第一章 太古の醫學

有史以前の醫學


醫學の歴史は人類の原始史と、その紀元を同ふするを以て、歴史的醫學は、有史以前の時代に遡りて之を攻究せざるべからず。
蓋し我等の祖先が動物の状態を離れて、始めて自己の精神的能力を自覺せしより、今日に至るまでは、年代左ほど悠久ならず。
有史以前、原始の人類が、其生活の状態、野獣と些も異なることなく、居處を定めず、社會を成さず、食物を求めんがために東西に奔走せし時代は、其間幾千年といふことを知らず。
此時に方りて、身體を勞働すること其度に過ぎ、又は野獣若くは他の仇敵と戰ふがために、身體を傷害せること稀ならざるべく、又食物の缺乏及び粗悪と天候の感作とのために身體の違和を醸せしことも定めて多かるべし。
左れば人類が自然界に接觸して當然、第一に招くべき外科的損傷に併せて、加答兒、炎症、及び僂麻質斯(リュウマチス)等諸病の既に當時に存せしことは、いまより之を推知するに難からず。

我日本國の有史以前の時代に關しては、近時殊に人類學者の研究によりて知り得たる處少なからず、當時の住民は、或は「コロポツクル」と稱する人種なりとし、或は「アイノ」人種なりとし、議論未だ歸着せずと雖も、該住民の遺跡遺物等に關する研究は稍々精微の域に達し´◆貝塚人種に齲齒(ウシ、クシ:虫歯)の存しせることを發見し、其下腿骨に梅毒性變化の存在せることを認めたりとの報告ありぁ
其の果して梅毒なるや否やは遽かに之を斷定すべからずと雖も、而も骨質の病理的變化たることは之を確認すべし。
西洋諸家の諸説に依るに、有史以前の時代の人の骨につきて、同しく、骨折、關節炎、及び骨質の病理的變化等を認め得たりと云ふァ
爾他の病症につきては固より形跡の徴すべきもの無しと雖も、人類が外圍の自然界に接觸するによりて當然招致すべき外科的損傷を以て第一の疾患とし、次ぐに娩産の障壁を以てし、又嗣ぐぐに身體内臓の加答兒、炎症等を以てせることは、疑を容るべからざるなり。
而して當時の人類が有せる所の治療的本能は、例之熱あれば冷水に浸し、皮膚の創傷は唾にて嘗め、僂麻質斯性の苦痛あるときは其體を日光に暴露し、胃不和あれば草を嚙みて嘔吐を起す等、これを動物の治療的本能に比して一歩も優さる所なかりしならん。
此時に方りて、醫士はすはち同時に藥品にして、病者自己は實に醫士と藥品とを兼ねたるなり。


醫學上の神祇時代


我日本國の歴史は天之御中主神より鸕鷀草葺不合尊(うかやふきあはせずのみこと)に至るまで數世の間は神と人と別あることなし、歴史家之を神代稱す。
其年代は今より之を詳にすることを得ず。
降りて人皇の代に至りても、神武天皇より九世九代を經て開化天皇に至るまで、大凡四五百年の間は、尚ほ神人無別の世なり。
乃ち國初より此期に至るまでを醫學上の神祇時代とす。
國史に、當時の事情を記載する所を案ずるに、神話と歴史と混淆錯雑として、事實の眞相を窺ふに苦しむ所ありと雖も、而かも其の大要を見るに足るものありΝА
天池初發の時、高天原に神あり、天之御中主といふ、次に高皇産靈神、次に神皇産靈神あり、この三神は造化の主神なり。
天地の中に神あり、天之常立神といふ、次に國之常立神あり、以下伊邪那岐、伊邪那美の兩神に至るまで數神あり、之を神世七世と名づく。
伊邪那岐、伊邪那美の兩神は相携へて磤馭慮嶋(おのころしま)に下り、大八洲國を生成せりと傳ふ。
蓋し此等の諸神は海外より斯土に來たれるものにして、高天原とは其本土のことを指せるものならん。
此時に方りて、斯土には巳に久しく土人の住居せるものあり、新に外邦より来れる人民も處々に住居して、各々其地を耕し、既に稻穀種ふることを知れり。
伊邪那岐、伊邪那美兩神の子、天照太神の治世の頃に至りては、既に木造の宮殿あり、布帛又は絹絁の衣服あり、銅鐡若くは石屬を用ひて造れる刀劍あり、弓矢あり、紡織の技あり、漁獲の法も行はれ、舟車の具も略ほ(ほぼ)備はり、飮食の具あり、烹炙の法あり、食糧として鳥獸魚介の肉より穀菜に至るまでを用い、國民は既に生活の道を圖(はか)り、歌謳ありて後世文藝の始をなせり。
すなはち其文化の程度は所謂石時代を過ぎて既に金属時代に入り、而して其黄銅時代を越て鐵時代に移りし後にして、人類の原始を距(へだて)ること既に甚だ遠し。
蓋し原始の人類にありては創傷及び疾病あるも、之を治療するは一にその本能に依り、叡智に基つきて之を工夫することを知らず、人智更に進みて、事物を觀察し、其原因を尋究するに至りては、疾病の發生にも一定の因由を附し、これを治療するにも方則を設くるを見る。
これ原始醫學の歴史上、各國その轍同しくする所なり。
我が神世七代の頃は、文化の程度、已にこの期に達せることは上にも云へるが如くにして、其治病の術が動物的治療本能以上に進み居りしことは之を推想する事を得べし。
伊邪那岐神、火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)を生まんとする時に『悶熱懊惱、因りて吐を爲し、遂に焦かれて死す』と云ふА△海贊蕕房隻造了棒劼妨えたる始なり。
而して大穴牟遅神の火傷せしとき、神皇産靈神これに治療を施し(後に出つ)、伊邪那岐神が桃に詔して『葦原中國のあらゆる顯見青草(うつしきあおひとくさ)の苦鵑砲ちて苦しむとき助けてよ』と云ひしと傳ふるが如き(後に出つ)、雫碎瑣談と雖も、亦以て神世七代の頃に已に一定の醫方あり、藥品あり、また醫士ありて治病を司とりしことを證するに足るべし。
然れとも國史上に其事績の明記せられたるは稍々、後の代にありて大穴牟遅神、少名毘古那神の二柱の神に始まる。


醫人の鼻祖


天照太神の弟に素戔嗚尊あり。
素戔嗚尊六世の孫を大穴牟遅神といふ、最も武略あり、高皇産靈神の子、少名毘古那神と力を戮せて天下を經営し、また蒼生(ひとあおくさ)のために病を療するの方を定め、鳥獸昆蟲の災異を攘(はら)はんが爲に禁厭の法を定めたりと云うЛ─
故に歴史家或はこの兩神を以て我邦醫藥の鼻祖なりとせり。


大穴牟遅神、一名を大國主神、大國魂神、大物主神といふ、天下を伏せて多く?土を拓くの?なり、また顯國玉神、國作大神と云ふは其國土を經営せし功績を稱するなり一に葦原色計男神(あしはらのしこをのかみ)といふは其勇猛を歎美し、八千矛神といふは其武威を稱揚するなり。
大穴牟遅は一に大巳貴(日本書紀.古語拾遺)大汝(万葉集)大穴道(万葉集)於保奈牟知(万葉集)大奈牟智神(姓氏録)大名持(三代實録.延喜式)と書す「オホムナチ」と讀むべし。
一説に云ふ、素戔嗚尊、櫛名田比賈に婚して大穴牟遅命を生むと。
本居宣長曰く『書記本書に須佐之男命、櫛名田比賣に御合(みあひ)座て生兒大己貴命とあり、此は凡て上代には遠祖までをかけて、みな意(?)夜と云ひ、子孫末々までをかけてみな古と云へれば、此も須佐之男の御子孫と云ふ意にて御子と申傳へつるより混(まぎれ)し傳なるべし』と日本書紀にも一書には『嶋篠五世孫、即大國主神』『素戔嗚尊所生兒之六世孫、是曰大己貴命』とあり、左れば大穴牟遅神を以て素戔嗚尊六世の孫とすを正しとすべし。

大穴牟遅神を平げて出雲國御大之御前に居たり且飮食せんとす、この時海上忽ち人の聲あり、乃ち重て之を求むるに見ゆる所なし、頃刻にして一箇の小男あり、白藪(かがみ)の皮を以て舟を作り鷦鷯羽(ささぎのは)を以て衣となし、湖水に随ひて浮び到る、大穴牟遅神即ち取て掌中に置て之を翫(もてあそ)ひしに、則ち跳りてその頬を齧む、乃ち其物色を怪しみ之れを天神に白ふす、高皇産霊神(一説に神皇産霊神)之を聞て曰く、『吾が産める兒すべて一千五百座あり、其中に一兒最悪にして教養に従はず、指間より漏れ落ちたり、必ず彼ならん、宜しく愛養すべし』とこれ即ち少名毘古那神なり、これより大穴牟遅神、少名毘古那神と相併(なら)びて國土を經営せしが、後に至りて少名毘古那神は常世國に渡れりと云ふ、常夜とは海外僚遠の義なり、少名毘古那神、一に少彦名と書す、形體の短小なるを指せる稱呼なり、毘の字濁音なり、「スクナビコナ」と讀むべし。

平田篤胤の説に依れは、世に大黒、恵比須の像とい云ふものありて戸々に祭れるを見る、この二柱の神は大穴牟遅、少名毘古那神に外ならざるべし、大穴牟遅の一名を大國主神と云ふにより、大國主の大國を字音にて「ダイコク」と讀みしものか、これを大黒と書くは佛書に摩訶伽羅と云へる語を??したるにて、摩訶伽羅天神は勇烈なる軍神なりと云ふによりて之を大穴牟遅神に附會せるならん、恵比須と云ふは蛭子神、事代主神なりとの説あれども、この内には少名毘古那神をも混せるならん、「エビス」と云ふは何に依らず事物の常に違えることを指すものにて、少名毘古那神が身体の殊に矮小なりしにより、之を恵比須と唱えしものか。



然れとも大穴牟遅神、少名毘古那神の醫方に關しての事績は日本書紀に『夫大巳貴命譽少彦名命戮力一心、經營天下、復爲顯見蒼生及畜産、則定其療病方、又為攘鳥獸昆蟲之灾異、則定其禁厭之法、是以百姓至今咸蒙恩頼』とあるの他、古事記に大穴牟遅神が稻羽の白兎の負傷せるを療治せること(後に出つ)を傳ふるのみ。
故に大穴牟遅、少名毘古那の兩神が定めたる醫方の如何なるやは固より之を詳にするに由なし、思ふにこの兩神は當時已に久しく世に行はれたる療病の方を集めて以て醫方の則を立てたるものならん、之を希臘(ギリシャ)の醫術の神たるアスクレピオス(Asklepios)に比すべし。
アスクレピオスの事跡は實に神話と歴史との教会に位すれとも、これ紀元前十三世紀に世にありたる歴史上の人にして神にあらず、其醫方に精しきの故を以て死後に及びて神として祭られたるものなり。
我大穴牟遅神、少名毘古那神も同しく歴史上の人にして、少名毘古那神は外國より來りし人、大穴牟遅神は外國より來れる素戔嗚尊と斯邦土人との間に生まれたる種族のものにして、共に當時の名醫なりしならん、祖先の功徳を崇拝して神として神として之を祭つることは我邦太古よりの習俗なれは、この兩神も後に至りて神として崇められ、又醫方の鼻祖と仰がれたるなり、而かも眞に醫方の鼻祖にはあらず、國史に明記せる所に據りて之を我邦第一の醫人とすべきのみ。


神祇時代の醫學


今日吾人が醫學と名づくるものは上古及び中古の時代に用ひられたる同一の文字とは其意義を異にし、輓近の醫學は人類の成立、構造、化學、動作、及び其の動物界に於ける地位等につきて精査研究し、又進みて疾病の本態、原因、伴に其の轉節を討求し、其の極あらゆる介補品を用ひて之を治療する所の方則を立つる所の學科なり。
されば假に醫學を以て、これを1個の家屋に比すれば、治療法は其の屋蓋に匹當するものにして、治療を講するには病理を究めさるべからず、病理を究むるには先ず解剖學及び生理學の知識を要すること固より論を俟たず。
然れども医学の歴史は、全然反對顯象を吾人に示し、今日吾人が医学の終節なりとする所の治療法は却て卒先して我が医学の發端をなしたり。
蓋し人類文化の歴史を案ずるに、あらゆる學問は其の初より知識を渇望して人の之を興せしものにあらず、全く自然の必需に應して始めて其の基本を作りしものにして、有史以前の時代にして人の未だ疾病の何物たるやを知らず、又藥物の何れに存するやを曉(さと)らざるの前に方りても、已に早く病苦を輕快すべき焦眉の要求あり、医学の發端たる治療法はこの自然の要求に應して起れるなり。
我神祇時代にありては、人智已に進みて、其の治療法は既に動物的治療本能の範圍を脱し、已に醫方あり、醫志士ありしこと前段に述べたる如くなれば、たとひ原始的の治療法と雖も、尚ほ且つ疾病の知識を要し、依りて病理學の萌芽はここに顯はれたり。
解剖學及び生理學につきては、僅に身體の外形に一定の名目を附し、靈魂ありて肉体を支配することを信せるに過きず。
實に大部は治療法にて、これに病理學の初歩を加へ、、更に解剖學及び生理學の萌芽を交へたるもの、これ我が神祇時代に於ける醫學の全體なり。


神祇時代の病理學


太古混沌の時代にありては、社會萬物の現象は悉くこれ神靈の所爲に出ずるものなりと信し、従て疾病の如きも之を神靈の所爲に歸せしことは世界中何れの人種の歴史にありても皆然りとす。
我神祇時代にありても『人はさらなり、天も地も、みな神の靈によりて成れるものなれば、天地の間なる吉事も凶事も、すべて神の意なり現人(うつしひと)の顯に行ふ事(顯露之事-あらはこ-)の外に幽事(神事-かみこと-)あり、顯はには目にも見えず、誰爲すとともなく、神の爲し給ふ業なり』と信ぜるが故に疾病も神の心に由りて起るものなりと做(な)したり、古事記に天照太神が素戔嗚尊の無状を怒りて天石屋戸に隱れれし時の事を記するの條に曰く『於是、天照太神見畏、閇天石屋戸而刺許母理(さしこもり)座也、爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而常夜徃、於是萬神之聲者狭蠅那須(さばえなす)皆滿、萬妖(わざわひ)悉發』、同書水垣宮の段に曰く『此天皇之御代、役病多起、人民死、爲盡、爾天皇愁歎而、座神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰、是者我之御心、故以て意富多多泥古(おおたねこ)而、令祭我御前者、神氣不起、國安平』、又玉垣宮段に曰く『布斗摩邇邇占相(ふとまににうらへて)而求何神之心、邇崇出雲太神之御心也』、日本書紀巻九、氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の條に曰く『時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國、云々』『既而神有誨曰、和魂服玉身而守壽命、荒魂爲矢鋒而導師船、云々』、これ皆疾病が神の意によりて起ることを云ふなり。

疾病は神の意に因る、何神にても此方より犯すことあれば、祟りて病まするなり、故に神氣(かみのけ)の稱あり、神の祟りと云ふの意義なり、即ちこの場合にありては『疾病は神の罰なり』と信ぜるなり、後の世に物氣(もののけ)の稱あるは、死人にまれ、又生人にまれ、人の祟を爲すを云ふものなれども、これも祟をなすは神なれば、神氣と同じ意義なて古言なりと云ふ説あり。
されば當時の人は生きたる神(又は人)の靈のみならず、死したる人の靈も亦祟をなして病を起こさしむるものなりと思へるなり。

神を犯して病を得るの他に、煩神、八十禍津日神、大禍津日神等の特殊なる神(荒ぶる神)ありて其神の暴戻より病を生ずることあり。
この場合にありては『疾病は災害なり』との意義を有す。
日本書紀神代上巻に『次生素戔嗚尊、此神有勇悍以安忍、且常以哭泣爲行、故令國内人民多以夭折』『一書曰、次生素戔嗚尊、此神性惡、常好哭恚、國民多天、青山爲枯、』又同書巻三神日本盤余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の條に『天皇獨與皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)、帥軍而進、至熊野荒坂津、時神吐毒氣人物咸瘁(おえぬ)』とあるにて之を證すべし。

此の如く、疾病の發生を以て之を神の所爲に歸するは、希臘(ギリシャ)の太古醫學史に、疾は魔(Dilmonen)の所爲にして、魔は元とこれ神に出ず、これに善と惡とありて、一は病を起し、一は病を治すと云ふに類し。
支那の古書に、疫神、匍粥⊆抖粥≡蟲甘の説(老子に曰く、以道蒞天下、其鬼不神、非其鬼不神、其神不傷人と)あるに似たり。

太古醫學の研究には、歴史上の事實に依るの外、猶ほこれを野蠻人種の間に行はるる醫術に對照し、比較研究をなすことを裨益ありとす。
試に現在野蠻人種が疾病及び其發生の因由を如何に解釋するやを見るに、病の多くは惡魔なりとし、又之を死したる人の靈又は動物の靈なりとし、神の罰、神の意、又は神の贈物なりと云ひ、又は一個の動物、異物、毒物、身體一部の消失となす、而して之を發するは諸種の惡魔、動物、異物、惡風、妖術等の所爲に因るものとす。
これ疾病の多般にして、其因由の一様ならざるより、單に神の意、若くは罰を以て、悉く之を説明すべからざるを以てなり押
(現時北海道の一部に存する所の「アイノ」人種は、神祇時代の頃、本土に住居せる蠻民にして、文字を有せず、故にこの人種が口碑に傳ふる所の疾病に關する説話は、依りて以て我太古の醫學を攻究するの資料に供すべし魁法

我神祇時代に於ける病理學も亦此の如くにして、疾病の因由は神の靈以外に、尚ほ田の原因に出ずるものあるを知れり。
即ち疾病は此の如く、神の祟、人の祟に因りて起るの他、人の身に穢氣惡毒あるによりても病のこれに乗じて起ることあり、伊邪那岐神が黄泉國にて汚穢に觸して煩神、禍津日神、素戔嗚神等の惡神を産みしが如き、これなり。
人の身に不祥の行爲ありても病の起ることあり、伊邪那岐神、伊邪那美神が天柱を廻ぐるとき、陰神先ず唱えしこと、陰陽の理に違へりとて、生れたる神(蛭兒神)が三歳に至るも脚尚ほ立たざりしと云ふが如きこれなり。
これ等は人の身に穢氣、惡毒あり、若くは其行爲に正しからざることあれば、獨り其身の病に惱めるのみならずして、其毒を子孫に傳ふるものなることを説く。
これ後の世に所謂胎毒にして、疾病の先天性原因を認めたるなり。

支那の後漢書(東夷列伝)に我邦の事を記するの條に『行来度海、令一人不櫛不沐不食肉、不近婦人、名曰持衰、云々、如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之』とあり。
魏志(倭人傳)杜佑通典(東夷上)等の諸書にも同様の記事あり。
自衰とは肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くなるを云ふものにして、其行を修むることの謹嚴ならざるより疾病を起すことを説く。
これも亦我が神祇時代に行はれたる見解なるべし。

神を犯せるにもあらず、「荒ぶる神」の所爲にもあらず、又その身に穢氣惡毒あるにもあらず、偶然の事故のために、自然に疾病を生ずることあり、伊邪那美神が火神を産みしとき、悶熱懊悩を生ずることあり、素戔嗚尊が宮殿の下に陰かに糞を入れ置けるに天照太神これを知らずして糞上に座し、よりて擧體不平と云ふが如きこれなりА
この場合にありては毒物に中あたりて疾病の起ることあるを認めたるなり。


神祇時代の醫術


疾病を以て神の意なりとし、又は之を邪神の所爲に歸し、若くはその身に穢氣、惡毒あるに因るとするも、疾病その物は、一個の物體として、この異物が外界より身體内に入るものなりと信ぜるなり。
故に之を療するの方法も第一に
祈禱 にして、病あれば乃ち占合して(鹿の肩骨に刻し、樺皮を以て之を焼き、其粉末の状を見て之を判するなり)神海魘弔阿鮖櫃箸掘歌舞して祈禱し、以て神靈を調和せり。
禁厭 疾病は又一の災害なりと信じて、禁厭の法も行われたり。

古事記神代上巻に曰く『伊邪那岐命、云々、爾拔所御佩之十拳劍而、於後手布伎都都、逃來、猶追、到黄泉比良坂之坂本時、取在其坂本桃子三個、持撃者、悉逃返也、爾伊邪那岐命、告桃子、汝如助吾、於葦原中國所有宇都志伎青人草之、落苦瀬而、患惚時、可助告、賜名號意富加牟豆美命』これ桃を用ひて鬼を避くるの縁なり。

延喜式(鎮火祭祝詞)に曰く『神伊佐奈伎、伊佐奈美及命、妹背二柱嫁繼給氐(とつきたまひて)、云々、麻奈弟子(まなおとこ)爾、火結神(ほむすひのかみ)生給氐、美保止被焼氐(みほとやかえて)、石隱氐、云々、與美津枚坂(よみつひらさか)爾至座氐所思食久(おもほさく)、吾名妋命(あかなせのみこと)能所知食、上津國(うへつくに)爾、心惡子乎、生置氐、來奴止、宣氐、返座氐、更生子(みこをうみます)、水神、匏川菜(ひさこかはな)、埴山(はにやま)姫、四種物乎生給氐、此能心惡子乃心荒比曾波、水神、匏、埴山姫、川菜乎持氐、鎭奉禮止、事蓋腟觧戞覆海箸しへさとしたまひき)』これ水、匏川菜、埴を用て、火神の荒ぐるを防ぐべしとの意にて、火傷又は疫熱を治むるに此薬方を用ひしなるべし。

職員令集解に曰く、『古記云、饒速日命、降自天時、天神授瑞寶十種息津(おきつ)鏡一、部津(へつ)鏡一、八握(やつか)劍一、生玉(いくたま)一、足玉(たりたま)一、死反玉(まかるかへしのたま)一、道反玉(ちかへしのたま)一、蛇比禮(おろちのひれ)一、蜂比禮(はちのひれ)一、品之物比禮(くさくさのもののひれ)一、各魁⊆稷痛處者(いやむところあらは)、合茲十寶、謂一二三四五六七八九十(ひとふたみよいむななやここのたりや)云而布瑠部(ふるへ)、由良由良止布瑠部(ゆらゆらふるへ)、如此爲之者、死人反生矣』、これ後の世に鎭魂祭(みたまつり)とて行はるる事の本なり。

鎭魂とは身體の惱の出來、また魂の徳用(はたらき)弱くなるとき、その遊離せるを招き復へして中府に鎭むるの方なり。

鎭火、鎭魂の祭りの他、新嘗、月次等の祭は主として壽の長からんことを祈り、鎭花の祭は専ら病をあらせざる祭にして、病あるときは大祓、道饗祭を行ふを例とせり。
これ固より祭なれども、病を治むる方にとりては尚ほ禁厭なり。



藥物内用 祈禱、禁厭、一歩を進めて藥物を内服するに至りしも、禁厭の創まりし時代を距ること遠からざるべし、平田篤胤´い太古の藥物は貼傳せしのみ、これを飲むことは唐土より傳はれりと云ふは誤なり。
但し疾病は神の意なりとせしことなれば、藥物の内用にもせよ、其病を療するは、直しき神の御靈によるものとせしなり。
されば藥物の内服も禁厭の意に出でしことは明にして、固より始より其藥力的作用を求めしにはあらず。

藥物の内用は酒を以て其始とすべし。
素戔嗚尊の時已に酒あり、又少彦名神は造酒の神なりと云ひ、大國主神の酒を醸せしことも諸書に見えたれば、酒の古くより用ひられたるを知るべし。
これ支那にありて、酒を以て藥物の始とすに異ならず。

外科 山に入りて猛獣に傷けられたるを療し、或は誤まりて手足を傷ふり、竹林を刺せるを治し、或は戰ひて創を蒙むれるを療する等、外科的の處置は人類の創始と共に必要あるものにて、我神祇時代にありても既に此等の方法あり。
而も其處置は大抵藥物を塗抹外敷するの止まりしなり。

古事記神代上巻に曰く『其八十神各有婚稻羽之八上比賣(いなばのやかみひめを)之心、共行稻羽時、於大穴牟遅神負帒(ておひて)爲從者率往(ともびととしていてゆきき)、於是到氣多之前(けたのさき)時、裸菟伏也(あかはたかなるうさきふせり)、爾八十神謂其菟云、汝將爲者(いましせむは)浴(あみ)此(の)海鹽(うしほ)當(たりて)風(の)吹(くに)而伏(ふしてよと)高山尾上、故(れ)其菟從(ままにして)八十神之魁覆佞襦房伏(ふしき)、爾(ここに)、其鹽隨乾、其身(の)
皮悉(に)風(に)見(れん)吹拆(きさか)、故痛苦(かりにいたみて)泣伏者、最後(いとはてに)之來(きませる)大穴牟遲神、見(て)其菟、云々、是大穴牟遅神、街霏凝僉∈5浣此水門、以水洗汝身、即取其水門之蒲黄、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差、故爲如魁其身如本也、』これ外傷に蒲黄を用ひたるなり。

又同書に『故爾(かれここに)八十神怒欲殺大穴牟遅神共議而、至伯伎國之手間山本云、赤猪在此山、故和禮(われ)共追下者(ともおひくだりなば)、汝待取、若不待取者、必将殺汝、云而、以火焼似猪大石而、轉落(まろめしおとし)、爾(かれ)追下、取時、即於其石所焼著而死、爾(ここに)其御祖命(みおやのみこと)哭患而、参上于天請神産巣日之命、時、乃遣蚶貝比賣(きさがひひめ)與(とて)蛤貝比売(うむぎひめ)令作活、爾(かれ)、蚶貝比賣(きさがひひめ)岐佐宜(きさげ)焦而(こがして)、蛤貝比賣(うむぎひめ)持水而、塗母乳汁者、成麗壮夫而、出遊行、』これ火傷を治するに蚶貝を黒焼きとなして塗敷するの法を用いしなり。



然れども稱々後の代に至りては塗抹外敷の他に、刺鍼の術も亦行はれしものか、支那の古醫書素問異法方宜論に『黄帝問曰、醫之治病也、一病而治各不同皆愈、何也、岐伯對曰、地勢使然也、故東方之域、天地之處始生也、魚鹽之地、海濱傍水、其民食魚嗜鹹、皆安其處美其食、魚者使人熱中、鹽者勝血云々、其病皆爲癰瘍、其治宜砭石、故砭石者、亦從東方來』とあり。
其東方の域、天地の始めて生する所と云ふは我邦を指したるならむ。
素問の書は古人の名に假託せる僞書なりと云ふと雖も其今に存するものは少くも彼邦秦漢の世の作なり。
秦漢の代は我朝の紀元五百年前後(西暦紀元前百五十年前後)に當れば、砭石の術の已に我神代より専ら行はれしが、遠く支那にまで傳はりしならむと思はるるなり。


砭石を用ひしさまは、傳亡びたれは、詳ならぎ。
然れども扁鵲傳に『上古之時、醫有兪附、治病不以湯液醴酒、鑱石橋引、云々』『扁鵲乃使弟子子陽呰砥石、以取外三陽五會』『疾居腠理也、湯熨之所及也、在血脉鍼石之所及也』とあり。

又山海經に『高氏之山、有石如玉、可以爲鍼即砭石也』とあり。
本草綱目にも『古者以石爲鍼、季世以鍼代石、今人又以瓷鍼刺病、亦砭之遺意也』と云へるを見れば、石を鍼とし用ひ、血を取りしものか、我神祇時代には已に鍼もありしと云へば、膚肉に針して血を取りしこともありしならん。

日本書紀允恭天皇紀に『即選吉日、跪上天皇之璽、雄朝津間天之稚子宿禰皇子謝曰、我之不夭、久離篤疾、不能步行、且我既欲除病、獨非奏言、而密破身治病云々』とあるは、思ふに鍼にて血を取りしものか。

刺鍼の術を以て後世朝鮮又は唐土より傳はれりと云ふ´Δ遽に信し難し。



産科 何れの邦にありても、其太古の醫術にて、外科に起りしは産科なり、渾沌の世にありて既に産婆の存せしことにて之を證すべし。
我神祇時代にありても伊邪那美神の時、既に産室の備あり、産する時には必ず新に家を建て、これを産屋と曰ふ、産畢(おえ)れは火を以て室を焚きたり。
(古事記木花開耶姫の條下に見えたり)、助産に關する技術の既に此間に存せしことを想ふべし。

兒科 木花開耶姫の産に方り、竹刀を以て其兒の臍帯を截(き)りしことあり、又乳母を以て其の兒を養ひしことあり、これを兒科の濫觴(らんしょう)とすべし。

眼科、耳鼻科等 の治療法につきては史籍上には記述をも見ず。

藥物 太古の醫術にありて、藥物として應用せらしものは主に草木の皮、根、果實及び葉と、一二動物の臓器となりしことは之を推察するに難からず。
試みに古事記神代巻に載せられたる植物及ひ動物の稱呼を檢するに、其數甚た多く、植物にては葛、葦、薄(すすき)、比々羅木、樺、桃、赤酸醤、蘿(つた)、檜、檍(もちのき)、椹(さわら)、眞賢木(まさかき)、茜、蒲陶、蒲黄(ほおう)、海布(め)、竹、海蒪(こも)等あり、動物にては、鵼(ぬえ)、雉、鷄、千鳥、鴨、翠鳥(そにとり)(すいちょう:カワセミ)、鵜、鼠、蜂、蠅、白兎、猪、鷺、蛾、蟾蜍(せんじょ:ヒキガエル)等あり、其中にて蒲黄、桃の如きは現に之を治病の用に供せられたること已に史に見えたり(第十五頁、十八頁参照)、思ふに其他のものも、或は之を藥物として應用せられたることあらん。

支那の漢の代、王充が論衝巻第八に『周時天下太平、越裳(ベトナム付近の国)献白雉、倭人貢鬯草 食白雉服鬯草』又其巻十九に『成王之時、倭人貢鴨草』とあり、鬯は古の鴨字にして、香草なり、祭祀に酒に和して地に灌げば其氣を高遠に達して以て神を降すの効あり、後に返魂と名づくるものならんと云ふ。
按するに周成王の時は我邦の神代の末に當る、乃ちこの香草の當時我邦にも行はれたるを知るべし。


佐藤方定は仁古太(人参)於宇(附子)保寶加志波(厚朴)阿満紀(甘草)依毘須加良美(胡椒)爾須那(丹砂)伊奴万面(巴豆)飫賓師(大黄)の八藥を擧げ、この八藥は我邦神代時代より已に存せしものなることを詳述せり。

其説の基づく所は延喜式に此等の藥物を毎年貢物に添て奉れり、當時これを添物と稱して人皇初代より仕來の恒例なればなりと云ふにあり。
此説は猶ほ深く攷ふべきことなり。

水治法 沐浴、灌水等、單純の水治法は已に神世七世の末の頃より行はれたり、これ身體の汚穢は疾病の因をなすものなれば祓除して其病を治せんとするの意に出でたり。
出雲國風土記に『大神大穴持命御子、阿遅須枳高日子命、御髯八握于生(おつるまて)、晝夜哭坐(なきまして)之、辭不通、云々、爾時其津水吸出、而御身沐浴座(そそきましき)、云々』とあり、支那の書、兩朝平壌録(巻四)潜確居類書(巻十三)等に我邦太古の風俗を記するの條に『其俗信巫、疾無醫藥、病者裸而就水濱、杓水淋沐之、面四方、呼其神、誠禱即愈』と述べたるを見れば、當時我邦の俗は醫藥を内用するよりも(醫藥なしと云ふは誤聞なり)、寧ろ水治法等自然の治療力を採り用ひしことの盛なりしを知るべし。

温泉に浴して病を醫することも、大穴牟遅神、少名毘古那神の頃に初まれり。
伊豫國風土記に曰く『湯郡、大穴持命、悔耻、而宿奈毘古那命欲活、而大分速見湯自下樋持度來、以宿奈毘古那命、浴瀆者、蹔間、有活起居、然詠曰、眞蹔寢哉、踐健跡處、今在湯中石上、凡湯之貴奇、不神世時耳、於今世、染疹痾萬生、爲除病存身要藥也 』。(續日本記に引く所に依る)

灸法及び按摩 は我神祇時代の記録に見えず。
思ふにこれ等の治術は唐醫方の輸入にして、之を彼より我に傳へたるものならん。


参考書籍

‘本石器時代の住民 醫學博士小金井良?著
 東洋學藝雑誌第二五九及二六〇號著
 日本石器時代人民論 理學博士坪井正五郎
 東洋學藝雑誌第二六一、二六三及二六五號
日本考古學 八木奘三郎著 明治三十六年刊行
F本石器時代の梅毒に就いて 醫學博士足立文太郎著
 東京醫學會雑誌第九巻十四及十六号
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 Syphilis. 1903.
Neuborger u. Pagel, Handbuch d. Geschichte d. ? Bd. I. S. 4. 1902.
Ω纏記三巻 太安麿奉勅撰 和銅五年成
日本書記三十巻 舎人親王及太安麿奉勅撰 養老四年成
┯展貊Π箘豐 齋部広廣成撰 大同二年成
古事記傳 本居宣長著 天保十五年刊 巻九 第五十九葉
同上 巻十二第六葉
同上 巻二十三第二十七葉
奇魂一名尚古醫典二巻 佐藤方定著 天保二
信友随筆一巻 伴信友著 百万塔本
志都之石室二巻 平田篤胤著
備急八訳新論三巻 佐藤方定著 安政四年刊
溢佇正傳二巻 花野井有年著 嘉永五年刊
姥梼估傘莖弭諭+淌陳晶 學藝志林第八〇及八一號
Max Bertels, Die Mediclin der Naturvolker. 1893
海△い野仍談一巻 醫學博士關塚不二彦著 明治二十九年刊行
Chamberlain. Transactions of the asiatic society of Japan.
 Vol.. Suplement. 1883
21.Florenz, Nihongi. ? ?
22.W.G, Aston, Nihongi Transactions & proceedings of the Japan
  society. London. 1896.


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