};病人が出来ました。……」~
 「ああ、娘さんかね。」~
 「それは……いえ、お優しいお嬢様の事でござります……親しく出入をしたものが、身を投げたとお聞きなされば、可哀相――とは、……それはさ、思召したでござりましょうが、何の義理時宜&size(9){じんぎ};に、お煩いなさって可&size(9){よ};いものでござります。病みつきましたのは、雪にござった、独身の御老体で。……~
 京阪地&size(9){かみがた};の方だそうで、長逗留&size(9){ながとうりゅう};でござりました。――カチリ、」~
 と言った。按摩には冴&size(9){さ};えた音。~
 「カチリ、へへッへッ。」~
 とベソを掻いた顔をする。~
 ~
 欣七郎は引入れられて、~
 「カチリ?……どうしたい。」~
 「お簪&size(9){かんざし};が抜けて落ちました音で。」~
 「簪が?……ちょっと。」~
 名は呼びかねつつ注意する。~
 「いいえ。」~
 婀娜&size(9){あで};な夫人が言った。~
 「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。……上方&size(9){かみがた};のお客が宵寐&size(9){よいね};が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の旦&size(9){だん};が、ちょっと異&size(9){おつ};な寸法のわかい御婦人と御楽&size(9){おたのし};み、で、大&size(9){おおき};いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります……貴女&size(9){あなた};のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。~
 上方の御老体が、それなり開けると出会頭&size(9){であいがしら};になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の襖&size(9){ふすま};は暗し、また雪と申すのが御存じの通り、当館切っての北国&size(9){ほっこく};で、廊下も、それは怪&size(9){け};しからず陰気だそうでござりますので、わしどもでも手さぐりでヒヤリとします。暗い処を不意に開けては、若いお娘ご、吃驚&size(9){びっくり};もなさろうと、ふと遠慮して立たっせえた。……お通りすがりが、何とも申されぬいい匂で、その香をたよりに、いきなり、横合の暗がりから、お白い頸&size(9){えり};へ噛&size(9){かじ};りついたものがござります。」……~
 ~
 「…………」~
 ~
 「声はお立てになりません、が、お桂様が、少し屈&size(9){かが};みなりに、颯&size(9){さっ};と島田を横にお振りなすった、その時カチリと音がしました。思わず、えへんと咳&size(9){せき};をして、御老体が覗&size(9){のぞ};いてござった障子の破れめへそのまま手を掛けて、お開けなさると、するりと向うへ、お桂様は庭の池の橋がかりの上を、両袖を合せて、小刻みにおいでなさる。蝙蝠&size(9){こうもり};だか、蜘蛛だか、奴&size(9){やっこ};は、それなり、その角の片側の寝具部屋&size(9){やぐべや};へ、ごそりとも言わず消えたげにござりますがな。~
 確&size(9){たしか};に、カチリと、簪&size(9){かんざし};の落ちた音。お拾いなすった間もなかったがと、御老体はお目敏&size(9){めざと};い。……翌朝、気をつけて御覧なさると、欄干が取附けてござります、巌組&size(9){いわぐみ};へ、池から水の落口の、きれいな小砂利の上に、巌の根に留まって、きらきら水が光って、もし、小雨のようにさします朝晴の日の影に、あたりの小砂利は五色&size(9){ごしき};に見えます。これは、その簪の橘&size(9){たちばな};が蘂&size(9){しべ};に抱きました、真珠の威勢かにも申しますな。水は浅し、拾うのに仔細&size(9){しさい};なかったでございますれども、御老体が飛んだ苦労をなさいましたのは……夜具部屋から、膠々&size(9){にちゃにちゃ};粘々を筋を引いて、時なりませぬ蛞蝓&size(9){なめくじ};の大きなのが一匹……ずるずるとあとを輪取って、舐廻&size(9){なめまわ};って、ちょうど簪の見当の欄干の裏へ這込&size(9){はいこ};んだのが、屈んだ鼻のさきに見えました。――これには難儀をなすったげで。はい、もっとも、簪がお娘ごのお髪&size(9){ぐし};へ戻りましたについては、御老体から、大島屋のお上さんに、その辺のな、もし、従って、小按摩もそれとなくお遠ざけになったに相違ござりません、さ、さ、この上方の御仁&size(9){ごじん};でござりますよ。――あくる晩の夜ふけに、提灯を持った小按摩を見て、お煩いなさったのは。――御老体にして見れば、そこらの行&size(9){ゆき};がかり上、死際&size(9){しにぎわ};のめくらが、面当&size(9){つらあて};に形を顕&size(9){あら};わしたように思召しましたろうし、立入って申せば、小一の方でも、そのつもりでござりましたかも分りません。勿論、当のお桂様は、何事も御存じはないのでござります。第一、簪のカチリも、咳のえへんも、その御老体が、その後三度めにか四度めにか湯治にござって、もう、あのお娘&size(9){こ};も、円髷&size(9){まるまげ};に結われたそうな。実は、)とこれから帳場へも、つい出入&size(9){でいり};のものへも知れ渡りましたでござります。――ところが、大島屋のお上さんはおなくなりなさいます、あとで、お嫁入など、かたがた、三年にも四年にも、さっぱりおいでがござりません。もっともお栄え遊ばすそうで。……ただ、もし、この頃も承りますれば、その上方の御老体は、今年当月も御湯治で、つい四五日&size(9){しごんち};あとにお立ちかえりだそうでござりますが。――ふと、その方が御覧になったら、今度のは御病気どころか、そのまま気絶をなさろうかも知れませぬ。~
 ――夜泣松の枝へ、提灯を下げまして、この……旧暦の霜月、二十七日でござりますな……真の暗やみの薄明&size(9){うすあかり};に、しょんぼりと踞&size(9){かが};んでおります。そのむくみ加減といい、瓢箪頭のひしゃげました工合&size(9){ぐあい};、肩つき、そっくり正&size(9){しょう};のものそのままだと申すことで……現に、それ。」~
 「ええ。」~
 お桂もぞッとしたように振向いて肩をすぼめた。~
 「わしどもが、こちらへ伺います途中でも、もの好きなのは、見て来た、見に行くと、高声で往来が騒いでいました。」~
 ~
 ~
 謙斎のこの話の緒&size(9){いとぐち};も、はじめは、その事からはじまった。~
 ~
 それ、谿川&size(9){たにがわ};の瀬、池水の調べに通&size(9){かよ};って、チャンチキ、チャンチキ、鉦入&size(9){かねい};りに、笛の音、太鼓の響&size(9){ひびき};が、流れつ、堰&size(9){せ};かれつ、星の静&size(9){しずか};な夜&size(9){よ};に、波を打って、手に取るごとく聞えよう。~
 ~
 実は、この温泉の村に、新&size(9){あらた};に町制が敷かれたのと、山手&size(9){やまのて};に遊園地が出来たのと、名所に石の橋が竣成したのと、橋の欄干に、花電燈が点&size(9){つ};いたのと、従って景気が可&size(9){よ};いのと、儲&size(9){もうか};るのと、ただその一つさえ祭の太鼓は賑&size(9){にぎわ};うべき処に、繁昌&size(9){はんじょう};が合奏&size(9){オオケストラ};を演&size(9){や};るのであるから、鉦は鳴す、笛は吹く、続いて踊らずにはいられない。~
 ~
 何年めかに一度という書入れ日がまた快晴した。~
 昼は屋台が廻って、この玄関前へも練込んで来て、芸妓連&size(9){げいしゃれん};は地に並ぶ、雛妓&size(9){おしゃく};たちに、町の小女&size(9){こおんな};が交&size(9){まじ};って、一様の花笠で、湯の花踊と云うのを演&size(9){や};った。~
 屋台のまがきに、藤、菖蒲&size(9){あやめ};、牡丹&size(9){ぼたん};の造り花は飾ったが、その紅紫の色を奪って目立ったのは、膚脱&size(9){はだぬぎ};の緋&size(9){ひ};より、帯の萌葱&size(9){もえぎ};と、伊達巻の鬱金&size(9){うこん};縮緬&size(9){ちりめん};で。~
 揃って、むら兀&size(9){はげ};の白粉&size(9){おしろい};が上気して、日向&size(9){ひなた};で、むらむらと手足を動かす形は、菜畠&size(9){なばたけ};であからさまに狐が踊った。チャンチキ、チャンチキ、田舎の小春の長閑&size(9){のどけ};さよ。~
 ~
 客は一統、女中たち男衆&size(9){おとこしゅ};まで、挙&size(9){こぞ};って式台に立ったのが、左右に分れて、妙に隅を取って、吹溜&size(9){ふきだま};りのように重&size(9){かさな};り合う。~
 真中&size(9){まんなか};へ拭込&size(9){ふきこ};んだ大廊下が通って、奥に、霞へ架けた反橋&size(9){そりはし};が庭のもみじに燃えた。~
 池の水の青く澄んだのに、葉ざしの日加減で、薄藍&size(9){うすあい};に、朧&size(9){おぼろ};の銀に、青い金に、鯉の影が悠然と浮いて泳いで、見ぶつに交った。~
 ひとりお桂さんの姿を、肩を、褄&size(9){つま};を、帯腰を、彩ったものであった。~
 ~
 この夫婦は――新婚旅行の意味でなく――四五年来、久しぶりに――一昨日温泉へ着いたばかりだが、既に一週間も以前から、今日の祝日の次第、献立書&size(9){がき};が、処々&size(9){ところどころ};、紅&size(9){くれない};の二重圏点つきの比羅&size(9){びら};になって、辻々、塀、大寺の門、橋の欄干に顕&size(9){あら};われて、芸妓&size(9){げいしゃ};の屋台囃子&size(9){やたいばやし};とともに、最も注意を引いたのは、仮装行列の催&size(9){もよおし};であった。~
 有志と、二重圏点、かさねて、飛入勝手次第として、祝賀委員が、審議の上、その仮装の優秀なるものには、三等まで賞金美景を呈すとしたのに、読者も更&size(9){あらた};めて御注意を願いたい。~
 だから、踊屋台の引いて帰る囃子の音に誘われて、お桂が欣七郎とともに町に出た時は、橋の上で弁慶に出会い、豆府屋から出る緋縅&size(9){ひおどし};の武者を見た。~
 床屋の店に立掛&size(9){たちかか};ったのは五人男の随一人、だてにさした尺八に、雁&size(9){かり};がねと札を着けた。~
 犬だって浮かれている。~
 石垣下には、鶩&size(9){あひる};が、がいがいと鳴立てた、が、それはこの川に多い鶺鴒&size(9){せきれい};が、仮装したものではない。~
 ~
 泰西の夜会の例に見ても、由来仮装は夜のものであるらしい。~
 委員と名のる、もの識&size(9){しり};が、そんな事は心得た。~
 行列は午後五時よりと、比羅に認&size(9){したた};めてある。~
 昼はかくれて、不思議な星のごとく、颯&size(9){さっ};と夜&size(9){よ};の幕を切って顕&size(9){あらわ};れる筈&size(9){はず};の処を、それらの英雄侠客&size(9){きょうかく};は、髀肉&size(9){ひにく};の歎&size(9){たん};に堪えなかったに相違ない。~
 かと思えば、桶屋&size(9){おけや};の息子の、竹を削って大桝形&size(9){おおますがた};に組みながら、せっせと小僧に手伝わして、しきりに紙を貼&size(9){は};っているのがある。~
 通りがかりの馬方と問答する。~
 「おいらは留&size(9){や};めようと思ったが、この景気じゃあ、とても引込&size(9){ひっこ};んでいられない。」~
 「はあ、何に化けるね。」~
 「凧&size(9){たこ};だ……黙っていてくれよ。おいらが身体&size(9){からだ};をそのまま大凧に張って飛歩行&size(9){とびある};くんだ。両方の耳にうなりをつけるぜ。」~
 「魂消&size(9){たまげ};たの、一等賞ずらえ。」~
 「黙っててくんろよ。」~
 馬がヒーンと嘶&size(9){いなな};いた。~
 この馬が迷惑した。~
 のそりのそりと歩行&size(9){ある};き出すと、はじめ、出会ったのは緋縅の武者で、続いて出たのは雁がね、飛んで来たのは弁慶で、争って騎&size(9){の};ろうとする。揉&size(9){も};みに揉んで、太刀と長刀&size(9){なぎなた};が左右へ開いて、尺八が馬上に跳返った。~
 そのかわり横田圃&size(9){よこたんぼ};へ振落された。~
 ~
 ただこのくらいな間&size(9){ま};だったが――山の根に演芸館、花見座の旗を、今日はわけて、山鳥のごとく飜した、町の角の芸妓屋&size(9){げいしゃや};の前に、先刻の囃子屋台が、大&size(9){おおき};な虫籠&size(9){むしかご};のごとくに、紅白の幕のまま、寂寞&size(9){せきばく};として据&size(9){すわ};って、踊子の影もない。~
 はやく町中&size(9){まちなか};、一練&size(9){ひとねり};は練廻って剰&size(9){あま};す処がなかったほど、温泉の町は、さて狭いのであった。~
 やがて、新造の石橋で列を造って、町を巡&size(9){まわ};りすました後では、揃ってこの演芸館へ練込んで、すなわち放楽の乱舞となるべき、仮装行列を待顔に、掃清&size(9){はききよ};められた状&size(9){さま};のこのあたりは、軒提灯&size(9){のきぢょうちん};のつらなった中に、かえって不断より寂しかった。~
 ~
 峰の落葉が、屋根越に――~
 日蔭の冷い細流&size(9){せせらぎ};を、軒に流して、ちょうどこの辻の向角&size(9){むこうかど};に、二軒並んで、赤毛氈&size(9){あかもうせん};に、よごれ蒲団&size(9){ぶとん};を継&size(9){つぎ};はぎしたような射的店&size(9){しゃてきみせ};がある。~
 達磨&size(9){だるま};落し、バットの狙撃&size(9){そげき};はつい通りだが、二軒とも、揃って屋根裏に釣った幽霊がある。~
 弾丸&size(9){たま};が当ると、ガタリざらざらと蛇腹に伸びて、天井から倒&size(9){さかさま};に、いずれも女の幽霊が、ぬけ上った青い額と、縹色&size(9){はなだいろ};の細い頤&size(9){あご};を、ひょろひょろ毛から突出して、背筋を中反りに蜘蛛&size(9){くも};のような手とともに、ぶらりと下る仕掛けである。~
 ~
 「可厭&size(9){いや};な、あいかわらずね……」~
 お桂さんが引返そうとした時、歩手前&size(9){あしてまえ};の店のは、白張&size(9){しらはり};の暖簾&size(9){のれん};のような汚れた天蓋&size(9){てんがい};から、捌髪&size(9){さばきがみ};の垂れ下った中に、藍色の片頬&size(9){かたほ};に、薄目を開けて、片目で、置据えの囃子屋台を覗&size(9){のぞ};くように見ていたし、先隣&size(9){さきどなり};なのは、釣上げた古行燈&size(9){ふるあんどん};の破&size(9){やぶれ};から、穴へ入ろうとする蝮&size(9){まむし};の尾のように、かもじの尖&size(9){さき};ばかりが、ぶらぶらと下っていた。~
 ~
 帰りがけには、武蔵坊&size(9){むさしぼう};も、緋縅も、雁がねも、一所に床屋の店に見た。~
 が、雁がねの臆面&size(9){おくめん};なく白粉を塗りつつ居たのは言うまでもなかろう。~
 ~
 ――小一按摩のちびな形が、現に、夜泣松の枝の下へ、仮装の一個&size(9){ひとつ};として顕&size(9){あらわ};れている――~
 按摩の謙斎が、療治しつつ欣七郎に話したのは――その夜、食後の事なのであった。~
 ~
        三~
 ~
 「半助さん、半助さん。」~
 すらすらと、井菊の広い帳場の障子へ、姿を見せたのはお桂さんである。~
 あの奥の、花の座敷から来た途中は――この家&size(9){や};での北国だという――雪の廊下を通った事は言うまでもない。~
 カチリ……~
 ハッと手を挙げて、珊瑚&size(9){さんご};の六分珠&size(9){ろくぶだま};をおさえながら、思わず膠&size(9){にかわ};についたように、足首からむずむずして、爪立ったなり小褄&size(9){こづま};を取って上げたのは、謙斎の話の舌とともに、蛞蝓&size(9){なめくじ};のあとを踏んだからで、スリッパを脱ぎ放しに釘でつけて、身ぶるいをして衝&size(9){つ};と抜いた。~
 湯殿から蒸しかかる暖い霧も、そこで、さっと肩に消えて、池の欄干を伝う、緋鯉&size(9){ひごい};の鰭&size(9){ひれ};のこぼれかかる真白&size(9){まっしろ};な足袋はだしは、素足よりなお冷い。~
 で……霞へ渡る反橋&size(9){そりばし};を視&size(9){み};れば、そこへ島田に結った初々しい魂が、我身を抜けて、うしろ向きに、気もそぞろに走る影がして、ソッと肩をすぼめたなりに、両袖を合せつつ呼んだのである。~
 「半助さん……」~
 ここで踊屋台を視&size(9){み};た、昼の姿は、鯉を遊ばせた薄&size(9){うす};もみじのさざ波であった。~
 いまは、その跡を慕って大鯰&size(9){おおなまず};が池から雫&size(9){しずく};をひたひたと引いて襲う気勢&size(9){けはい};がある。~
 ~
 ~
 謙斎の話は、あれからなお続いて、小一の顕われた夜泣松だが、土地の名所の一つとして、絵葉書で売るのとは場所が違う。~
 それは港街道の路傍&size(9){みちばた};の小山の上に枝ぶりの佳いのを見立てたので。~
 ――真の夜泣松は、汽車から来る客たちのこの町へ入る本道に、古い石橋の際に土をあわれに装&size(9){も};って、石地蔵が、苔蒸&size(9){こけむ};し、且つ砕けて十三体。~
 それぞれに、樒&size(9){しきみ};、線香を手向けたのがあって、十三塚と云う……一揆&size(9){いっき};の頭目でもなし、戦死をした勇士でもない。~
 きいても気の滅入&size(9){めい};る事は、むかし大饑饉&size(9){おおききん};の年、近郷から、湯の煙を慕って、山谷&size(9){さんこく};を這出&size(9){はいで};て来た老若男女&size(9){ろうにゃくなんにょ};の、救われずに、菜色して餓死した骨を拾い集めて葬ったので、その塚に沿った松なればこそ、夜泣松と言うのである。~
 ――昼でも泣く。――仮装した小按摩の妄念は、その枝下、十三地蔵とは、間に水車の野川が横に流れて石橋の下へ落ちて、香都良川へ流込む水筋を、一つ跨&size(9){また};いだ処に、黄昏&size(9){たそがれ};から、もう提灯を釣&size(9){つる};して、裾&size(9){すそ};も濡れそうに、ぐしゃりと踞&size(9){しゃが};んでいる。~
 ~
 今度出来た、谷川に架けた新石橋は、ちょうど地蔵の斜向&size(9){すじむか};い。~
 でその橋向うの大旅館の庭から、仮装は約束のごとく勢揃をして、温泉の町へ入ったが、――そう云ってはいかがだけれど、饑饉年&size(9){どし};の記念だから、行列が通るのに、四角な行燈&size(9){あんどん};も肩を円くして、地蔵前を半輪&size(9){はんわ};によけつつ通った。~
 ……そのあとへ、人魂&size(9){ひとだま};が一つ離れたように、提灯の松の下、小按摩の妄念は、列の中へ加わらずに孤影※(「&size(9){火+火};/訊のつくり」、第4水準2-79-80)然&size(9){けいぜん};として残っている。……~
 ~
 ぬしは分らない、仮装であるから。~
 いずれ有志の一人と、仮装なかまで四五人も誘ったが、ちょっと手を引張&size(9){ひっぱ};っても、いやその手を引くのが不気味なほど、正&size(9){しょう};のものの身投げ按摩で、びくとも動かないでいる。~
 ……と言うのであった。~
 ~
 ――これを云った謙斎は、しかし肝心な事を言いわすれた、あとで分ったが、誘うにも、同行を促すにも、なかまがこもごも声を掛けたのに、小按摩は、おくびほども口を利かない。~
 「ぴい、ぷう。」舌のかわりに笛を。~
 「ぴいぷう」とただ笛を吹いた。――~
 ~
 半ば聞ずてにして、すっと袖の香とともに、花の座敷を抜けた夫人は、何よりも先にその真偽のほどを、――そんな事は遊びずきだし一番明&size(9){あかる};い――半助に、あらためて聞こうとした。懸念に処する、これがお桂のこの場合の第一の手段であったが。……~
 居ない。~
 「おや、居ないの。」~
 一層袖口を引いて襟冷く、少しこごみ腰に障子の小間&size(9){こま};から覗くと、鉄の大火鉢ばかり、誰も見えぬ。~
 「まあ。」~
 式台わきの横口にこう、ひょこりと出るなり、モオニングのひょろりとしたのが、とまずシルクハットを取って高慢に叩頭&size(9){おじぎ};したのは……~
 「あら。」~
 附髯&size(9){つけひげ};をした料理番。~
 並んで出たのは、玄関下足番の好男子で、近頃夢中になっているから思いついた、頭から顔一面、厚紙を貼って、胡粉&size(9){ごふん};で潰&size(9){つぶ};した、不断女の子を悩ませる罪滅しに、真赤&size(9){まっか};に塗った顔なりに、すなわちハアトの一&size(9){ワン};である。真赤な中へ、おどけて、舌を出しておじぎをした。~
 「可厭&size(9){いや};だ。~
 ……ちょいと、半助さんは。」~
 「あいつは、もう。」~
 揃って二人ともまたおじぎをして、~
 「昼間っから行方知れずで。」~
 と口々に云う処へ、チャンチキ、チャンチキ、どどどん、ヒューラが、直ぐそこへ。~
 ――女中の影がむらむらと帳場へ湧&size(9){わ};く、客たちもぞろぞろ出て来る。~
 ……血の道らしい年増の女中が、裾長&size(9){すそなが};にしょろしょろしつつ、トランプの顔を見て、目で嬌態&size(9){しな};をやって、眉をひそめながら肩でよれついたのと、入交&size(9){いれまじ};って、門際へどっと駈出&size(9){かけだ};す。~
 ~
 夫人も、つい誘われて門&size(9){かど};へ立った。~
 高張&size(9){たかはり};、弓張&size(9){ゆみはり};が門の左右へ、掛渡した酸漿提灯&size(9){ほおずきぢょうちん};も、燦&size(9){ぱっ};と光が増したのである。~
 桶屋&size(9){おけや};の凧&size(9){たこ};は、もう唸&size(9){うな};って先へ飛んだろう。~
 馬二頭が、鼻あらしを霜夜にふつふつと吹いて曳&size(9){ひ};く囃子屋台を真中&size(9){まんなか};に、磽&size(9){※(「石+角」、第3水準1-89-6)こうかく};たる石ころ路&size(9){みち};を、坂なりに、大師道&size(9){みち};のいろはの辻のあたりから、次第さがりに人なだれを打って来た。~
 弁慶の長刀&size(9){なぎなた};が山鉾&size(9){やまぼこ};のように、見える、見える。御曹子&size(9){おんぞうし};は高足駄、おなじような桃太郎、義士の数が三人ばかり。~
 五人男が七人居て、雁&size(9){かり};がねが三羽揃った。~
 ……チャンチキ、チャンチキ、ヒューラと囃&size(9){はや};して、がったり、がくり、列も、もう乱れ勝&size(9){がち};で、昼の編笠をてこ舞に早がわりの芸妓&size(9){げいしゃ};だちも、微酔&size(9){ほろよい};のいい機嫌。~
 青い髯&size(9){ひげ};も、白い顔も、紅&size(9){べに};を塗ったのも、一斉にうたうのは鰌&size(9){どじょう};すくいの安来節&size(9){やすぎぶし};である。~
 中にぶッぶッぶッぶッと喇叭&size(9){らっぱ};ばかり鳴すのは、――これはどこかの新聞でも見た――自動車のつくりものを、腰にはめて行&size(9){ゆ};くのである。~
 ~
 時に、井菊屋はほとんど一方の町はずれにあるから、村方へこぼれた祝場&size(9){いわいば};を廻り済&size(9){すま};して、行列は、これから川向&size(9){かわむこう};の演芸館へ繰込むのの、いまちょうど退汐時&size(9){ひきしおどき};。~
 人は一倍群ったが、向側が崖沿&size(9){がけぞい};の石垣で、用水の流&size(9){ながれ};が急激に走るから、推&size(9){お};されて蹈&size(9){ふみ};はずす憂&size(9){うれい};があるので、群集は残らず井菊屋の片側に人垣を築いたため、背後&size(9){うしろ};の方の片袖の姿斜めな夫人の目には、山から星まじりに、祭屋台が、人の波に乗って、赤く、光って流れた。~
 ~
 その影も、灯&size(9){ともしび};も、犬が三匹ばかり、まごまご殿&size(9){しんがり};しながらついて、川端の酸漿提灯の中へぞろぞろと黒くなって紛れたあとは、彳&size(9){たたず};んで見送る井菊屋の人たちばかり。~
 早や内へ入るものがあって、急に寂しくなったと思うと、一足後&size(9){おく};れて、暗い坂から、――異形&size(9){いぎょう};なものが下りて来た。~
 ~
 疣々&size(9){いぼいぼ};打った鉄棒&size(9){かなぼう};をさし荷&size(9){にな};いに、桶屋も籠屋&size(9){かごや};も手伝ったろう。~
 張抜&size(9){はりぬき};らしい真黒&size(9){まっくろ};な大釜&size(9){おおがま};を、蓋&size(9){ふた};なしに担いだ、牛頭&size(9){ごず};、馬頭&size(9){めず};の青鬼、赤鬼。青鬼が前へ、赤鬼が後棒&size(9){あとぼう};で、可恐&size(9){おそろ};しい面を被&size(9){かぶ};った。縫いぐるみに相違ないが、あたりが暗くなるまで真に迫った。~
 ……大釜の底にはめらめらと真赤&size(9){まっか};な炎を彩って燃&size(9){もや};している。~
 ~
 青鬼が、~
 「ぼうぼう、ぼうぼう、」~
 赤鬼が、~
 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」~
 と陰気な合言葉で、国境の連山を、黒雲に背負&size(9){しょ};って顕&size(9){あらわ};れた。~
 青鬼が、~
 「ぼうぼう、ぼうぼう、」~
 赤鬼が、~
 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」~
 ~
 よくない洒落&size(9){しゃれ};だ。~
 ――が、訳がある。~
 ……前に一度、この温泉町&size(9){ゆのまち};で、桜の盛&size(9){さかり};に、仮装会を催した事があった。~
 その時、墓を出た骸骨&size(9){がいこつ};を装って、出歯&size(9){でっぱ};をむきながら、卒堵婆&size(9){そとば};を杖について、ひょろひょろ、ひょろひょろと行列のあとの暗がりを縫って歩行&size(9){ある};いて、女小児&size(9){こども};を怯&size(9){おび};えさせて、それが一等賞になったから。……~
 ~
 地獄の釜も、按摩の怨念&size(9){おんねん};も、それから思着いたものだと思う。~
 一国の美術家でさえ模倣を行&size(9){や};る、いわんや村の若衆&size(9){わかしゅ};においてをや、よくない真似をしたのである。~
 「ぼうぼう、ぼうぼう。」~
 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」~
 「あら、半助だわ。」~
 と、ひとりの若い女中が言った。~
 ~
 石を、青と赤い踵&size(9){かかと};で踏んで抜けた二頭の鬼が、後&size(9){うしろ};から、前を引いて、ずしずしずしと小戻りして、人立&size(9){ひとだち};の薄さに、植込の常磐木&size(9){ときわぎ};の影もあらわな、夫人の前へ寄って来た。~
 ~
 赤鬼が最も著しい造声&size(9){つくりごえ};で、~
 「牛頭&size(9){ごず};よ、牛頭よ、青牛よ。」~
 「もうー、」~
 と牛の声で応じたのである。~
 「やい、十三塚にけつかる、小按摩な。」~
 「もう。」~
 「これから行って、釜へ打込&size(9){ぶちこ};め。」~
 「もう。」~
 「そりゃ――歩&size(9){あゆ};べい。」~
 「もう。」~
 「ああ、待って。」~
 お桂さんは袖を投げて一歩&size(9){ひとあし};して、~
 「待って下さいな。」~
 と釜のふちを白い手で留めたと思うと、~
 「お熱々&size(9){つつ};。」~
 と退&size(9){すさ};って耳を圧&size(9){おさ};えた。~
 わきあけも、襟も、乱るる姿は、電燭&size(9){でんき};の霜に、冬牡丹&size(9){ふゆぼたん};の葉ながらくずるるようであった。~
 ~
        四~
 ~
 「小一さん、小一さん。」~
 たとえば夜の睫毛&size(9){まつげ};のような、墨絵に似た松の枝の、白張&size(9){しらはり};の提灯は――こう呼んで、さしうつむいたお桂の前髪を濃く映した。~
 ~
 婀娜&size(9){あだ};にもの優しい姿は、コオトも着ないで、襟に深く、黒に紫の裏すいた襟巻をまいたまま、むくんだ小按摩の前に立って、そと差覗&size(9){さしのぞ};きながら言ったのである。~
 褄&size(9){つま};が幻のもみじする、小流&size(9){こながれ};を横に、その一条&size(9){ひとすじ};の水を隔てて、今夜は分けて線香の香の芬&size(9){ぷん};と立つ、十三地蔵の塚の前には外套&size(9){がいとう};にくるまって、中折帽&size(9){なかおれぼう};を目深&size(9){まぶか};く、欣七郎が杖&size(9){ステッキ};をついて彳&size(9){たたず};んだ。~
 (――実は、彼等が、ここに夜泣松の下を訪れたのは、今夜これで二度めなのであった――)~
 ~
 はじめに。~
 ……話の一筋が歯に挟&size(9){はさま};ったほどの事だけれど、でも、その不快について処置をしたさに、二人が揃って、祭の夜&size(9){よ};を見物かたがた、ここへ来た時は。~
 ……「何だ、あの謙斎か、按摩め。こくめいで律儀らしい癖に法螺&size(9){ほら};を吹いたな。」~
 そこには松ばかり、地蔵ばかり、水ばかり、何の影も見えなかった。空の星も晃々&size(9){きらきら};として、二人の顔も冴々&size(9){さえざえ};と、古橋を渡りかけて、何心なく、薬研&size(9){やげん};の底のような、この横流&size(9){よこながれ};の細滝に続く谷川の方を見ると、岸から映るのではなく、川瀬に提灯が一つ映った。~
 ~
 土地を知った二人が、ふとこれに心を取られて、松の方&size(9){かた};へ小戻りして、向合った崖縁に立って、谿河&size(9){たにがわ};を深く透かすと、――ここは、いまの新石橋が架&size(9){かか};らない以前に、対岸から山伝いの近道するのに、樹の根、巌角&size(9){いわかど};を絶壁に刻んだ径&size(9){こみち};があって、底へ下りると、激流の巌から巌へ、中洲の大巌で一度中絶えがして、板ばかりの橋が飛々&size(9){とびとび};に、一煽&size(9){ひとあお};り飜って落つる白波のすぐ下流は、たちまち、白昼も暗闇&size(9){やみ};を包んだ釜ヶ淵なのである。~
 そのほとんど狼の食い散&size(9){ちら};した白骨のごとき仮橋の上に、陰気な暗い提灯の一つ灯&size(9){び};に、ぼやりぼやりと小按摩が蠢&size(9){うご};めいた。~
 ~
 思いがけない事ではない。~
 二人が顔を見合せながら、目を放さず、立つうちに、提灯はこちらに動いて、しばらくして一度、ふわりと消えた。~
 それは、巌&size(9){いわ};の根にかくれたので、やがて、縁日ものの竜燈のごとく、雑樹&size(9){ぞうき};の梢&size(9){こずえ};へかかった。それは崖へ上って街道へ出たのであった。~
 ~
 ――その時は、お桂の方が、衝&size(9){つ};と地蔵の前へ身を躱&size(9){かわ};すと、街道を横に、夜泣松の小按摩の寄る処を、~
 「や、御趣向だなあ。」~
 と欣七郎が、のっけに快活に砕けて出て、~
 「疑いなしだ、一等賞。」~
 小按摩は、何も聞かない振&size(9){ふり};をして、蛙&size(9){かわず};が手を「てへん+爭」&size(9){※(第4水準2-13-24)もが};くがごとく、指で捜&size(9){さぐ};りながら、松の枝に提灯を釣すと、謙斎が饒舌&size(9){しゃべ};った約束のごとく、そのまま、しょぼんと、根に踞&size(9){かが};んで、つくばい立&size(9){だち};の膝の上へ、だらりと両手を下げたのであった。~
 「おい。一等賞君、おい一杯飲もう。一所に来たまえ。」~
 その時だ。~
 「ぴい、ぷう。」~
 笛を銜&size(9){くわ};えて、唇を空ざまに吹上げた。~
 「分ったよ、一等賞だよ。」~
 「ぴい、ぷう。」~
 「さ、祝杯を上げようよ。」~
 「ぴい、ぷう。」~
 空嘯&size(9){そらうそぶ};いて、笛を鳴す。~
 ~
 夫人が手招きをした。~
 何が故に、そのうしろに竜女の祠&size(9){ほこら};がないのであろう、塚の前に面影に立った。~
 「ちえッ」舌うちとともに欣七郎は、強情、我慢、且つ執拗&size(9){しつよう};な小按摩を見棄てて、招かれた手と肩を合せた、そうして低声&size(9){こごえ};をかわしかわし、町の祭の灯&size(9){ともしび};の中へ、並んでスッと立去った。~
 「ぴい、ぷう。……」~
 ~
 「小一さん。」~
 しばらくして、引返して二人来た時は、さきにも言った、欣七郎が地蔵の前に控えて、夫人自ら小按摩に対したのである。~
 「ぴい、ぷう。」~
 「小一さん。」~
 「ぴい、ぷう。」~
 「大島屋の娘はね、幽霊になってしまったのよ。」~
 と一歩&size(9){ひとあし};ひきさま、暗い方に隠れて待った、あの射的店の幽霊を――片目で覗いていた方のである――竹棹&size(9){たけざお};に結&size(9){ゆわ};えたなり、ずるりと出すと、ぶらりと下って、青い女が、さばき髪とともに提灯を舐&size(9){な};めた。~
 その幽霊の顔とともに、夫人の黒髪、びん掻&size(9){かき};に、当代の名匠が本質&size(9){きじ};へ、肉筆で葉を黒漆&size(9){くろうるし};一面に、緋&size(9){ひ};の一輪椿の櫛&size(9){くし};をさしたのが、したたるばかり色に立って、かえって打仰いだ按摩の化ものの真向&size(9){まっこう};に、一太刀、血を浴びせた趣があった。~
 「一所に、おいでなさいな、幽霊と。」~
 水ぶくれの按摩の面&size(9){おもて};は、いちじくの実の腐れたように、口をえみわって、ニヤリとして、ひょろりと立った。~
 ~
 お桂さんの考慮&size(9){かんがえ};では、そうした……この手段を選んで、小按摩を芸妓屋&size(9){げいしゃや};町の演芸館。~
 ……仮装会の中心点へ送込もうとしたのである。そうしてしまえば、ねだ下、天井裏のばけものまでもない……雨戸の外の葉裏にいても気味の悪い芋虫を、銀座の真中&size(9){まんなか};へ押放&size(9){おっぱな};したも同然で、あとは、さばさばと寐覚&size(9){ねざめ};が可&size(9){い};い。~
 ~
 ……思いつきで、幽霊は、射的店で借りた。~
 ――欣七郎は紳士だから、さすがにこれは阻&size(9){はば};んだので、かけあいはお桂さんが自分でした。~
 毛氈&size(9){もうせん};に片膝のせて、~
 「私も仮装をするんですわ。」~
 令夫人といえども、下町娘&size(9){したまちッこ};だから、お祭り気は、頸脚&size(9){えりあし};に幽&size(9){かすか};な、肌襦袢&size(9){はだじゅばん};ほどは紅&size(9){くれない};に膚&size(9){はだ};を覗&size(9){のぞ};いた。……~
 ~
 もう容易&size(9){たやす};い。~
 ……つくりものの幽霊を真中&size(9){まんなか};に、小按摩と連立って、お桂さんが白木の両ぐりを町に鳴すと、既に、まばらに、消えたのもあり、消えそうなのもある、軒提灯の蔭を、つかず離れず、欣七郎が護&size(9){まも};って行&size(9){ゆ};く。~
 芸妓屋町へ渡る橋手前へ、あたかも巨寺&size(9){おおでら};の門前へ、向うから渡る地蔵の釜&size(9){かま};。~
 「ぼうぼう、ぼうぼう。」~
 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」~
 「や、小按摩が来た……出掛けるには及ばぬわ、青牛よ。」~
 「もう。」~
 と、吠&size(9){ほ};える。~
 「ぴい、ぷう。」~
 「ぼうぼう、ぼうぼう。」~
 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」~
 そこで、一行異形のものは、鶩&size(9){あひる};の夢を踏んで、橋を渡った。~
 ~
 鬼は、お桂のために心を配って来たらしい。~
 演芸館の旗は、人の顔と、頭との中に、電飾に輝いた。~
 ……町の角から、館の前の広場へひしと詰&size(9){つま};って、露台に溢&size(9){あふ};れたからである。~
 この時は、軒提灯のあと始末と、火の用心だけに家々に残ったもののほか、町を挙げてここへ詰掛けたと言って可&size(9){い};い。~
 そのかわり、群集の一重&size(9){ひとえ};うしろは、道を白く引いて寂然&size(9){しん};としている。~
 「おう、お嬢さん……そいつを持ちます、俺の役だ。」~
 赤鬼は、直ちに半助の地声であった。~
 按摩の頭は、提灯とともに、人垣の群集の背後&size(9){うしろ};についた。~
 「もう、要らないわ、此店&size(9){ここ};へ返して、ね。」~
 と言った。~
 「青牛よ。」~
 「もう。」~
 「生白い、いい肴&size(9){さかな};だ。釜で煮べい。」~
 「もう。」~
 館の電飾が流るるように、町並の飾竹が、桜のつくり枝とともに颯&size(9){さっ};と鳴った。~
 更けて山颪&size(9){やまおろし};がしたのである。~
 ~
 竹を掉抜&size(9){ふるいぬ};きに、たとえば串から倒&size(9){さかさ};に幽霊の女を釜の中へ入れようとした時である。~
 砂礫&size(9){すなつぶて};を捲&size(9){ま};いて、地を一陣の迅&size(9){と};き風がびゅうと、吹添うと、すっと抜けて、軒を斜&size(9){ななめ};に、大屋根の上へ、あれあれ、もの干を離れて、白帷子&size(9){しろかたびら};の裾&size(9){すそ};を空に、幽霊の姿は、煙筒&size(9){えんとつ};の煙が懐手をしたように、遥&size(9){はるか};に虚空へ、遥に虚空へ――~
 ~
 群集はもとより、立溢&size(9){たちあふ};れて、石の点頭&size(9){うなず};くがごとく、踞&size(9){かが};みながら視&size(9){み};ていた、人々は、羊のごとく立って、あッと言った。~
 小一按摩の妄念も、人混&size(9){ひとごみ};の中へ消えたのである。~
 ~
        五~
 ~
 土地の風説に残り、ふとして、浴客の耳に伝うる処は……これだけであろうと思う。~
 しかし、少し余談がある。~
 とにかく、お桂さんたちは、来た時のように、一所に二人では帰らなかった。――~
 ~
 風に乗って、飛んで、宙へ消えた幽霊のあと始末は、半助が赤鬼の形相のままで、蝙蝠&size(9){バット};を吹かしながら、射的店へ話をつけた。~
 此奴&size(9){こいつ};は褌&size(9){ふんどし};にするため、野良猫の三毛を退治&size(9){たいじ};て、二月越&size(9){ふたつきごし};内証&size(9){ないしょ};で、もの置&size(9){おき};で皮を乾&size(9){ほ};したそうである。~
 ~
 笑話の翌朝は、引続き快晴した。近山裏の谷間には、初茸&size(9){はつたけ};の残り、乾&size(9){から};びた占地茸&size(9){しめじ};もまだあるだろう、山へ行く浴客も少くなかった。~
 お桂さんたちも、そぞろ歩行&size(9){ある};きした。掛稲&size(9){かけいね};に嫁菜の花、大根畑に霜の濡色も暖い。~
 畑中の坂の中途から、巨刹&size(9){おおでら};の峰におわす大観音に詣でる広い道が、松の中を上&size(9){のぼ};りになる山懐&size(9){やまふところ};を高く蜒&size(9){うね};って、枯草葉の径&size(9){こみち};が細く分れて、立札の道しるべ。~
 歓喜天御堂、と指&size(9){ゆびさ};して、……福徳を授け給う……と記してある。~
 「福徳って、お金ばかりじゃありませんわ。」~
 欣七郎は朝飯&size(9){あさはん};前の道がものういと言うのに、ちょいと軽い小競合&size(9){こぜりあい};があったあとで、参詣&size(9){おまいり};の間を一人待つ事になった。~
 「ここを、……わきへ去&size(9){い};っては可厭&size(9){いや};ですよ……一人ですから。」~
 お桂さんは勢&size(9){いきおい};よく乾いた草を分けて攀&size(9){よ};じ上った。~
 欣七郎の目に、その姿が雑樹&size(9){ぞうき};に隠れた時、夫人の前には再びやや急な石段が顕&size(9){あら};われた。~
 軽く喘&size(9){あえ};いで、それを上ると、小高い皿地の中窪みに、垣も、折戸もない、破屋&size(9){あばらや};が一軒あった。~
 ~
 出た、山の端&size(9){は};に松が一樹。~
 幹のやさしい、そこの見晴しで、ちょっと下に待つ人を見ようと思ったが、上って来た方は、紅甍&size(9){こうぼう};[#ルビの「こうぼう」は底本では「こうばう」]と粉壁&size(9){ふんぺき};と、そればかりで夫は見えない。~
 あと三方はまばらな農家を一面の畑の中に、弘法大師[#「弘法大師」は底本では「引法大師」]奥の院、四十七町いろは道が見えて、向うの山の根を香都良川が光って流れる。~
 わきへ引込んだ、あの、辻堂の小さく見える処まで、昨日、午&size(9){ひる};ごろ夫婦&size(9){ふたり};で歩行&size(9){ある};いた、――かえってそこに、欣七郎の中折帽が眺められるようである。~
 ~
 ああ、今朝もそのままな、野道を挟んだ、飾竹に祭提灯の、稲田ずれに、さらさらちらちらと風に揺れる処で、欣七郎が巻煙草&size(9){まきたばこ};を出すと、燐寸&size(9){マッチ};を忘れた。~
 ……道の奥の方から、帽子も被&size(9){かぶ};らないで、土地のものらしい。~
 霜げた若い男が、蝋燭&size(9){ろうそく};を一束買ったらしく、手にして来たので、湯治場の心安さ、遊山&size(9){ゆさん};気分で声を掛けた。~
 「ちょいと、燐寸はありませんか。」~
 ぼんやり立停&size(9){たちどま};って、二人を熟&size(9){じっ};と視&size(9){み};て、~
 「はい、私&size(9){わし};どもの袂&size(9){たもと};には、あっても人魂&size(9){ひとだま};でしてな。」~
 すたすたと分れたのが、小上&size(9){このぼ};りの、畦&size(9){あぜ};を横に切れて入った。~
 「坊主らしいな。……提灯の蝋燭を配るのかと思ったが。」~
 俗ではあったが、うしろつきに、欣七郎がそう云った。~
 そう言った笑顔に。~
 ――自分が引添うているようで、現在&size(9){いま};、朝湯の前でも乳のほてり、胸のときめきを幹でおさえて、手を遠見に翳&size(9){かざ};すと、出端&size(9){でばな};のあし許&size(9){もと};の危&size(9){あやう};さに、片手をその松の枝にすがった、浮腰を、朝風が美しく吹靡&size(9){ふきなび};かした。~
 ~
 しさって褄&size(9){つま};を合せた、夫に対する、若き夫人の優しい身だしなみである。~
 まさか、この破屋に、――いや、この松と、それより梢&size(9){こずえ};の少し高い、対&size(9){つい};の松が、破屋の横にややまた上坂&size(9){のぼりざか};の上にあって、根は分れつつ、枝は連理に連&size(9){つらな};った、濃い翠&size(9){みどり};の色越&size(9){いろごし};に、額を捧げて御堂がある。~
 夫人は衣紋&size(9){えもん};を直しつつ近着いた。~
 近づくと、~
 「あッ、」~
 思わず、忍音&size(9){しのびね};を立てた――見透&size(9){みすか};す六尺ばかりの枝に、倒&size(9){さかさま};に裾を巻いて、毛を蓬&size(9){おどろ};に落ちかかったのは、虚空に消えた幽霊である。~
 と見ると顔が動いた、袖へ毛だらけの脚が生え、脇腹の裂目に獣の尾の動くのを、狐とも思わず、気は確&size(9){たしか};に、しかと犬と見た。~
 が、人の香を慕ったか、そばえて幽霊を噛&size(9){か};みちらし、まつわり振った、そのままで、裾を曳&size(9){ひ};いて、ずるずると寄って来るのに、はらはらと、慌&size(9){あわただ};しく踵&size(9){きびす};を返すと、坂を落ち下りるほどの間&size(9){ま};さえなく、帯腰へ疾&size(9){と};く附着&size(9){くッつ};いて、ぶるりと触るは、髪か、顔か。~
 ~
 花の吹雪に散るごとく、裾も袖も輪に廻って、夫人は朽ち腐れた破屋の縁へ飛縋&size(9){とびすが};った。~
 「誰か、誰方&size(9){どなた};か、誰方か。」~
 「うう、うう。」~
 と寝惚声&size(9){ねぼけごえ};して、破障子&size(9){やぶれしょうじ};[#ルビの「しょうじ」は底本では「しやうじ」]を開けたのは、頭も、顔も、そのままの小一按摩の怨念であった。~
 「あれえ。」~
 声は死んで、夫人は倒れた。~
 この声が聞えるのには間遠&size(9){まどお};であった。~
 最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心&size(9){せきごころ};に草を攀&size(9){よ};じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋&size(9){ひとつや};の縁外&size(9){えんそと};の欠けた手水鉢&size(9){ちょうずばち};に、ぐったりと頤&size(9){あご};をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。~
 ~
 横ざまに、杖&size(9){ステッキ};で、敲&size(9){たた};き払った。~
 が、人気勢&size(9){ひとげはい};のする破障子&size(9){やれしょうじ};を、及腰&size(9){およびごし};に差覗&size(9){さしのぞ};くと、目よりも先に鼻を撲&size(9){う};った、このふきぬけの戸障子にも似ず、したたかな酒の香である。~
 酒ぎらいな紳士は眉をひそめて、手巾&size(9){ハンケチ};で鼻を蔽&size(9){おお};いながら、密&size(9){そっ};と再び覗&size(9){のぞ};くと斉&size(9){ひと};しく、色が変って真蒼&size(9){まっさお};になった。~
 竹の皮散り、貧乏徳利の転&size(9){ころが};った中に、小一按摩は、夫人に噛&size(9){かじ};りついていたのである。~
 読む方は、筆者が最初に言ったある場合を、ごく内端&size(9){うちわ};に想像さるるが可&size(9){い};い。~
 ~
 小一に仮装したのは、この山の麓&size(9){ふもと};に、井菊屋の畠の畑つくりの老僕と日頃懇意な、一人棲&size(9){ひとりずみ};の堂守であった。~
 大正十四(一九二五)年三月~
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 ~
 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房~
    1995(平成7)年12月4日第1刷発行~
 底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店~
    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行~
 ※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。~
 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。~
 入力:門田裕志~
 校正:今井忠夫~
 2003年8月30日作成~
 青空文庫作成ファイル:~
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 LEFT:&size(11){[[HP「町の按摩さん」>http://tao.main.jp/anmasan/]]  [[「町の按摩さんblog」>http://anma.air-nifty.com/anma/]]  [[「キャラネティクス&チベット体操日記」>http://callanetics.seesaa.net/]]};
 
 RIGHT:&size(11){[[HP「町の按摩さん」>http://tao.main.jp/anmasan/]]  [[「町の按摩さんblog」>http://anma.air-nifty.com/anma/]]  [[「キャラネティクス&チベット体操日記」>http://callanetics.seesaa.net/]]};
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hisanoyu dharmaya secondlife

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