これまでは、江戸時代までの按摩に関して調べてみましたが、ここからは明治時代以降の按摩を調べてみたいと思います。
もちろん、他に江戸時代以前の按摩に関して何か出て来たら順次追加していくつもりでいます。
と、実ははじめ明治時代以降までは想定していなかったのですが、国会図書館近代デジタルライブラリーの明治時代書籍データが増加してきており、面白い資料があったので追加することにしたのです。
260年も続いた江戸時代が開国、近代化しはじめる明治時代ではありますが、おそらくその風景のあちこちには江戸の名残が色濃く残っていたであろうと思われ、また、人に至っては外観や制度が変わったとしてもその中身はそう簡単に変わるものではないであろうし。
明治時代も興味津々です。
最初に紹介するのは、明治36年に出版された横浜新報社による「横浜繁昌記」です。
「横浜繁昌記」横浜新報社著作部編 明治36年(1903) †
;其四 ;按摩 †
;始めて;横濱に;來た;人の;耳目に;著ゞしく;觸(ふ)れるのは;按摩(あんま)の;多(おほ)い;&ruby(こと){事であろう。
;港内に;汽笛の喧しい真晝中から;野毛山の;鐘が;物凄く;陰に;響いて、;所謂;大路小路に;霜凍てる;真夜中まで、三;尺の;杖に縋がつて『;按摩上下;何百;文』の聲音を;哀れにさうに;張り;上げて、黒白も;分からぬ;浮世の;辻に;立ち;止まつては;物案じ;顔に;片手づゝ懐中に;入れて;温めて;居る;姿などは;何かの畫にもあるやうで、;横町の路次から;飛んで;出た;犬さへも;何だか;吠えるに懶いと;云ふ;見得である。
◎組合の組織 †
;横濱の;按摩には;組合に;属したものと;加入して;居ないものとの二;種がある。
;鍼治;揉按業;組合;事務所は;今ま;浪花町にあって;其;内部は四;部に區劃されてある。
;即ち;関内を;第一;部、;野毛町から;戸部町;方面を;第二;部、;伊勢佐木町;界隈から;橋を;越えて;萬代町;以南;松影町;方面を;第三;部、;元町石川;乃至は;山手、;本牧;方面を;第四;部としてある。
そして;此の;組合に;属する;按摩は三百七八十;名;内外で、;本部では;醫師;淺水進太郎氏を;推して;總長とし;會計長、;檢査役;協議員等をも;置き、;各部毎に;正副の;組長もある。
;尚;此の;外に;鈴本稲之輔、;黒部與八の;兩氏を;擧げて;名譽員として;兎も;角も一の;團体を;組織して、;組合の;經費は;組合員一;名から一ヶ;月五;錢宛を;徴収して;之れに;充てゝ;居るのであるが;全体の;按摩は;組合に;加入して;居ないものから;神奈川方面に;居るものをも;合したらば;實際は千;人の;上を;超えるであらう。
併し一;昨年以來;幾分か;減つた;様に;思はれるのも一つは;不景氣のさし;響いた;爲めでゝもあらう。
つゞく