其の一 其の二 其の三


按摩科

[皇都午睡 三編上]江戸にては、(中略)按摩をもみ療治

[老の教]導引はあしからず、心に任すべし、夜など寝たし、朝など寒きをもつとめて、あんまをせんより、暖にして、安寝するにしくはなし、

[善庵随筆 一]導引することを、熊教と云ことは、荘子に、
吹吼呼吸、吐故納新、熊教鳥申、壽而已矣此導引之士、養形之人、彭祖壽考者之所好也
とありて、淮南子に
如鴻之好聲熊之好教
といへる如く、熊は、経を好なるものゆへ、名けしにて、後漢書華陀傳に
古之仙者、爲導引之事、熊経鴟顧、引挽腰體動諸関節、以求難老注、熊経、若熊之攀枝自懸也
とは、誰もよく知れることなれども、雲笈七籖に、
漢時有道士君倩者、爲導引之術、作猿経鵄顧、引挽腰體、動諸関節、以求難老
と、
猿経の字奇ならずや、

[三国志 魏二十九方技]華陀、字玄化、(中略)精方薬、其療疾、合湯不過數種、(中略)廣陵呉普、彭城樊阿、皆従佗學、普依準佗治、多所全濟、佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極彌、動揺則穀氣得消、血脈流通、病不得生、譬猶戸樞不朽是也、是以、古之僊者、爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸関節、以求難老、吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猿、五曰鳥、亦以除疾、並利蹄足、以當導引體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體軽便、腹中欲食、普施行之、年九十除、耳目聡明、歯牙完堅、

[備急千金要方 二十七養性]按摩法第四(法二首)
天竺國按摩、此是婆羅門法、
両手相捉紐捩、如洗手法    両手淺相又翻覆向胸
両手相捉共按脛左右同     両手相重按髀、徐々捩身、左右同、
以手如挽五石力弓、左右同   作拳向前築、左右同、
如拓石法、左右同、      作拳却頓、此是開胸、左右同、
大座斜身偏欹如排山、左右同、 両手抱頭宛轉髀上、此是抽脇、
兩手據地、縮身曲脊向上三擧、  以手反捶背上左右同、
大坐伸兩脚即以一脚向前虚掣、左右同、  爾手拒地廻顧、此是虎視法、左右同、
立地反拗身三擧  兩手急相叉、以脚踏手中左右同、
起立以脚前後虚踏、左右同、
大坐伸兩脚用當相手勾所申脚著膝中以手按之、左右同、
 右十八勢、但是老人日別能依此、三偏者、一月後百病除行、及奔馬補益延年、能食眼明輕健不復疲乏、

〔按腹圖解 序〕我醫道も、又唐土より傳へしにこそ、しかれば導引按矯の術も、同じく傳來しにや有ん、又は皇國にて發明せし人有しにもやあらん、三栗の中昔の頃、其術の世に行れし證は、榮花の物語に、腹とりの女といふこと見えたり、されど此物語も、七百歳餘、往古の事なれぱ、其技は、伊香保の沼のいかなりしや知るべからず、又彼邦にも、最上代には、専ら行れしよしは、醫籍の親と崇る、内経といふ書に見えたり、されど彼處にも、いつしか廢れしとしられて、後世の醫籍には、絶て見えず、然るに我大御國よ、王匣二百年よりこなた、誠に安國の安穏に、科戸の風の荒振、綿津見の波の騒動も絶果て、治たまひ福給へる御世の御陰に隠れて、天下の蒼生、尊も卑も、甚静なる世を樂しむ、此御時を得て、萬の發たるが興ざるもなく、千々の絶たるが繼れぬも將あらざめる程に、我醫道も又しかなり、是に因て、其道に精しき書も、技に委しき人も、其名聞ゆる野邊の蔓、林の木葉と世に乏しからず、誠に此道全備と謂べし、さるを橿實の濁此導引按矯の術のみ、古衣うち捨て眞木柱誰取立る人も無りしに、葦垣の近き年頃内日指都の醫士、香河氏、賀川氏の二人、世に勝れて、我醫道を、石上古きに復せり、其醫論の餘波、此術に及せり、故世人、此二子を以て、此術再興祖と思へり、されど其著書をみれば、香河氏は療病の末助とし、賀川氏は養妊之本務とす、その旨意甚齟齬る而ならず、共に岩淵の深理を極得しにあらねば、其末流を汲徒をや、又空蝉の世に此技を業とする人、多くは盲人、寡婦、或は流落家、貧學醫生輩此技を以て、糊口の資とするに過ず、是に因て、此術をするを倭文手纒甚卑しめり、さる故、識見人は、此術をしも、恥且悪む事にはなりにたり、

按摩治療

〔曲亭漫筆 下〕鬼貫が傳同道引
鬼貫姓は、上島氏、俗稱は與総右衛門、槿花翁と號す、攝州伊丹の人なり、後大坂に家して、姓を平泉と更む、はじめ俳諧を維舟及宗因に學び、後一家をなす、鬼貫獨言、同句選等世に行はる、元文三年八月二日、七十八歳にして没す、伊丹墨染寺に墓あり、浪花客中、或人の話に、鬼貫、中ごろは行れざりしにや、ひところ和州郡山侯の足輕などつとめ、その後大坂にすみて、小兒の道引などして、かすかに世をわたりぬ、今なほ大坂に鬼貫道引とて、小兒の療治に、足より上へも上る按摩の法のこれり、

〔甲子夜話 六十二〕林曰、或人ノ談話ニ、故豆州(松平信明閣老)臨終前ノ疾、腫氣ニテ、不通ニナリシトキ、醫案腹シテ、小水ヲ通ズル秘術ヲ爲ス者アリト聞テ、其者ヲ呼デ案腹セシムレバ、果シテ通利アリ、ソノ翌日ニ、醫至リテ、又案ズルトキ、豆州云フ、今度、我ガ疾ハ迚モ不治ト覺ヘタリ、モハヤ頻ニ案スルニ及ブマジ、併シコノ法ハ、平素未ダ知ラザル所ノ奇術ナリ、諸人ヲ救フベキ大切ノ術ナレバ、秘セズシテ、ソノ傳ヲ廣クスベシト、諄々曉諭セリトゾ、眞ニ老職得體ノ言ト謂ベシ、折ニ觸レ、何カノ事ドモ、思出デ丶、痛惜ニ堪ザル人ナリケり、

按摩科雑載

〔守貞漫稿 五 生業〕按摩
諸國盲人業乏スル者多シ、或ハ盲目ニ非ルモノアリ、或ハ得意ノ招ニ應テ行クノミモアリ、或路上呼巡リテ應需ズルアリ、蓋三都諸國トモニ、振リ按摩ハ小笛ヲ吹ヲ標トス、振ハ得意ニ往々路上ヲ巡リ、何家ニテモ需ニ應ズルヲ、諸賈亦准之テ振賣卜云ニ同ジ又京坂フリアンマハ夜陰ノミ巡リ、江戸ハ晝夜モ巡ル、又江戸ニハ笛ヲ用ヒズ、詞ニアンマハリノ療治ト呼巡モアリ、小兒ノ按摩ハ、或ハ上下揉テ二十四文ナンド呼ブモアリ、江戸ハ普通上下揉四十八文也、又店ヲ開キテ客ヲ待チ、市街ヲ巡ラズ、足力ト號テ、手足ヲ以テ揉者ハ、上下揉百文也、京坂ニハ此足力按摩無之、又京坂從來普通上下揉者ハ價ヲ半ニス、因云、盲人ハ鍼治ヲ兼ル、足カ等ハ灸治ヲ兼ル、又別ニ三都トモ灸スエ所ト云者アリ、大略百灸以上千灸以上ヲ一庸トス、銭廿四文許也,

〔嬉遊笑覧 六上 音曲〕按摩とり笛をふく事、太平樂府に河東夜行、按摩痃癖吹笳去、温飩蕎麥焚火行、(是明和六の撰なり、この頃めづらしきことどもいふにや))江戸は、其後、天明七年狂詩諺解に、按摩の笛を吹は、近ごろの事なりといへり、

〔執苑日渉 一〕醫方之設、蓋起于地神氏之前、(中略)在此方風科、仍大方脈之所兼、祝由是巫覡之爲巳、別有按摩(註略)灸師(註略)及草家(中略)即今過路按摩或揺鈴或吹笛之類、類書纂要有虎とう、報若知即鈴醫之所持也、


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