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青空文庫内元テキスト


一部抜粋

     七 灸治

 子供の時分によくお灸きゅうをすえると言っておどされたことがある。
今のわれわれの子供にはもうお灸が何だか知らないのが多いようである。
もぐさを見たことのない子供も少なくないであろう。
お灸がいかなるものであるかを説明してやると驚いているようである。

 小さい時分にはおどされるだけでほんとうにすえられたことはなかったようである。
水泳などに行って友だちや先輩の背中に妙な斑紋はんもんが規則正しく並んでいて、どうかするとその内の一つ二つの瘡蓋かさぶたがはがれて大きな穴が明き、中から血膿ちうみが顔を出しているのを見て気味の悪い思いをした記憶がある。
見るだけで自分の背中がむずむずするようであった。
なんのためにわざわざこんないやなことをするのか了解できなかった。
十二三歳のころ病身であったために、とうとう「ちりけ」のほかに五つ六つ肩のうしろの背骨の両側にやけどの跡をつけられてしまった。
なんでもいろいろのごほうびの交換条件で納得させられたものらしい。

 大学の二年の終わりに病気をして一年休学していた間に「片はしご」というのをおろしてくれたのが近所の国語の先生の奥さんであった。
家伝の名灸でその秘密をこの年取った奥さんが伝えていたのである。
なんでも紙撚こよりだったか藁わらきれだったか忘れたが、それでからだのほうぼうの寸法を計って、それから割り出して灸穴きゅうけつをきめるのであるが、とにかく脊柱せきちゅうのたぶん右側に上から下まで、首筋から尾※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)骨びていこつまでたしか十五六ほどの灸穴を決定する。
それに、はじめは一度に三つずつ一週間後から五つずつというふうにだんだんすえる数を増して行って、おしまいには二十ぐらいずつすえるのである。
なかなかここいらは合理的である。

 上から下へだんだんにすえて行くと痛さの種類がだんだんに少しずつ変わって行くのが妙である。
上のほうのは言わば乾性、あるいは男性的の痛さで少し肩に力を入れて力んでいればなんでもないが腰のほうへ下がって行くと痛さが湿性あるいは女性的になって、かゆいようなくすぐったいような泣きたいような痛さになる。
動かすまいと思っても腰をひねらないではいられないような気持ちがする。
同じ刺激に対する感覚が皮膚の部分によって違うのはこれに限らない事ではあるが、このはしご灸きゅうなどは一つのおもしろい実験である。
ただその感覚の段階的変化を表示する尺度がまだ発見されていないのは残念である。

 そのころの郷里には「切りもぐさ」などはなかったらしく、紙袋に入れたもぐさの塊かたまりから一ひねりずつひねり取っては付けるから下手へたをやると大小ならびにひねり方の剛柔の異同がはなはだしく、すえられるほうは見当がつかなくて迷惑である。
母は非常にこれが上手じょうずで粒のよくそろったのをすえてくれた。
一つは母の慈愛がそうさせたであろう。
女中などが代わると、どうかするとばかに大きいのや堅びねりのが交じったり、線香の先で火のついたのを引き落として背中をころがり落とさせたりして、そうしてこっちが驚いておこるとよけいにおもしろがってそうするのではないかという嫌疑けんぎさえ起こさせるのであった。

 南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。
庭では一面に蝉せみが鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。
同時にまた灸の刺激が一種の涼風のごときかすかな快感を伴なっていたかのごとき漠然ばくぜんたる印象が残っているのである。

 背中の灸きゅうの跡を夜寝床ですりむいたりする。
そのあとが少し化膿かのうして痛がゆかったり、それが帷子かたびらでこすれでもすると背中一面が強い意識の対象になったり、そうした記憶がかなり鮮明に長い年月を生き残っている。
そういうできそこねた灸穴きゅうけつへ火を点ずる時の感覚もちょっと別種のものであった。

 一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。
ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹いちまつの涼味を落として行くような気がする。
これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子こうしつりゅうしは外からはいる黴菌ばいきんを食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。

 寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして火燵こたつにかじりついてすえてもらった。
神経衰弱か何かの療法に脊柱せきちゅうに沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中に沿うて四五寸の幅の帯状区域を寒気にさらして、その中に点々と週期的な暑さの集注点をこしらえるという複雑な方法を取ったわけである。
そういう、西洋のえらい医学の大家の夢にも知らない療養法を須崎港すさきこうの宿屋で長い間続けた。
その手術を引き受けていたのは幡多はた生まれで幡多なまりの鮮明なお竹たけという女中であった。
三十年前の善良にして忠実なるお竹の顔をありあり思い出すのであるが、その後の消息を明らかにしない。
無事でいればもうずいぶんおばあさんになっていることであろう。

 灸などきくものかと一概にけなす人もある。
もしなんの効能もないとすると、祖先の日本人は仏法伝来と同時に輸入されたというこの唐人のぺてんに二千年越しだまされつづけて無用なやけどをこしらえて喜んでいたわけである。

 二千年来信ぜられて来たという事実はそれが真であるという証拠には少しもならない。
しかし灸きゅうの場合には事がらが精神的ばかりでなくともかくも生理的な生き身の一部に明白な物理的化学的な刺激を直接密接に与えるのであるから、きくきかぬが生理的に実証の審判にかけられうるわけだと思われる。

 生理学の初歩の書物を読んでみると、皮膚の一部をつねったりひねったりするだけで、腹部の内臓血管ことにその細動脈が収縮し、同時に筋や中枢神経系に属する血管は開張すると書いてある。
灸をすえるのでも似かよった影響がありそうである。
のみならず、焼かれた皮膚の局部では蛋白質たんぱくしつが分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。
それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響のないはずはなさそうである。

 それがある病気にどれだけきくかはまた別問題であるがそれは立派に一つの研究問題になる事であり、そうしてまさに日本の医者生理学者の研究すべき問題である。
それだのに不思議なことには従来灸治の科学的研究をして学位でも取ったという人は、あるかもしれないがあまりよく知られていないようである。
今にドイツとか米国とかでだれかが歌麿うたまろや北斎ほくさいを発見したように灸治法の発見をして大論文でも書くようになれば日本でも灸治研究が流行をきたすかもしれないと思われる。

(「螢光板」への追記) 
前項「灸治」について高松たかまつ高等商業学校の大泉行雄おおいずみゆきお氏から書信で、九州福岡ふくおかの原志兔太郎はらしずたろう氏が灸の研究により学位を得られたと思うという知らせを受けた。
右の原氏著「お灸きゅう療治」という小冊子に灸治の学理が通俗的に説明されているそうである。
一見したいと思っているがまだその機会を得ない。
その後にまた麻布あざぶの伊藤泰丸いとうやすまる氏から手紙をよこされて、前記原氏のほかに後藤道雄ごとうみちお、青地正皓あおじまさひろ、相原千里あいはらせんり等の各医学博士の鍼灸しんきゅうに関する研究のある事を示教され、なお中川清三&size(9){なかがわせいぞう)著「お灸の常識」という書物を寄贈された、ここに追記して大泉氏ならびに伊藤氏に感謝の意を表したいと思う。





底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   (昭和23)年11月20日第1刷発行
   (昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   (平成9)年9月5日第65刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年3月7日作成
青空文庫作成ファイル:
一部抜粋


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