日本における按摩の歴史2

按摩の伝来

「按摩」という言葉、医療、技術は、中国から輸入されたものですが、その年代は定かではありません。
日本の文献にはじめて「按摩」という言葉が登場するのは西暦701年、日本初の法律「大宝律令」の中でです。
(古事記・712年、日本書紀・720年)

以下の按摩に関する条文は、大宝律令の後に布かれた養老令(718年)の現代語訳です。
これらは「官制大観 」から引用させていただきました。


養老令

第二十四.医疾令

一.医博士条
医博士いはくじ(医術教官)は、医人(医師)のうちの、学識技能が優長な人を任用すること。
按摩・咒禁の博士もまたこれに準じること。

二.医生等取薬部及世習条
医生(いしょう)・按摩生(あんまのしょう)・咒禁生(じゅごんのしょう)・薬園生(やくお
んのしょう)[いずれも典薬寮に属す、各分野の学生]は、まず薬部(くすりべ)[いわゆる部べで
はなく、薬師(くすし)の姓(かばね)を持つ諸氏が世襲している医術職]、及び、世習(せしゅ
う)[3代以上にわたって医業を受け継いでいる家]を任用すること。次に庶人の、年齢13歳以
上16歳以下で聡明な人を任用すること。 

十四.按摩咒禁生学習条
按摩生は、按摩、傷折(しょうせつ)[打ち身・捻挫・骨折]の治療法、及び、刺縛しばく[針で悪
血を瀉出したり、骨折過所を固定したりする]の技術を学ぶこと。咒禁生は、咒禁(まじない)し
て邪気を払い病災を防ぐ方術を学ぶこと。みな3年を期限として成業させること。成業したなら
ば、いずれも太政官に申送すること。 


宮内省・典薬療
宮内省配下の小寮で、医薬を担当し、和名で『くすりのつかさ』とも言います。

管轄(被官)
右弁官局 → 宮内省 → ▲ 木工寮
               △ 大炊寮 → 供御院
               △ 主殿寮
               △ 典薬寮
               △ 掃部寮

典薬寮職員構成
   頭(1名)→ 助→ 大允→ 大属→ 史生→ 寮掌→ 使部
           権助 少允  少属

                  乳牛院別当→ 乳師預
                  侍医→ 医師
                  権侍医

                  医博士→ 医得業生
                  女医博士
                  針博士
                  針師
                  按摩博士
                  按摩師
                  呪禁博士
                  呪禁師
                  薬園師

その他の医者
「針師」「按摩師」「呪禁じゅごん(悪気を払う「まじない」、呪文)師」などがあります。 
※ 典薬寮以外でも、六衛府や木工寮・鋳銭司といった寮・司には「医師」がおり、「国医師」
(詳細は不明)という職もあります。 

博士
「医博士」「女医にょい[婦人科の意]博士」「針博士」「按摩博士」「呪禁博士」などがあり、
学生(がくしょう)の教習を担当する技術教育職です。
医博士は職田4町、針博士は職田3町を給付されます。


上引用のように、飛鳥・奈良時代、按摩は中国より輸入された当時最新の国家認定の科学だったのでしょう。
次に引用するのは、江戸時代に刊行された「按腹図解」の序文です。

百濟國より五經博士、暦博士、醫道博士、採藥師等を始めて召給ひしより、樛木(つかやき)の
彌繼嗣(いやつきし)に朝廷(みかど)よりも人を唐土(もろこし)に遣はし、凡百(いろいろ)
の技藝(わざ)を學習(まなは)させたまふの故由(よし)は代々の史(ふみ)に見へたり。

我醫道(いし)も亦唐土より傳へしにこそ、されば導引按※(どういんあんきやう)の術も同じ
く傳来(つたひき)しにや有(あら)ん。

※導引按蹻

ぼく自身、歴史に疎いので下に年表を入れてみます。

日本中国西暦出来事
縄文黄河BC11世紀〜縄文文化
弥生殷周秦BC8世紀〜弥生文化
大和57倭の奴の国王が後漢に使いを送り、光武帝から金印を受ける。
239邪馬台国の女王卑弥呼、魏に使いをおくる。
三国350大和朝廷の全国統一。
391倭軍、朝鮮に出兵、百済・新羅を破る。
南北朝513百済より五経博士来朝。
538仏教伝来。
593聖徳太子、摂政となる。
603冠位十二階制定。
604憲法十七条制定。
607遣隋使小野妹子派遣。
飛鳥645大化の改新。
663白村江の戦、新羅・唐に敗北。
701大宝律令完成。
710平城京遷都。
712古事記。
713風土記。
718養老律令制定。
720日本書紀。

仏教の伝来は正式には538年、百済の聖明王が朝廷に釈迦像と経典を献上した時とされますが、実質的にはそれ以前より主に朝鮮半島・百済からの渡来人・帰化人が仏教を伝えたと考えられています。
ですので、当時日本に渡った渡来人、帰化人が持ち込んだものは仏教のみに限らず当時最新のテクノロジーも含まれ、当然按摩やその他医薬もまた入り込んでいたと考えるのが自然でしょう。


我が国固有の手技療法

ところで、按摩が輸入される以前、我が国に固有の手技療法はなかったのでしょうか。
残念ながら正確なところは何も分かっていません。
以下は明治20年に復刻された「按腹図解」の欄外に記されていた「少彦名命」と題された文章です。

古歌に
 すくなひこなのにが手にて
 なでればおちるどくのむし
 おせばなくなる病のちしほ
 おりよさがれよいではやく

我國最古の醫術の神様は少名彦命である。
これが手を以つて病氣を治す法の起源のやうに思はれる。

撫で推す手技療法を現しているようなのですが、いつ頃からどこに伝わる古歌なのか出典は不明です。
また、「日本古代の薬按摩祝由」でも引用している『新編療術極秘録』(川崎生泉/著)中には、記紀神話中の神の名がそのまま手技療法を表していると説いています。

大山祇の神の御子に足名稚手名稚の神があつた。
その義は足なで手なでの意であると云ふ。
普通に解釈せられるやうに。
慈愛のため、手をなで足をなでの意味のものでなく、前記の所謂簡単なる指圧法を行ひしものの
如く思はれる。

ここに出てくる足名稚、手名稚の両神は、八岐大蛇で有名な後に須佐之男命の妻となる櫛名田比売の両親。
一般的には足名稚(アシナヅチ)、手名稚(テナヅチ)と読みますが、稀にアシナデ、テナデと読むこともあるようです。
また上記は古事記での表記ですが、日本書紀では脚摩乳(アシナツチ)、手摩乳(テナツチ)と記され、「一書に曰く」として脚摩(アシナツ)、手摩(テナツ)とも書かれています。
確かに手を撫で足を撫でる手技療法を思わせる名前ではあります。

按摩渡来以前、我が国に固有の手技療法があったのか、確認することは出来ません。
先の「すくなひこなの古歌」がいつ頃のものか分かりませんし、また記紀に出てくる足名稚、手名稚の両神がアシナデ、テナデを表すものなのかも分かりません。
ですが、それでもそこには「なでる」という共通する特徴が表れています。
これは江戸時代の古法按摩書でも確認できるのですが、中国の按摩・推拿と比べて、日本の按摩の特徴は「なでる」「さする」手技が多いという点にあります。
「導引口訣鈔」にいたっては、手技のほとんどが「なでる」「さする」といっても過言ではないです。

大宝律令にはじめて登場する按摩という言葉ですが、その後江戸時代になるまでその言葉は見られなくなります。
「なでる」手技は按摩渡来以前から存在していたのか、または大宝律令以後江戸時代に至る間に日本的「なでる」按摩として自然熟成していったのか、それは不明です。


日本における按摩の歴史2

hisanoyu dharmaya secondlife

トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS