CENTER:[[按摩さんのいる風景]]トップ

RIGHT:→[[青空文庫内元テキスト>http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3587_19541.html]]

~
       一~
~
 宮重&size(9){みやしげ};大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪&size(9){なみ};ゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦&size(9){よろこ};びのあまり……~
 と口誦&size(9){くちずさ};むように独言&size(9){ひとりごと};の、膝栗毛&size(9){ひざくりげ};五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空&size(9){なかぞら};は冴切&size(9){さえき};って、星が水垢離&size(9){みずごり};取りそうな月明&size(9){つきあかり};に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯&size(9){ともしび};ちらちらと目の下に、遠近&size(9){おちこち};の樹立&size(9){こだち};の骨ばかりなのを視&size(9){なが};めながら、桑名の停車場&size(9){ステエション};へ下りた旅客がある。~
 月の影には相応&size(9){ふさわ};しい、真黒&size(9){まっくろ};な外套&size(9){がいとう};の、痩&size(9){や};せた身体&size(9){からだ};にちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて可&size(9){い};いが、馴&size(9){な};れない天窓&size(9){あたま};に山を立てて、鍔&size(9){つば};をしっくりと耳へ被&size(9){かぶ};さるばかり深く嵌&size(9){は};めた、あまつさえ、風に取られまいための留紐&size(9){とめひも};を、ぶらりと皺&size(9){しな};びた頬へ下げた工合&size(9){ぐあい};が、時世&size(9){ときよ};なれば、道中、笠も載&size(9){の};せられず、と断念&size(9){あきら};めた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛&size(9){やじろべえ};。~
 さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天鵝絨&size(9){びろうど};の革鞄&size(9){かばん};に信玄袋を引搦&size(9){ひきから};めて、こいつを片手。片手に蝙蝠傘&size(9){こうもりがさ};を支&size(9){つ};きながら、~
「さて……悦びのあまり名物の焼蛤&size(9){やきはまぐり};に酒汲&size(9){く};みかわして、……と本文&size(9){ほんもん};にある処&size(9){ところ};さ、旅籠屋&size(9){はたごや};へ着&size(9){ちゃく};の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、喜多八&size(9){きだはち};。)と行きたいが、其許&size(9){そのもと};は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴&size(9){つれ};の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、何&size(9){な};んと一口遣&size(9){や};ろうではないか、ええ、捻平&size(9){ねじべい};さん。」~
「また、言うわ。」~
 と苦い顔を渋くした、同伴&size(9){つれ};の老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七十&size(9){ななそじ};なるべし。臘虎&size(9){らっこ};皮の鍔&size(9){つば};なし古帽子を、白い眉尖&size(9){まゆさき};深々と被&size(9){かぶ};って、鼠の羅紗&size(9){らしゃ};の道行&size(9){みちゆき};着た、股引&size(9){ももひき};を太く白足袋の雪駄穿&size(9){せったばき};。色褪&size(9){あ};せた鬱金&size(9){うこん};の風呂敷、真中&size(9){まんなか};を紐で結&size(9){ゆわ};えた包を、西行背負&size(9){さいぎょうじょい};に胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に杖&size(9){つえ};は支&size(9){つ};いたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の可&size(9){い};いお爺様&size(9){じいさま};。~
「その捻平は止&size(9){よ};しにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは可&size(9){よ};けれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、私&size(9){わし};が護摩&size(9){ごま};の灰ででもあるように聞えるじゃ。」と杖を一つとんと支くと、後&size(9){あと};の雁&size(9){がん};が前&size(9){さき};になって、改札口を早々&size(9){さっさ};と出る。~
 わざと一足後&size(9){うしろ};へ開いて、隠居が意見に急ぐような、連&size(9){つれ};の後姿をじろりと見ながら、~
「それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、」~
 人も無げに笑う手から、引手繰&size(9){ひったく};るように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生真面目&size(9){きまじめ};。~
 成程、この小父者&size(9){おじご};が改札口を出た殿&size(9){しんがり};で、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼&size(9){まっさお};な野路を光って通る。……~
「やがてここを立出&size(9){たちい};で辿&size(9){たど};り行&size(9){ゆ};くほどに、旅人の唄うを聞けば、」~
 と小父者、出た処で、けろりとしてまた口誦&size(9){くちずさ};んで、~
「捻平さん、可&size(9){い};い文句だ、これさ。……~
時雨蛤&size(9){しぐれはまぐり};みやげにさんせ~
   宮&size(9){みや};のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」~
「旦那&size(9){だんな};、お供はどうで、」~
 と停車場&size(9){ステエション};前の夜の隈&size(9){くま};に、四五台朦朧&size(9){もうろう};と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。~
 これを聞くと弥次郎兵衛、口を捻&size(9){ね};じて片頬笑&size(9){かたほえ};み、~
「有難&size(9){ありがて};え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」~
「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない顔色&size(9){がんしょく)で、そのまま棒立。~
~
       二~
~
 小父者&size(9){おじご};は外套の袖をふらふらと、酔ったような風附&size(9){ふうつき};で、~
「遣&size(9){や};れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、後生&size(9){ごしょう};だから一つ気取ってくれ。」~
「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」~
 と早口で車夫は実体&size(9){じってい};。~
「はははは、法性寺入道前&size(9){ほうしょうじのにゅうどうさき};の関白&size(9){かんぱく};太政大臣&size(9){だじょうだいじん};と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。~
「さあ、もし召して下さい。」~
 と話は極&size(9){きま};った筈&size(9){はず};にして、委細構わず、車夫は取着&size(9){とッつ};いて梶棒&size(9){かじぼう};を差向ける。~
 小父者、目を据えてわざと見て、~
「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」~
「いや、よしではない。」~
 とそこに一人つくねんと、添竹&size(9){そえだけ};に、その枯菊&size(9){かれぎく};の縋&size(9){すが};った、霜の翁&size(9){おきな};は、旅のあわれを、月空に知った姿で、~
「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を当&size(9){あて};にぶらつこうで。」と口叱言&size(9){くちこごと};で半ば呟&size(9){つぶや};く。~
「いや、まず一つ、(よヲしよし、};と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく四銭&size(9){しもん};で乗るべいか。};馬士&size(9){うまかた};が、(そんなら、ようせよせ。};と言いやす、馬がヒインヒインと嘶&size(9){いば};う。」~
「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊屋&size(9){みなとや};と言う旅籠屋&size(9){はたごや};へ行&size(9){ゆ};くのじゃ。」~
「ええ、二台でござりますね。」~
「何んでも構わぬ、私&size(9){わし};は急ぐに……」と後向&size(9){うしろむ};きに掴&size(9){つか};まって、乗った雪駄を爪立&size(9){つまだ};てながら、蹴込&size(9){けこ};みへ入れた革鞄を跨&size(9){また};ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで揺&size(9){ゆす};っておく。~
「一蓮託生&size(9){いちれんたくしょう};、死なば諸共、捻平待ちやれ。」と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。……~
「湊屋だえ、」~
「おいよ。」~
 で、二台、月に提灯&size(9){かんばん};の灯&size(9){あかり};黄色に、広場&size(9){ひろっぱ};の端へ駈込&size(9){かけこ};むと……石高路&size(9){いしたかみち};をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、径路&size(9){ちかみち};を縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を廂&size(9){ひさし};で覆&size(9){おお};うて、両側の暗い軒に、掛行燈&size(9){かけあんどん};が疎&size(9){まばら};に白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼&size(9){あお};いのが処々。長い通りの突当りには、火の見の階子&size(9){はしご};が、遠山&size(9){とおやま};の霧を破って、半鐘&size(9){はんしょう};の形活&size(9){い};けるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、金棒&size(9){かなぼう};の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓&size(9){こ};達は宵寝と見える、寂しい新地&size(9){くるわ};へ差掛&size(9){さしかか};った。~
 輻&size(9){やぼね};の下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の状&size(9){さま};、あたかも獺&size(9){かわうそ};が祭礼&size(9){まつり};をして、白張&size(9){しらはり};の地口行燈&size(9){じぐちあんどん};を掛連ねた、鉄橋を渡るようである。~
 爺様の乗った前の車が、はたと留&size(9){とま};った。~
 あれ聞け……寂寞&size(9){ひっそり};とした一条廓&size(9){ひとすじくるわ};の、棟瓦&size(9){むねがわら};にも響き転げる、轍&size(9){わだち};の音も留まるばかり、灘&size(9){なだ};の浪を川に寄せて、千里の果&size(9){はて};も同じ水に、筑前の沖の月影を、白銀&size(9){しろがね};の糸で手繰ったように、星に晃&size(9){きら};めく唄の声。~
博多帯&size(9){はかたおび};しめ、筑前絞&size(9){ちくぜんしぼり};、~
 田舎の人とは思われぬ、~
歩行&size(9){ある};く姿が、柳町、~
 と博多節を流している。……つい目の前&size(9){さき};の軒陰に。……白地の手拭&size(9){てぬぐい};、頬被&size(9){ほおかむり};、すらりと痩&size(9){やせ};ぎすな男の姿の、軒のその、うどんと紅&size(9){べに};で書いた看板の前に、横顔ながら俯向&size(9){うつむ};いて、ただ影法師のように彳&size(9){たたず};むのがあった。~
 捻平はフト車の上から、頸&size(9){うなじ};の風呂敷包のまま振向いて、何か背後&size(9){うしろ};へ声を掛けた。……と同時に弥次郎兵衛の車も、ちょうどその唄う声を、町の中で引挟&size(9){ひっぱさ};んで、がっきと留まった。が、話の意味は通ぜずに、そのまま捻平のがまた曳出&size(9){ひきだ};す……後&size(9){あと};の車も続いて駈&size(9){か};け出す。と二台がちょっと摺&size(9){す};れ摺れになって、すぐ旧&size(9){もと};の通り前後&size(9){あとさき};に、流るるような月夜の車。~
~
       三~
~
お月様がちょいと出て松の影、~
 アラ、ドッコイショ、~
 と沖の浪の月の中へ、颯&size(9){さっ};と、撥&size(9){ばち};を投げたように、霜を切って、唄い棄&size(9){す};てた。……饂飩屋&size(9){うどんや};の門&size(9){かど};に博多節を弾いたのは、転進&size(9){てんじん};をやや縦に、三味線&size(9){さみせん};の手を緩めると、撥を逆手&size(9){さかて};に、その柄で弾&size(9){はじ};くようにして、仄&size(9){ほん};のりと、薄赤い、其屋&size(9){そこ};の板障子をすらりと開けた。~
「ご免なさいよ。」~
 頬被&size(9){ほおかむ};りの中の清&size(9){すず};しい目が、釜&size(9){かま};から吹出す湯気の裏&size(9){うち};へすっきりと、出たのを一目、驚いた顔をしたのは、帳場の端に土間を跨&size(9){また};いで、腰掛けながら、うっかり聞惚&size(9){ききと};れていた亭主で、紺の筒袖にめくら縞&size(9){じま};の前垂&size(9){まえだれ};がけ、草色の股引&size(9){ももひき};で、尻からげの形&size(9){なり};、にょいと立って、~
「出ないぜえ。」~
 は、ずるいな。……案ずるに我が家の門附&size(9){かどづけ};を聞徳&size(9){ききどく};に、いざ、その段になった処で、件&size(9){くだん};の&size(9){出ないぜ。};を極&size(9){き};めてこまそ心積りを、唐突&size(9){だしぬけ};に頬被を突込&size(9){つッこ};まれて、大分狼狽&size(9){うろた};えたものらしい。もっとも居合わした客はなかった。~
 門附は、澄まして、背後&size(9){うしろ};じめに戸を閉&size(9){た};てながら、三味線を斜&size(9){はす};にずっと入って、~
「あい、親方は出ずとも可&size(9){い};いのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、女房&size(9){おかみ};さん、そんなものじゃありませんかね。」~
 とちと笑声が交って聞えた。~
 女房は、これも現下&size(9){いま};の博多節に、うっかり気を取られて、釜前の湯気に朦&size(9){もう};として立っていた。……浅葱&size(9){あさぎ};の襷&size(9){たすき};、白い腕を、部厚な釜の蓋&size(9){ふた};にちょっと載&size(9){の};せたが、丸髷&size(9){まるまげ};をがっくりさした、色の白い、歯を染めた中年増&size(9){ちゅうどしま};。この途端に颯&size(9){さっ};と瞼&size(9){まぶた};を赤うしたが、竈&size(9){へッつい};の前を横ッちょに、かたかたと下駄の音で、亭主の膝を斜交&size(9){はすっか};いに、帳場の銭箱&size(9){ぜにばこ};へがっちりと手を入れる。~
「ああ、御心配には及びません。」~
 と門附は物優しく、~
「串戯&size(9){じょうだん};だ、強請&size(9){ゆする};んじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。」~
 細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、床几&size(9){しょうぎい};の上に、ト足を伸ばして、~
「どうもね、寒くって堪&size(9){たま};らないから、一杯御馳走&size(9){ごちそう};になろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。」~
 で、優柔&size(9){おとな};しく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、細面&size(9){ほそおもて};の、瞼&size(9){まぶた};に窶&size(9){やつれ};は見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の人品&size(9){ひとがら};な兄哥&size(9){あにい};である。~
「へへへへ、いや、どうもな、」~
 と亭主は前へ出て、揉手&size(9){もみで};をしながら、~
「しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。」と何もない、煤&size(9){すす};けた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目を外&size(9){そ};らす。~
「お師匠さん、」~
 女房前垂をちょっと撫&size(9){な};でて、~
「お銚子&size(9){ちょうし};でございますかい。」と莞爾&size(9){にっこり};する。~
 門附は手拭の上へ撥&size(9){ばち};を置いて、腰へ三味線を小取廻&size(9){ことりまわ};し、内端&size(9){うちわ};に片膝を上げながら、床几の上に素足の胡坐&size(9){あぐら};。~
 ト裾&size(9){すそ};を一つ掻込&size(9){かいこ};んで、~
「早速一合、酒は良いのを。」~
「ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。」と女房は土間を横歩行&size(9){よこある};き。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に火箸&size(9){ひばし};で掻&size(9){か};い掘&size(9){ほじ};って、赫&size(9){かっ};と赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、~
「さあ、まあ、お当りなさりまし。」~
「難有&size(9){ありがて};え、」~
 と鉄拐&size(9){てっか};に褄&size(9){つま};へ引挟&size(9){ひッぱさ};んで、ほうと呼吸&size(9){いき};を一つ長く吐&size(9){つ};いた。~
「世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。堪&size(9){たま};らねえ。女房&size(9){おかみ};さん、銚子をどうかね、ヤケという熱燗&size(9){あつかん};にしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。」~
「へへへ、お方&size(9){かた};、それ極熱&size(9){ごくあつ};じゃ。」~
 女房は染めた前歯を美しく、~
「あいあい。」~
~
       四~
~
「時に何かね、今此家&size(9){ここ};の前を車が二台、旅の人を乗せて駈抜&size(9){かけぬ};けたっけ、この町を、……」~
 と干した猪口&size(9){ちょく};で門&size(9){かど};を指して、~
「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、蒼&size(9){あお};く月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅籠屋&size(9){はたごや};ですか。」~
「湊屋&size(9){みなとや};でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。~
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代&size(9){なだい};で。前&size(9){せん};には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家&size(9){うち};じゃに、奥座敷の欄干&size(9){てすり};の外が、海と一所の、大&size(9){いか};い揖斐&size(9){いび};の川口&size(9){かわぐち};じゃ。白帆の船も通りますわ。鱸&size(9){すずき};は刎&size(9){は};ねる、鯔&size(9){ぼら};は飛ぶ。とんと類のない趣&size(9){おもむき};のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺&size(9){かわうそ};が這込&size(9){はいこ};んで、板廊下や厠&size(9){かわや};に点&size(9){つ};いた燈&size(9){あかり};を消して、悪戯&size(9){いたずら};をするげに言います。が、別に可恐&size(9){おそろし};い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩&size(9){はちたた};きをして見せる。……時雨&size(9){しぐ};れた夜さりは、天保銭&size(9){てんぽうせん};一つ使賃で、豆腐を買いに行&size(9){ゆ};くと言う。それも旅の衆の愛嬌&size(9){あいきょう};じゃ言うて、豪&size(9){えら};い評判の好&size(9){い};い旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」~
「あい、昨夜&size(9){ゆうべ};初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も闇&size(9){やみ};の烏さね。」~
 と俯向&size(9){うつむ};いて、一口。~
「どれ延びない内、底を一つ温めよう、遣&size(9){や};ったり! ほっ、」~
 と言って、目を擦&size(9){こす};って面&size(9){おもて};を背けた。~
「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料簡&size(9){りょうけん};が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯&size(9){ほおづき};の皮が精々だろう。利くものか、と高を括&size(9){くく};って、お銭&size(9){あし};は要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と涎&size(9){よだれ};が一時&size(9){いっとき};だ。」と手の甲で引擦&size(9){ひっこす};る。~
 女房が銚子のかわり目を、ト掌&size(9){てのひら};で燗&size(9){かん};を当った。~
「お師匠さん、あんたは東の方&size(9){かた};ですなあ。」~
「そうさ、生&size(9){うまれ};は東だが、身上&size(9){しんしょう};は北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、垂々&size(9){たらたら};と猪口&size(9){ちょく};へしたむ。~
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」~
 それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の可&size(9){い};い顔色&size(9){かおつき};。~
「御串戯&size(9){ごじょうだん};もんですぜ、泊りは木賃&size(9){きちん};と極&size(9){きま};っていまさ。茣蓙&size(9){ござ};と笠&size(9){かさ};と草鞋&size(9){わらじ};が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠&size(9){じょうはたご};の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房&size(9){おかみ};さん。」~
「こんなでよくば、泊めますわ。」~
 と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、~
「滅相な。」と帳場を背負&size(9){しょ};って、立塞&size(9){たちふさ};がる体&size(9){てい};に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口&size(9){こいぐち};に手首を縮&size(9){すく};めて、案山子&size(9){かかし};のごとく立ったりける。~
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油&size(9){おしたじ};の雨宿りか、鰹節&size(9){かつおぶし};の行者だろう。」~
 と呵々&size(9){からから};と一人で笑った。~
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。~
「飛んでもない事、お忙しいに。」~
「いえな、内じゃ芸妓屋&size(9){げいこや};さんへ出前ばかりが主&size(9){おも};ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳&size(9){い};いお声ですな。なあ、良人&size(9){あんた};。」と、横顔で亭主を流眄&size(9){ながしめ};。~
「さよじゃ。」~
 とばかりで、煙草&size(9){たばこ};を、ぱっぱっ。~
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」~
~
       五~
~
「そう讃&size(9){ほ};められちゃお座が醒&size(9){さ};める、酔も醒めそうで遣瀬&size(9){やるせ};がない。たかが大道芸人さ。」~
 と兄哥&size(9){あにい};は照れた風で腕組みした。~
「私がお世辞を言うものですかな、真実&size(9){まったく};ですえ。あの、その、なあ、悚然&size(9){ぞっ};とするような、恍惚&size(9){うっとり};するような、緊&size(9){し};めたような、投げたような、緩めたような、まあ、何&size(9){な};んと言うて可&size(9){よ};かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んとも言いようのない心持になったのですえ。」~
 と、脊筋を曲&size(9){くね};って、肩を入れる。~
「お方&size(9){かた};、お方。」~
 と急込&size(9){せきこ};んで、訳もない事に不機嫌な御亭&size(9){ごてい};が呼ばわる。~
「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の下&size(9){もと};に、斜&size(9){しゃ};と構えて、帳面を引繰&size(9){ひっく};って、苦く睨&size(9){にら};み、~
「升屋&size(9){ますや};が懸&size(9){かけ};はまだ寄越さんかい。」~
 と算盤&size(9){そろばん};を、ぱちりぱちり。~
「今時どうしたえ、三十日&size(9){みそか};でもありもせんに。……お師匠さん。」~
「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」~
「そないに急に気になるなら、良人&size(9){あんた};、ちゃと行って取って来&size(9){き};い。」~
 と下唇の刎調子&size(9){はねぢょうし};。亭主ぎゃふんと参った体&size(9){てい};で、~
「二進が一進、二進が一進、二一&size(9){にいち};天作の五&size(9){ご};、五一三六七八九&size(9){ぐいちさぶろくななやあここの};。」と、饂飩の帳の伸縮&size(9){のびちぢ};みは、加減&size(9){さしひき};だけで済むものを、醤油&size(9){したじ};に水を割算段。~
 と釜の湯気の白けた処へ、星の凍&size(9){い};てそうな按摩&size(9){あんま};の笛。月天心&size(9){つきてんしん};の冬の町に、あたかもこれ凩&size(9){こがらし};を吹込む声す。~
 門附の兄哥&size(9){あにい};は、ふと痩&size(9){や};せた肩を抱いて、~
「ああ、霜に響く。」……と言った声が、物語を読むように、朗&size(9){ほがらか};に冴&size(9){さ};えて、且つ、鋭く聞えた。~
「按摩が通る……女房&size(9){おかみ};さん、」~
「ええ、笛を吹いてですな。」~
「畜生、怪&size(9){け};しからず身に染みる、堪&size(9){たま};らなく寒いものだ。」~
 と割膝に跪坐&size(9){かしこま};って、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、~
「一ツこいつへ注&size(9){つ};いでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。」~
「何んの、私はちっとも構うことないのですえ。」~
「いや、御深切は難有&size(9){ありがた};いが、薬罐&size(9){やかん};の底へ消炭&size(9){けしずみ};で、湧&size(9){わ};くあとから醒&size(9){さ};める処へ、氷で咽喉&size(9){のど};を抉&size(9){えぐ};られそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身体&size(9){からだ};にひびっ裂&size(9){たけ};がはいりそうだ。……持って来な。」~
 と手を振るばかりに、一息にぐっと呷&size(9){あお};った。~
「あれ、お見事。」~
 と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)&size(9){みは};って、~
「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。沢山&size(9){たんと};、あの、心配する方があるのですやろ。」~
「お方、八百屋の勘定は。」~
 と亭主瞬&size(9){まばた};きして頤&size(9){あご};を出す。女房は面白半分、見返りもしないで、~
「取りに来たらお払いやすな。」~
「ええ……と三百は三銭かい。」~
 で、算盤を空に弾&size(9){はじ};く。~
「女房&size(9){おかみ};さん。」~
 と呼んだ門附の声が沈んだ。~
「何んです。」~
「立続けにもう一つ。そして後&size(9){あと};を直ぐ、合点&size(9){がってん};かね。」~
「あい。合点でございますが、あんた、豪&size(9){えら};い大酒&size(9){たいしゅ};ですな。」~
「せめて酒でも参らずば。」~
 と陽気な声を出しかけたが、つと仰向&size(9){あおむ};いて眦&size(9){まなじり};を上げた。~
「あれ、また来たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなにまだ夜は更けまいのに、屋根越&size(9){ごし};の町一つ、こう……田圃&size(9){たんぼ};の畔&size(9){あぜ};かとも思う処でも吹いていら。」~
 と身忙&size(9){みぜわ};しそうに片膝立てて、当所&size(9){あてど};なく※(「目+爭」、第3水準1-88-85)&size(9){みまわ};しながら、~
「音&size(9){おと};は同じだが音&size(9){ね};が違う……女房&size(9){おかみ};さん、どれが、どんな顔&size(9){つら};の按摩だね。」~
 と聞く。……その時、白眼&size(9){しろまなこ};の座頭の首が、月に蒼&size(9){あお};ざめて覗&size(9){のぞ};きそうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。~
「あれ、あんた、鹿の雌雄&size(9){めすおす};ではあるまいし、笛の音で按摩の容子&size(9){ようす};は分りませぬもの。」~
「まったくだ。」~
 と寂しく笑った、なみなみ注&size(9){つ};いだる茶碗の酒を、屹&size(9){きっ};と見ながら、~
「杯の月を酌&size(9){く};もうよ、座頭殿。」と差俯&size(9){さしうつむ};いて独言&size(9){ひとりごと};した。……が博多節の文句か、知らず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、そのあるものは波に響く。~
~
       六~
~
「や、按摩どのか。何んだ、唐突&size(9){だしぬけ};に驚かせる。……要らんよ。要りませぬ。」~
 と弥次郎兵衛。湊屋の奥座敷、これが上段の間とも見える、次に六畳の附いた中古&size(9){ちゅうぶる};の十畳。障子の背後&size(9){うしろ};は直ぐに縁、欄干&size(9){てすり};にずらりと硝子戸&size(9){がらすど};の外は、水煙渺&size(9){みずけむりびょう};として、曇らぬ空に雲かと見る、長洲&size(9){ながす};の端に星一つ、水に近く晃&size(9){き};らめいた、揖斐川の流れの裾&size(9){すそ};は、潮&size(9){うしお};を籠&size(9){こ};めた霧白く、月にも苫&size(9){とま};を伏せ、蓑&size(9){みの};を乾&size(9){ほ};す、繋船&size(9){かかりぶね};の帆柱がすくすくと垣根に近い。そこに燭台を傍&size(9){かたわら};にして、火桶&size(9){ひおけ};に手を懸け、怪訝&size(9){けげん};な顔して、~
「はて、お早いお着きお草臥&size(9){くたび};れ様で、と茶を一ツ持って出て、年増&size(9){としま};の女中が、唯今&size(9){ただいま};引込&size(9){ひっこ};んだばかりの処。これから膳にもしよう、酒にもしようと思うちょっとの隙間へ、のそりと出した、あの面&size(9){つら};はえ?……~
 この方、あの年増めを見送って、入交&size(9){いりかわ};って来るは若いのか、と前髪の正面でも見ようと思えば、霜げた冬瓜&size(9){とうがん};に草鞋&size(9){わらじ};を打着&size(9){ぶちつ};けた、という異体な面&size(9){つら};を、襖&size(9){ふすま};の影から斜&size(9){はす};に出して、~
(按摩でやす。)とまた、悪く抜衣紋&size(9){ぬきえもん};で、胸を折って、横坐りに、蝋燭火&size(9){ろうそくび};へ紙火屋&size(9){かみぼや};のかかった灯&size(9){あかり};の向うへ、ぬいと半身で出た工合が、見越入道&size(9){みこしにゅうどう};の御館&size(9){おやかた};へ、目見得&size(9){めみえ};の雪女郎を連れて出た、化&size(9){ばけ};の慶庵と言う体&size(9){てい};だ。~
 要らぬと言えば、黙然&size(9){だんまり};で、腰から前&size(9){さき};へ、板廊下の暗い方へ、スーと消えたり……怨敵&size(9){おんてき};、退散&size(9){たいさん};。」~
 と苦笑いして、……床の正面に火桶を抱えた、法然天窓&size(9){ほうねんあたま};の、連&size(9){つれ};の、その爺様を見遣って、~
「捻平さん、お互に年は取りたくないてね。ちと三絃&size(9){ぺんぺん};でも、とあるべき処を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびったものではないか。」~
「とかく、その年効&size(9){としが};いもなく、旅籠屋の式台口から、何んと、事も慇懃&size(9){いんぎん};に出迎えた、家&size(9){うち};の隠居らしい切髪の婆様&size(9){ばあさま};をじろりと見て、~
(ヤヤ、難有&size(9){ありがた};い、仏壇の中に美婦&size(9){たぼ};が見えるわ、簀&size(9){す};の子の天井から落ち度&size(9){た};い。)などと、膝栗毛の書抜きを遣らっしゃるで魔が魅&size(9){さ};すのじゃ、屋台は古いわ、造りも広大。」~
 と丸木の床柱を下から見上げた。~
「千年の桑かの。川の底も料&size(9){はか};られぬ。燈&size(9){あかり};も暗いわ、獺&size(9){かわうそ};も出ようず。ちと懲&size(9){こ};りさっしゃるが可&size(9){い};い。」~
「さん候&size(9){ぞうろう};、これに懲りぬ事なし。」~
 と奥歯のあたりを膨らまして微笑&size(9){ほほえ};みながら、両手を懐に、胸を拡く、襖&size(9){ふすま};の上なる額を読む。題して曰&size(9){いわ};く、臨風榜可小楼&size(9){りんぷうぼうかしょうろう};。~
「……とある、いかさまな。」~
「床に活&size(9){い};けたは、白の小菊じゃ、一束&size(9){ひとたば};にして掴&size(9){つか};みざし、喝采&size(9){おお};。」と讃&size(9){ほ};める。~
「いや、翁寂&size(9){おきなさ};びた事を言うわ。」~
「それそれ、たったいま懲りると言うた口の下から、何んじゃ、それは。やあ、見やれ、其許&size(9){そこ};の袖口から、茶色の手の、もそもそとした奴&size(9){やつ};が、ぶらりと出たわ、揖斐川の獺&size(9){かわうそ};の。」~
「ほい、」~
 と視&size(9){なが};めて、~
「南無三宝&size(9){なむさんぼう};。」と慌&size(9){あわただ};しく引込&size(9){ひッこ};める。~
「何んじゃそれは。」~
「ははははは、拙者うまれつき粗忽&size(9){そこつ};にいたして、よくものを落す処から、内の婆&size(9){ばばあ};どのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右糸で繋&size(9){つな};いだものさね。袖から胸へ潜&size(9){くぐ};らして、ずいと引張&size(9){ひっぱ};って両手へ嵌&size(9){は};めるだ。何んと恐しかろう。捻平さん、かくまで身上&size(9){しんしょう};を思うてくれる婆どのに対しても、無駄な祝儀は出せませんな。ああ、南無阿弥陀仏&size(9){なむあみだぶつ};。」~
「狸&size(9){たぬき};めが。」~
 と背を円くして横を向く。~
「それ、年増が来る。秘すべし、秘すべし。」~
 で、手袋をたくし込む。~
 処へ女中が手を支&size(9){つ};いて、~
「御支度をなさりますか。」~
「いや、やっと、今草鞋&size(9){わらじ};を解いたばかりだ。泊めてもらうから、支度はしません。」と真面目に言う。~
 色は浅黒いが容子&size(9){ようす};の可&size(9){い};い、その年増の女中が、これには妙な顔をして、~
「へい、御飯は召あがりますか。」~
「まず酒から飲みます。」~
「あの、めしあがりますものは?」~
「姉さん、ここは約束通り、焼蛤&size(9){やきはまぐり};が名物だの。」~
~
       七~
~
「そのな、焼蛤は、今も町はずれの葦簀張&size(9){よしずばり};なんぞでいたします。やっぱり松毬&size(9){まつかさ};で焼きませぬと美味&size(9){おいし};うござりませんで、当家&size(9){うち};では蒸したのを差上げます、味淋&size(9){みりん};入れて味美&size(9){あじよ};う蒸します。」~
「ははあ、栄螺&size(9){さざえ};の壺焼&size(9){つぼやき};といった形、大道店で遣りますな。……松並木を向うに見て、松毬のちょろちょろ火、蛤の煙がこの月夜に立とうなら、とんと竜宮の田楽&size(9){でんがく};で、乙姫様&size(9){おとひめさま};が洒落&size(9){しゃれ};に姉&size(9){あね};さんかぶりを遊ばそうという処、また一段の趣&size(9){おもむき};だろうが、わざとそれがために忍んでも出られまい。……当家&size(9){ここ};の味淋蒸、それが好&size(9){よ};かろう。」~
 と小父者&size(9){おじご};納得した顔して頷&size(9){うなず};く。~
「では、蛤でめしあがりますか。」~
「何?」と、わざとらしく[#「わざとらしく」は底本では「わざとしらく」]耳を出す。~
「あのな、蛤であがりますか。」~
「いや、箸&size(9){はし};で食いやしょう、はははは。」~
 と独&size(9){ひとり};で笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、~
「難有&size(9){ありがた};い。」と額を叩く。~
 女中も思わず噴飯&size(9){ふきだ};して、~
「あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。」~
「その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、内宮様&size(9){ないぐうさま};へ参る途中、古市&size(9){ふるいち};の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの店頭&size(9){みせさき};に、真鍮&size(9){しんちゅう};の獅噛火鉢&size(9){しかみひばち};がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の新姐&size(9){しんぞ};に、この小兀&size(9){すこはげ};を見せるのが辛かったよ。」~
 と燈&size(9){あかり};に向けて、てらりと光らす。~
「ほほ、ほほ。」~
「あはは。」~
 で捻平も打笑うと、……この機会に誘われたか、――先刻&size(9){さっき};二人が着いた頃には、三味線太鼓で、トトン、ジャカジャカじゃじゃじゃんと沸返るばかりだった――ちょうど八ツ橋形に歩行&size(9){あゆみ};板が架&size(9){かか};って、土間を隔てた隣の座敷に、およそ十四五人の同勢で、女交りに騒いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、大河&size(9){おおかわ};の汐&size(9){しお};に引かれたらしく、ひとしきり人気勢&size(9){ひとけはい};が、遠くへ裾拡がりに茫&size(9){ぼう};と退&size(9){の};いて、寂&size(9){しん};とした。ただだだっ広い中を、猿が鳴きながら走廻るように、キャキャとする雛妓&size(9){おしゃく};の甲走&size(9){かんばし};った声が聞えて、重く、ずっしりと、覆&size(9){おっ};かぶさる風に、何を話すともなく多人数&size(9){たにんず};の物音のしていたのが、この時、洞穴&size(9){ほらあな};から風が抜けたように哄&size(9){どっ};と動揺&size(9){どよ};めく。~
 女中も笑い引きに、すっと立つ。~
「いや、この方は陰々としている。」~
「その方が無事で可いの。」~
 と捻平は火桶の上へ脊くぐまって、そこへ投出した膝栗毛を差覗&size(9){さしのぞ};き、~
「しかし思いつきじゃ、私&size(9){わし};はどうもこの寝つきが悪いで、今夜は一つ枕許&size(9){まくらもと};の行燈&size(9){あんどん};で読んでみましょう。」~
「止&size(9){よ};しなさい、これを読むと胸が切&size(9){せま};って、なお目が冴えて寝られなくなります。」~
「何を言わっしゃる、当事&size(9){あてごと};もない、膝栗毛を見て泣くものがあろうかい。私&size(9){わし};が事を言わっしゃる、其許&size(9){そこ};がよっぽど捻平じゃ。」~
 と言う処へ、以前の年増に、小女&size(9){こおんな};がついて出て、膳と銚子を揃えて運んだ。~
「蛤は直&size(9){じ};きに出来ます。」~
「可&size(9){よし};、可。」~
「何よりも酒の事。」~
 捻平も、猪口&size(9){ちょこ};を急ぐ。~
「さて汝&size(9){てめえ};にも一つ遣ろう。燗&size(9){かん};の可い処を一杯遣らっし。」と、弥次郎兵衛、酒飲みの癖で、ちとぶるぶるする手に一杯傾けた猪口&size(9){ちょこ};を、膳の外へ、その膝栗毛の本の傍&size(9){わき};へ、畳の上にちゃんと置いて、~
「姉さん、一つ酌&size(9){つ};いでやってくれ。」~
 と真顔で言う。~
 小女が、きょとんとした顔を見ると、捻平に追っかけの酌をしていた年増が見向いて、~
「喜野&size(9){きの};、お酌ぎ……その旦那はな、弥次郎兵衛様じゃで、喜多八さんにお杯を上げなさるんや。」~
 と早や心得たものである。~
~
       八~
~
 小父者&size(9){おじご};はなぜか調子を沈めて、~
「ああ、よく言った。俺&size(9){おれ};を弥次郎兵衛は難有&size(9){ありがた};い。居心&size(9){いごころ};は可&size(9){よし};、酒は可。これで喜多八さえ一所だったら、膝栗毛を正&size(9){しょう};のもので、太平の民となる処を、さて、杯をさしたばかりで、こう酌&size(9){つ};いだ酒へ、蝋燭&size(9){ろうそく};の灯&size(9){ひ};のちらちらと映る処は、どうやら餓鬼に手向&size(9){たむ};けたようだ。あのまた馬鹿野郎はどうしている――」と膝に手を支&size(9){つ};き、畳の杯を凝&size(9){じっ};と見て、陰気な顔する。~
 捻平も、ふと、この時横を向いて腕組した。~
「旦那、その喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。」~
 と愛嬌造&size(9){あいきょうづく};って女中は笑う。弥次郎寂&size(9){さみ};しく打笑み、~
「むむ、そりゃ何よ、その本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いい年をして娑婆気&size(9){しゃばっけ};な、酒も飲めば巫山戯&size(9){ふざけ};もするが、世の中は道中同然。暖いにつけ、寒いにつけ、杖&size(9){つえ};柱とも思う同伴&size(9){つれ};の若いものに別れると、六十の迷児&size(9){まいご};になって、もし、この辺に棚からぶら下がったような宿屋はござりませんかと、賑&size(9){にぎや};かな町の中を独りとぼとぼと尋ね飽倦&size(9){あぐ};んで、もう落胆&size(9){がっかり};しやした、と云ってな、どっかり知らぬ家&size(9){うち};の店頭&size(9){みせさき};へ腰を落込&size(9){おとしこ};んで、一服無心をした処……あすこを読むと串戯&size(9){じょうだん};ではない。……捻平さん、真からもって涙が出ます。」~
 と言う、瞼&size(9){まぶた};に映って、蝋燭の火がちらちらとする。~
「姉や、心&size(9){しん};を切ったり。」~
「はい。」~
 と女中が向うを向く時、捻平も目をしばたたいたが、~
「ヤ、あの騒ぎわい。」~
 と鼻の下を長くして、土間越&size(9){ごし};の隣室&size(9){となり};へ傾き、~
「豪&size(9){えら};いぞ、金盥&size(9){かなだらい};まで持ち出いたわ、人間は皆裾が天井へ宙乗りして、畳を皿小鉢が躍るそうな。おおおお、三味線太鼓が鎬&size(9){しのぎ};を削って打合う様子じゃ。」~
「もし、お騒がしゅうござりましょう、お気の毒でござります。ちょうど霜月でな、今年度の新兵さんが入営なさりますで、その送別会じゃ言うて、あっちこっち、皆、この景気でござります。でもな、お寝&size(9){よ};ります時分には時間になるで静まりましょう。どうぞ御辛抱なさいまして。」~
「いやいや、それには及ばぬ、それには及ばぬ。」~
 と小父者、二人の女中の顔へ、等分に手を掉&size(9){ふ};って、~
「かえって賑かで大きに可い。悪く寂寞&size(9){ひっそり};して、また唐突&size(9){だしぬけ};に按摩に出られては弱るからな。」~
「へい、按摩がな。」と何か知らず、女中も読めぬ顔して聞返す。~
 捻平この話を、打消すように咳&size(9){しわぶき};して、~
「さ、一献&size(9){いっこん};参ろう。どうじゃ、こちらへも酌人をちと頼んで、……ええ、それ何んとか言うの。……桑名の殿様時雨&size(9){しぐれ};でお茶漬……とか言う、土地の唄でも聞こうではないかの。陽気にな、かっと一つ。旅の恥は掻棄&size(9){かきす};てじゃ。主&size(9){ぬし};はソレ叱言&size(9){こごと};のような勧進帳でも遣らっしゃい。~
 染めようにも髯&size(9){ひげ};は無いで、私&size(9){わし};はこれ、手拭でも畳んで法然天窓&size(9){ほうねんあたま};へ載&size(9){の};せようでの。」と捻平が坐りながら腰を伸&size(9){の};して高く居直る。と弥次郎眼&size(9){まなこ};を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)&size(9){みは};って、~
「や、平家以来の謀叛&size(9){むほん};、其許&size(9){そこ};の発議は珍らしい、二方荒神鞍&size(9){にほうこうじんくら};なしで、真中&size(9){まんなか};へ乗りやしょう。」~
 と夥&size(9){おびただ};しく景気を直して、~
「姉&size(9){あんね};え、何んでも構わん、四五人木遣&size(9){きやり};で曳&size(9){ひ};いて来い。」~
 と肩を張って大きに力む。~
 女中酌の手を差控えて、銚子を、膝に、と真直&size(9){まっすぐ};に立てながら、~
「さあ、今あっちの座敷で、もう一人二人言うて、お掛けやしたが、喜野、芸妓&size(9){げいこ};さんはあったかな。」~
 小女が猪首&size(9){いくび};で頷&size(9){うなず};き、~
「誰も居やはらぬ言うてでやんした。」~
「かいな、旦那さん、お気の毒さまでござります。狭い土地に、数のない芸妓やによって、こうして会なんぞ立込&size(9){たてこ};みますと、目星&size(9){めぼし};い妓&size(9){こ};たちは、ちゃっとの間に皆&size(9){みんな};出払います。そうか言うて、東京のお客様に、あんまりな人も見せられはしませずな、容色&size(9){きりょう};が好&size(9){い};いとか、芸がたぎったとかいうのでござりませぬとなあ……」~
「いや、こうなっては、宿賃を払わずに、こちとら夜遁&size(9){よにげ};をするまでも、三味線を聞かなきゃ納まらない。眇&size(9){めっかち};、いぐちでない以上は、古道具屋からでも呼んでくれ。」~
「待ちなさりまし。おお、あの島屋の新妓&size(9){しんこ};さんならきっと居るやろ。聞いて見や。喜野、ソレお急ぎじゃ、廊下走って、電話へ掛&size(9){かか};れや。」~
~
       九~
~
「持って来い、さあ、何んだ風車&size(9){かざぐるま};。」~
 急に勢&size(9){いきおい};の可&size(9){い};い声を出した、饂飩屋に飲む博多節の兄哥&size(9){あにい};は、霜の上の燗酒&size(9){かんざけ};で、月あかりに直ぐ醒&size(9){さ};める、色の白いのもそのままであったが、二三杯、呷切&size(9){あおっきり};の茶碗酒で、目の縁&size(9){ふち};へ、颯&size(9){さっ};と酔&size(9){よい};が出た。~
「勝手にピイピイ吹いておれ、でんでん太鼓に笙&size(9){しょう};の笛、こっちあ小児&size(9){こども};だ、なあ、阿媽&size(9){おっか};。……いや、女房&size(9){おかみ};さん、それにしても何かね、御当処は、この桑名と云う所は、按摩の多い所かね。」と笛の音に瞳がちらつく。~
「あんたもな、按摩の目は蠣&size(9){かき};や云います。名物は蛤&size(9){はまぐり};じゃもの、別に何も、多い訳はないけれど、ここは新地&size(9){しんち};なり、旅籠屋のある町やに因って、つい、あの衆&size(9){しゅ};が、あちこちから稼ぎに来るわな。」~
「そうだ、成程新地&size(9){くるわ};だった。」となぜか一人で納得して、気の抜けたような片手を支&size(9){つ};く。~
「お師匠さん、あんた、これからその音声&size(9){のど};を芸妓屋&size(9){げいこや};の門&size(9){かど};で聞かしてお見やす。ほんに、人死&size(9){ひとじに};が出来ようも知れぬぜな。」と襟の処で、塗盆をくるりと廻す。~
「飛んだ合せかがみだね、人死が出来て堪&size(9){たま};るものか。第一、芸妓屋&size(9){げいしゃや};の前へは、うっかり立てねえ。」~
「なぜえ。」~
「悪くすると敵&size(9){かたき};に出会&size(9){でっくわ};す。」と投首&size(9){なげくび};する。~
「あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、芸妓&size(9){げいこ};ゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、仇&size(9){かたき};だすな。」~
「違った! 芸者の方で、私が敵さ。」~
「あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。」と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの気勢&size(9){けはい};にも暗い軒下を、からころ、からころ、駒下駄&size(9){こまげた};の音が、土間に浸込&size(9){しみこ};むように響いて来る。……と直ぐその足許&size(9){あしもと};を潜&size(9){くぐ};るように、按摩の笛が寂しく聞える。~
 門附は屹&size(9){きっ};と見た。~
「噂をすれば、芸妓&size(9){げいこ};はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。」~
「ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、可厭&size(9){いや};に煩&size(9){うるさ};く笛を吹くない。」~
 かたりと門&size(9){かど};の戸を外から開ける。~
「ええ、吃驚&size(9){びっくり};すら。」~
「今晩は、――饂飩六ツ急いでな。」と草履穿&size(9){ぞうりば};きの半纏着&size(9){はんてんぎ};、背中へ白く月を浴びて、赤い鼻をぬいと出す。~
「へい。」と筒抜けの高調子で、亭主帳場へ棒に突立&size(9){つッた};ち、~
「お方、そりゃ早うせぬかい。」~
 女房は澄ましたもので、~
「美しい跫音&size(9){あしおと};やな、どこの?」と聞く。~
「こないだ山田の新町から住替えた、こんの島家の新妓&size(9){しんこ};じゃ。」と言いながら、鼻赤の若い衆は、覗&size(9){のぞ};いた顔を外に曲げる。~
 と門附は、背後&size(9){うしろ};の壁へ胸を反らして、ちょっと伸上るようにして、戸に立つ男の肩越しに、皎&size(9){こう};とした月の廓&size(9){くるわ};の、細い通&size(9){とおり};を見透かした。~
 駒下駄はちと音低く、まだ、からころと響いたのである。~
「沢山&size(9){たんと};出なさるかな。」~
「まあ、こんの饂飩のようには行かぬで。」~
「その気で、すぐに届けますえ。」~
「はい頼んます。」と、男は返る。~
 亭主帳場から背後&size(9){うしろ};向きに、日和下駄&size(9){ひよりげた};を探って下り、がたりびしりと手当り強く、そこへ広蓋&size(9){ひろぶた};を出掛&size(9){だしか};ける。ははあ、夫婦二人のこの店、気の毒千万、御亭が出前持を兼ねると見えたり。~
「裏表とも気を注&size(9){つ};けるじゃ、可&size(9){え};いか、可いか。ちょっと道寄りをして来るで、可いか、お方。」~
 とそこいらじろじろと睨廻&size(9){ねめまわ};して、新地の月に提灯&size(9){ちょうちん};入&size(9){い};らず、片手懐にしたなりで、亭主が出前、ヤケにがっと戸を開けた。後&size(9){あと};を閉めないで、ひょこひょこ出て行&size(9){ゆ};く。~
 釜の湯気が颯&size(9){さっ};と分れて、門附の頬に影がさした。~
 女房横合から来て、~
「いつまで、うっかり見送ってじゃ、そんなに敵&size(9){かたき};が打たれたいの。」~
「女房&size(9){おかみ};さん、桑名じゃあ……芸者の箱屋は按摩かい。」と悚気&size(9){ぞっ};としたように肩を細く、この時やっと居直って、女房を見た、色が悪い。~
~
       十~
~
「そうさ、いかに伊勢の浜荻&size(9){はまおぎ};だって、按摩の箱屋というのはなかろう。私もなかろうと思うが、今向う側を何んとか屋の新妓&size(9){しんこ};とか云うのが、からんころんと通るのを、何心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、軒行燈&size(9){のきあんどん};では浅葱&size(9){あさぎ};になり、月影では青くなって、薄い紫の座敷着で、褄&size(9){つま};を蹴出&size(9){けだ};さず、ひっそりと、白い襟を俯向&size(9){うつむ};いて、足の運びも進まないように何んとなく悄&size(9){しお};れて行く。……その後&size(9){あと};から、鼠色の影法師。女の影なら月に地&size(9){つち};を這&size(9){は};う筈&size(9){はず};だに、寒い道陸神&size(9){どうろくじん};が、のそのそと四五尺離れた処を、ずっと前方&size(9){むこう};まで附添ったんだ。腰附、肩附、歩行&size(9){ある};く振&size(9){ふり};、捏&size(9){で};っちて附着&size(9){くッつ};けたような不恰好&size(9){ぶかっこう};な天窓&size(9){あたま};の工合、どう見ても按摩だね、盲人&size(9){めくら};らしい、めんない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云っちゃ可笑&size(9){おかし};い、盲目&size(9){めくら};になった箱屋かも知れないぜ。」~
「どんな風の、どれな。」~
 と門&size(9){かど};へ出そうにする。~
「いや、もう見えない。呼ばれた家&size(9){うち};へ入ったらしい。二人とも、ずっと前方&size(9){さき};で居なくなった。そうか。ああ、盲目の箱屋は居ねえのか。アまた殖&size(9){ふ};えたぜ……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この寒い月に積&size(9){つも};ったら、桑名の町は針の山になるだろう、堪&size(9){たま};らねえ。」~
 とぐいと呷&size(9){あお};って、~
「ええ、ヤケに飲め、一杯どうだ、女房&size(9){おかみ};さん附合いねえ。御亭主は留守だが、明放&size(9){あけっぱな};しよ、……構うものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主のような山の影が覗&size(9){のぞ};いてら。」~
 と門を振向き、あ、と叫んで、~
「来た、来た、来た、来やあがった、来やあがった、按摩々々、按摩。」~
 と呼吸&size(9){いき};も吐&size(9){つ};かず、続けざまに急込&size(9){せきこ};んだ、自分の声に、町の中に、ぬい、と立って、杖を脚許&size(9){あしもと};へ斜交&size(9){はすっか};いに突張&size(9){つッぱ};りながら、目を白く仰向&size(9){あおむ};いて、月に小鼻を照らされた流しの按摩が、呼ばれたものと心得て、そのまま凍附&size(9){いてつ};くように立留まったのも、門附はよく分らぬ状&size(9){さま};で、~
「影か、影か、阿媽&size(9){おっかあ};、ほんとの按摩か、影法師か。」~
 と激しく聞く。~
「ほんとなら、どうおしる。貴下&size(9){あんた};、そんなに按摩さんが恋しいかな。」~
「恋しいよ! ああ、」~
 と呼吸&size(9){いき};を吐&size(9){つ};いて、見直して、眉を顰&size(9){ひそ};めながら、声高&size(9){こわだか};に笑った。~
「ははははは、按摩にこがれてこの体&size(9){てい};さ。おお、按摩さん、按摩さん、さあ入ってくんねえ。」~
 門附は、撥&size(9){ばち};を除&size(9){の};けて、床几&size(9){しょうぎ};を叩いて、~
「一つ頼もう。女房&size(9){おかみ};さん、済まないがちょいと借りるぜ。」~
「この畳へ来て横におなりな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。」~
「へい。」~
 コトコトと杖の音。~
「ええ……とんと早や、影法師も同然なもので。」と掠&size(9){かす};れ声を白く出して、黒いけんちゅう羊羹色&size(9){ようかんいろ};の被布&size(9){ひふ};を着た、燈&size(9){ともしび};の影は、赤くその皺&size(9){しわ};の中へさし込んだが、日和下駄から消えても失&size(9){う};せず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を嗅分&size(9){かぎわ};けるように入った。~
「聞えたか。」~
 とこの門附は、権のあるものいいで、五六本銚子の並んだ、膳をまた傍&size(9){わき};へずらす。~
「へへへ」とちょっと鼻をすすって、ふん、とけなりそうに香&size(9){におい};を嗅&size(9){か};ぐ。~
「待ちこがれたもんだから、戸外&size(9){そと};を犬が走っても、按摩さんに見えたのさ。こう、悪く言うんじゃないぜ……そこへぬっくりと顕&size(9){あらわ};れたろう、酔っている、幻かと思った。」~
「ほんに待兼ねていなさったえ。あの、笛の音ばかり気にしなさるので、私もどうやら解&size(9){よ};めなんだが、やっと分ったわな、何んともお待遠でござんしたの。」~
「これは、おかみさま、御繁昌&size(9){ごはんじょう};。」~
「お客はお一人じゃ、ゆっくり療治してあげておくれ。それなりにお寝&size(9){よ};ったら、お泊め申そう。」~
 と言う。~
 按摩どの、けろりとして、~
「ええ、その気で、念入りに一ツ、掴&size(9){つかま};りましょうで。」と我が手を握って、拉&size(9){ひし};ぐように、ぐいと揉&size(9){も};んだ。~
「へい、旦那。」~
「旦那じゃねえ。ものもらいだ。」とまた呷&size(9){あお};る。~
 女房が竊&size(9){そっ};と睨&size(9){にら};んで、~
「滅相な、あの、言いなさる。」~
~
       十一~
~
「いや、横になるどころじゃない、沢山だ、ここで沢山だよ。……第一背中へ掴&size(9){つか};まられて、一呼吸&size(9){ひといき};でも応&size(9){こた};えられるかどうだか、実はそれさえ覚束&size(9){おぼつか};ない。悪くすると、そのまま目を眩&size(9){まわ};して打倒&size(9){ぶったお};れようも知れんのさ。体&size(9){てい};よく按摩さんに掴み殺されるといった形だ。」~
 と真顔で言う。~
「飛んだ事をおっしゃりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流のものでござります。鳩尾&size(9){きゅうび};に鍼&size(9){はり};をお打たせになりましても、決して間違いのあるようなものではござりませぬ。」と呆&size(9){あき};れたように、按摩の剥&size(9){む};く目は蒼&size(9){あお};かりけり。~
「うまい、まずいを言うのじゃない。いつの幾日&size(9){いくか};にも何時&size(9){なんどき};にも、洒落&size(9){しゃれ};にもな、生れてからまだ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。」~
「まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。」~
「そりゃ、張って張って仕様がないから、目にちらつくほど待ったがね、いざ……となると初産&size(9){ういざん};です、灸&size(9){きゅう};の皮切も同じ事さ。どうにも勝手が分らない。痛いんだか、痒&size(9){かゆ};いんだか、風説&size(9){うわさ};に因ると擽&size(9){くすぐ};ったいとね。多分私も擽ったかろうと思う。……ところがあいにく、母親&size(9){おふくろ};が操正しく、これでも密夫&size(9){まおとこ};の児&size(9){こ};じゃないそうで、その擽ったがりようこの上なし。……あれ、あんなあの、握飯&size(9){にぎりめし};を拵&size(9){こさ};えるような手附をされる、とその手で揉まれるかと思ったばかりで、もう堪&size(9){たま};らなく擽ったい。どうも、ああ、こりゃ不可&size(9){いけね};え。」~
 と脇腹へ両肱&size(9){りょうひじ};を、しっかりついて、掻竦&size(9){かいすく};むように脊筋を捻&size(9){よ};る。~
「ははははは、これはどうも。」と按摩は手持不沙汰な風。~
 女房更&size(9){あらた};めて顔を覗&size(9){のぞ};いて、~
「何んと、まあ、可愛らしい。」~
「同じ事を、可哀想&size(9){かわいそう};だ、と言ってくんねえ。……そうかと言って、こう張っちゃ、身も皮も石になって固&size(9){かたま};りそうな、背&size(9){せなか};が詰&size(9){つま};って胸は裂ける……揉んでもらわなくては遣切&size(9){やりき};れない。遣れ、構わない。」~
 と激しい声して、片膝を屹&size(9){きっ};と立て、~
「殺す気で蒐&size(9){かか};れ。こっちは覚悟だ、さあ。ときに女房&size(9){おかみ};さん、袖摺&size(9){そです};り合うのも他生&size(9){たしょう};の縁ッさ。旅空掛けてこうしたお世話を受けるのも前&size(9){さき};の世の何かだろう、何んだか、おなごりが惜&size(9){おし};いんです。掴殺&size(9){つかみころ};されりゃそれきりだ、も一つ憚&size(9){はばか};りだがついでおくれ、別れの杯になろうも知れん。」~
 と雫&size(9){しずく};を切って、ついと出すと、他愛なさもあんまりな、目の色の変りよう、眦&size(9){まなじり};も屹&size(9){きっ};となったれば、女房は気を打たれ、黙然&size(9){だんまり};でただ目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)&size(9){みは};る。~
「さあ按摩さん。」~
「ええ、」~
「女房&size(9){おかみ};さん酌&size(9){つ};いどくれよ!」~
「はあ、」と酌をする手がちと震えた。~
 この茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であった。~
 がたがたと身震いしたが、面&size(9){おもて};は幸&size(9){さいわい};に紅潮して、~
「ああ、腸&size(9){はらわた};へ沁透&size(9){しみとお};る!」~
「何かその、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」と、これもおどつく。~
「まず、」~
 と突張&size(9){つッぱ};った手をぐたりと緩めて、~
「生命&size(9){いのち};に別条は無さそうだ、しかし、しかし応&size(9){こた};える。」~
 とがっくり俯向&size(9){うつむ};いたのが、ふらふらした。~
「月は寒し、炎のようなその指が、火水となって骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。肉&size(9){み};は燃える、血は冷える。あっ、」と言って、両手を落した。~
 吃驚&size(9){びっくり};して按摩が手を引く、その嘴&size(9){くちばし};や鮹&size(9){たこ};に似たり。~
 兄哥&size(9){あにい};は、しっかり起直って、~
「いや、手をやすめず遣ってくれ、あわれと思って静&size(9){しずか};に……よしんば徐&size(9){そっ};と揉まれた処で、私は五体が砕ける思いだ。~
 その思いをするのが可厭&size(9){いや};さに、いろいろに悩んだんだが、避&size(9){よ};ければ摺着&size(9){すりつ};く、過ぎれば引張&size(9){ひっぱ};る、逃げれば追う。形が無ければ声がする……ピイピイ笛は攻太鼓&size(9){せめだいこ};だ。こうひしひしと寄着&size(9){よッつ};かれちゃ、弱いものには我慢が出来ない。淵&size(9){ふち};に臨んで、崕&size(9){がけ};の上に瞰下&size(9){みお};ろして踏留&size(9){ふみとど};まる胆玉&size(9){きもだま};のないものは、いっその思い、真逆&size(9){まっさかさま};に飛込みます。破れかぶれよ、按摩さん、従兄弟&size(9){いとこ};再従兄弟&size(9){はとこ};か、伯父甥&size(9){おじおい};か、親類なら、さあ、敵&size(9){かたき};を取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺しているんだ。」~
~
       十二~
~
「今からちょうど三年前。……その年は、この月から一月後&size(9){おくれ};の師走&size(9){しわす};の末に、名古屋へ用があって来た。ついでと言っては悪いけれど、稼&size(9){かせぎ};の繰廻しがどうにか附いて、参宮が出来るというのも、お伊勢様の思召&size(9){おぼしめし};、冥加&size(9){みょうが};のほど難有&size(9){ありがた};い。ゆっくり古市&size(9){ふるいち};に逗留&size(9){とうりゅう};して、それこそついでに、……浅熊山&size(9){あさまやま};の雲も見よう、鼓ヶ嶽&size(9){たけ};の調&size(9){しらべ};も聞こう。二見&size(9){ふたみ};じゃ初日を拝んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上郡&size(9){かみごおり};から志摩へ入って、日和山&size(9){ひよりやま};を見物する。……海が凪&size(9){な};いだら船を出して、伊良子&size(9){いらこ};ヶ崎の海鼠&size(9){なまこ};で飲もう、何でも五日六日は逗留というつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊った。驚くべからず――まさかその時は私だって、浴衣に袷&size(9){あわせ};じゃ居やしない。~
 着換えに紋付&size(9){もんつき};の一枚も持った、縞&size(9){しま};で襲衣&size(9){かさね};の若旦那さ。……ま、こう、雲助が傾城買&size(9){けいせいがい};の昔を語る……負惜&size(9){まけおし};みを言うのじゃないよ。何も自分の働きでそうした訳じゃないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりという、……私が稼業じゃ江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云う、少兀&size(9){すこはげ};の苦い面&size(9){つら};した阿父&size(9){おやじ};がある。~
 いや、その顔色&size(9){がんしょく};に似合わない、気さくに巫山戯&size(9){ふざけ};た江戸児&size(9){えどッこ};でね。行年&size(9){ぎょうねん};その時六十歳を、三つと刻んだはおかしいが、数え年のサバを算&size(9){よ};んで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言って、禅&size(9){ぜん};の問答をするように、指を三本、ひょいと出してギロリと睨&size(9){にら};む……五十七歳とかけと云うのさ。可&size(9){い};いかね、その気だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、阿父&size(9){おとっ};さんが大の禁句さ。……与一兵衛じゃあるめえし、汝&size(9){てめえ};、定九郎&size(9){さだくろう};のように呼ぶなえ、と唇を捻曲&size(9){ねじま};げて、叔父さんとも言わせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。~
 この叔父さんのお供だろう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は続く。どこへ行っても女はふらない。師走の山路に、嫁菜が盛りで、しかも大輪&size(9){おおりん};が咲いていた。~
 とこの桑名、四日市、亀山と、伊勢路へ掛&size(9){かか};った汽車の中から、おなじ切符のたれかれが――その催&size(9){もよおし};について名古屋へ行った、私たちの、まあ……興行か……その興行の風説&size(9){うわさ};をする。嘘にもどうやら、私の評判も可&size(9){よ};さそうな。叔父はもとより。……何事も言うには及ばん。――私が口で饒舌&size(9){しゃべ};っては、流儀の恥になろうから、まあ、何某&size(9){なにがし};と言ったばかりで、世間は承知すると思って、聞きねえ。~
 ところがね、その私たちの事を言うついでに、この伊勢へ入ってから、きっと一所に出る、人の名がある。可いかい、山田の古市に惣市&size(9){そういち};と云う按摩鍼&size(9){あんまはり};だ。」~
 門附はその名を言う時、うっとりと瞳を据えた。背&size(9){せなか};を抱&size(9){いだ};くように背後&size(9){うしろ};に立った按摩にも、床几&size(9){しょうぎ};に近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、凝&size(9){じっ};と天井を仰ぎながら、胸前&size(9){むなさき};にかかる湯気を忘れたように手で捌&size(9){さば};いて、~
「按摩だ、がその按摩が、旧&size(9){もと};はさる大名に仕えた士族の果&size(9){はて};で、聞きねえ。私等が流儀と、同&size(9){おんな};じその道の芸の上手。江戸の宗家も、本山も、当国古市において、一人で兼ねたり、という勢&size(9){いきおい};で、自ら宗山&size(9){そうざん};と名告&size(9){なの};る天狗&size(9){てんぐ};。高慢も高慢だが、また出来る事も出来る。……東京の本場から、誰も来て怯&size(9){おびや};かされた。某&size(9){それがし};も参って拉&size(9){ひし};がれた。あれで一眼でも有ろうなら、三重県に居る代物&size(9){しろもの};ではない。今度名古屋へ来た連中もそうじゃ、贋物&size(9){にせもの};ではなかろうから、何も宗山に稽古をしてもらえとは言わぬけれど、鰻&size(9){うなぎ};の他&size(9){ほか};に、鯛&size(9){たい};がある、味を知って帰れば可いに。――と才発&size(9){さいはじ};けた商人&size(9){あきんど};風のと、でっぷりした金の入歯の、土地の物持とも思われる奴の話したのが、風説&size(9){うわさ};の中でも耳に付いた。~
 叔父はこくこく坐睡&size(9){いねむり};をしていたっけ。私&size(9){わっし};あ若気だ、襟巻で顔を隠して、睨&size(9){にら};むように二人を見たのよ、ね。~
 宿の藤屋へ着いてからも、わざと、叔父を一人で湯へ遣り……女中にもちょっと聞く。……挨拶&size(9){あいさつ};に出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云う、これこれした芸人が居るか、と聞くと、誰の返事も同じ事。思ったよりは高名で、現に、この頃も藤屋に泊った、何某侯&size(9){なにがしこう};の御隠居の御召に因って、上下&size(9){かみしも};で座敷を勤&size(9){し};た時、(さてもな、鼓ヶ嶽が近いせいか、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、};と御賞美。~
(的等&size(9){てきら};にも聞かせたい。)と宗山が言われます、とちょろりと饒舌&size(9){しゃべ};った。私&size(9){わっし};が夥間&size(9){なかま};を――(的等。)と言う。~
 的等の一人&size(9){いちにん};、かく言う私だ……」~
~
       十三~
~
「なお聞けば、古市のはずれに、その惣市、小料理屋の店をして、妾&size(9){めかけ};の三人もある、大した勢&size(9){いきおい};だ、と言うだろう。――何を!……按摩の分際で、宗家の、宗の字、この道の、本山が凄&size(9){すさま};じい。~
 こう、按摩さん、舞台の差&size(9){さし};は堪忍&size(9){かに};してくんな。」~
 と、竊&size(9){そっ};と痛そうに胸を圧&size(9){おさ};えた。~
「後で、よく気がつけば、信州のお百姓は、東京の芝居なんぞ、ほんとの猪&size(9){しし};はないとて威張る。……な、宮重大根が日本一なら、蕪&size(9){かぶ};の千枚漬も皇国無双で、早く言えば、この桑名の、焼蛤も三都無類さ。~
 その気で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若気の一図&size(9){いちず};に苛々&size(9){いらいら};して、第一その宗山が気に入らない。(的等。)もぐっと癪(しゃく};に障れば、妾三人で赫&size(9){かっ};とした。~
 維新以来の世がわりに、……一時&size(9){ひとしきり};私等の稼業がすたれて、夥間&size(9){なかま};が食うに困ったと思え。弓矢取っては一万石、大名株の芸人が、イヤ楊枝&size(9){ようじ};を削る、かるめら焼を露店で売る。……蕎麦屋&size(9){そばや};の出前持になるのもあり、現在私がその小父者&size(9){おじご};などは、田舎の役場に小使いをして、濁り酒のかすに酔って、田圃&size(9){たんぼ};の畝&size(9){あぜ};に寝たもんです。……~
 その妹だね、可いかい、私の阿母&size(9){おふくろ};が、振袖の年頃を、困る処へ附込んで、小金&size(9){こがね};を溜めた按摩めが、ちとばかりの貸を枷&size(9){かせ};に、妾にしよう、と追い廻わす。――危&size(9){あぶな};く駒下駄を踏返して、駕籠&size(9){かご};でなくっちゃ見なかった隅田川へ落ちようとしたっさ。――その話にでも嫌いな按摩が。~
 ええ。~
 待て、見えない両眼で、汝&size(9){うぬ};が身の程を明&size(9){あかる};く見るよう、療治を一つしてくりょう。~
 で、翌日&size(9){あくるひ};は謹んで、参拝した。~
 その尊さに、その晩ばかりはちっとの酒で宵寝をした、叔父の夜具の裾を叩いて、枕許&size(9){まくらもと};へ水を置き、~
(女中、そこいらへ見物に、)~
 と言った心は、穴を圧&size(9){おさ};えて、宗山を退治る料簡&size(9){りょうけん};。~
 と出た、風が荒い。荒いがこの風、五十鈴川&size(9){いすずがわ};で劃&size(9){かぎ};られて、宇治橋の向うまでは吹くまいが、相の山の長坂を下から哄&size(9){どっ};と吹上げる……これが悪く生温&size(9){なまぬる};くって、灯&size(9){あかり};の前じゃ砂が黄色い。月は雲の底に淀&size(9){どんよ};りしている。神路山&size(9){かみじやま};の樹は蒼&size(9){あお};くても、二見の波は白かろう。酷&size(9){ひど};い勢&size(9){いきおい};、ぱっと吹くので、たじたじとなる。帽子が飛ぶから、そのまま、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ孕&size(9){はら};んで、坊さんが忍ぶように羽織の袖が飜々&size(9){ひらひら};する。着換えるのも面倒で、昼間のなりで、神詣&size(9){かみもう};での紋付さ。――袖畳みに懐中&size(9){ふところ};へ捻込&size(9){ねじこ};んで、何の洒落&size(9){しゃれ};にか、手拭で頬被りをしたもんです。~
 門附になる前兆さ、状&size(9){ざま};を見やがれ。」と片手を袖へ、二の腕深く突込&size(9){つッこ};んだ。片手で狙&size(9){ねら};うように茶碗を圧&size(9){おさ};えて、~
「ね、古市へ行くと、まだ宵だのに寂然&size(9){ひっそり};している。……軒が、がたぴしと鳴って、軒行燈&size(9){のきあんどん};がばッばッ揺れる。三味線&size(9){さみせん};の音もしたけれど、吹&size(9){ふき};さらわれて大屋根へ猫の姿でけし飛ぶようさ。何の事はない、今夜のこの寂しい新地へ、風を持って来て、打着&size(9){ぶッつ};けたと思えば可い。~
 一軒、地&size(9){つち};のちと窪&size(9){くぼ};んだ処に、溝板&size(9){どぶいた};から直ぐに竹の欄干&size(9){てすり};になって、毛氈&size(9){もうせん};の端は刎上&size(9){はねあが};り、畳に赤い島が出来て、洋燈&size(9){ランプ};は油煙に燻&size(9){くすぶ};ったが、真白&size(9){まっしろ};に塗った姉さんが一人居る、空気銃、吹矢の店へ、ひょろりとして引掛&size(9){ひっかか};ったね。~
 取着&size(9){とッつ};きに、肱&size(9){ひじ};を支&size(9){つ};いて、怪しく正面に眼&size(9){まなこ};の光る、悟った顔の達磨様&size(9){だるまさま};と、女の顔とを、七分三分に狙いながら、~
(この辺に宗山ッて按摩は居るかい。)とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて行&size(9){ゆ};こうたってちっとも勝手が知れないから。~
(先生様かね、いらっしゃります。)と何と、(的等。)の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。~
(実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。)と尋ねると、大熨斗&size(9){おおのし};を書いた幕の影から、色の蒼&size(9){あお};い、鬢&size(9){びん};の乱れた、痩&size(9){や};せた中年増&size(9){ちゅうどしま};が顔を出して、(知己&size(9){ちかづき};のない、旅の方にはどうか知らぬ、お望&size(9){のぞみ};なら、内から案内して上げましょうか。)と言う。~
 茶代を奮発&size(9){はず};んで、頼むと言った。~
(案内して上げなはれ、可&size(9){い};い旦那や、気を付けて、)と目配&size(9){めくばせ};をする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を跨&size(9){また};いで出る奴さ。」~
~
       十四~
~
「両袖で口を塞&size(9){ふさ};いで、風の中を俯向&size(9){うつむ};いて行&size(9){ゆ};く。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を鎖&size(9){さ};したが、怪しげな行燈&size(9){あんどん};の煽&size(9){あお};って見える、ごたごたした両側の長屋の中に、溝板&size(9){どぶいた};の広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。~
 軒に、御手軽御料理&size(9){おんりょうり};としたのが、宗山先生の住居&size(9){すまい};だった。~
(お客様。)と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙&size(9){ひま};らしい。……上框&size(9){あがりかまち};の正面が、取着&size(9){とッつ};きの狭い階子段&size(9){はしごだん};です。~
(座敷は二階かい、)と突然&size(9){いきなり};頬被&size(9){ほおかむり};を取って上ろうとすると、風立つので燈&size(9){あかり};を置かない。真暗&size(9){まっくら};だからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の釣洋燈&size(9){つりランプ};がぱっと消えた。~
 そこへ、中仕切&size(9){なかじきり};の障子が、次の室&size(9){ま};の燈&size(9){あかり};にほのめいて、二枚見えた。真中&size(9){まんなか};へ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の大&size(9){おおき};い影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に掴&size(9){つか};まって、坊主を揉&size(9){も};んでるのが華奢&size(9){きゃしゃ};らしい島田髷&size(9){まげ};で、この影は、濃く映った。~
 火燧&size(9){マッチ};々々、と女どもが云う内に、~
&size(9){えへん};と咳&size(9){せきばらい};を太くして、大&size(9){おおき};な手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて煙管&size(9){きせる};が映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。此奴&size(9){こいつ};、寝&size(9){ね};ん寝子&size(9){ねこ};の広袖&size(9){どてら};を着ている。~
 やっと台洋燈を点&size(9){つ};けて、~
(お待遠でした、さあ、)~
 って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の背後&size(9){うしろ};へ火鉢を離れて、俯向&size(9){うつむ};いて坐った。~
(あの娘&size(9){こ};で可&size(9){い};いのかな、他&size(9){ほか};にもござりますよって。)~
 と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も大略&size(9){あらまし};分った、と思うと、其奴&size(9){そいつ};が~
(お誂&size(9){あつらえ};は。)~
 と大&size(9){おおき};な声。~
(あっさりしたものでちょっと一口。そこで……)~
 実は……御主人の按摩さんの、咽喉&size(9){のど};が一つ聞きたいのだ、と話した。~
(咽喉?)……と其奴がね、異&size(9){おつ};に蔑&size(9){さげす};んだ笑い方をしたものです。~
(先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。)~
 で、地獄の手曳&size(9){てびき};め、急に衣紋繕&size(9){えもんづくろ};いをして下りる。しばらくして上って来た年紀&size(9){とし};の少&size(9){わか};い十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥溜&size(9){はきだめ};に水仙です、鶴です。帯も襟も唐縮緬&size(9){とうちりめん};じゃあるが、もみじのように美しい。結綿&size(9){いいわた};のふっくりしたのに、浅葱&size(9){あさぎ};鹿&size(9){か};の子の絞高&size(9){しぼだか};な手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝許&size(9){ひざもと};で沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰&size(9){なまず};の鰭&size(9){ひれ};で濁ろう、と可哀&size(9){あわれ};に思う。この娘が紫の袱紗&size(9){ふくさ};に載&size(9){の};せて、薄茶を持って来たんです。~
 いや、御本山の御見識、その咽喉&size(9){のど};を聞きに来たとなると……客にまず袴&size(9){はかま};を穿&size(9){は};かせる仕向&size(9){しむけ};をするな、真剣勝負面白い。で、こっちも勢&size(9){いきおい};、懐中&size(9){ふところ};から羽織を出して着直したんだね。~
 やがて、また持出した、杯&size(9){さかずき};というのが、朱塗に二見ヶ浦を金蒔絵&size(9){きんまきえ};した、杯台に構えたのは凄&size(9){すご};かろう。~
(まず一ツ上って、こっちへ。)~
 と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、頗&size(9){すこぶ};る権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その容子&size(9){ようす};が膝も腹もずんぐりして、胴中&size(9){どうなか};ほど咽喉&size(9){のど};が太い。耳の傍&size(9){わき};から眉間&size(9){みけん};へ掛けて、小蛇のように筋が畝&size(9){うね};くる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を噛&size(9){か};むとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと盲&size(9){し};い、右が白眼&size(9){しろまなこ};で、ぐるりと飜&size(9){かえ};った、しかも一面、念入の黒痘瘡&size(9){くろあばた};だ。~
 が、争われないのは、不具者&size(9){かたわ};の相格&size(9){そうごう};、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、猪&size(9){い};の熊入道もがっくり投首の抜衣紋&size(9){ぬきえもん};で居たんだよ。」~
~
       十五~
~
「いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。」~
 と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍&size(9){かたわら};に柔かな髪の房&size(9){ふっさ};りした島田の鬢&size(9){びん};を重そうに差俯向&size(9){さしうつむ};く……襟足白く冷たそうに、水紅色&size(9){ときいろ};の羽二重&size(9){はぶたえ};の、無地の長襦袢&size(9){ながじゅばん};の肩が辷&size(9){すべ};って、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋&size(9){なよ};やかに、打悄&size(9){うちしお};れた、残んの嫁菜花&size(9){よめな};の薄紫、浅葱&size(9){あさぎ};のように目に淡い、藤色縮緬&size(9){ちりめん};の二枚着で、姿の寂しい、二十&size(9){はたち};ばかりの若い芸者を流盻&size(9){しりめ};に掛けつつ、~
「このお座敷は貰&size(9){もろ};うて上げるから、なあ和女&size(9){あんた};、もうちゃっと内へお去&size(9){い};にや。……島家の、あの三重&size(9){みえ};さんやな、和女、お三重さん、お帰り!」~
 と屹&size(9){きっ};と言う。~
「お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、小女&size(9){こおんな};ばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている中&size(9){うち};や、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の許&size(9){とこ};を見くびったか、酌をせい、と仰有&size(9){おっしゃ};っても、浮々&size(9){うきうき};とした顔はせず……三味線&size(9){さみせん};聞こうとおっしゃれば、鼻の頭&size(9){さき};で笑うたげな。傍&size(9){そば};に居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。~
 先刻&size(9){さっき};から、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の音&size(9){ね};をさしておくれ。お客様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋燭&size(9){ろうそく};の灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、曲&size(9){まがり};なりにもお座つき一つ弾けぬ芸妓&size(9){げいこ};がどこにある。~
 よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。貴客&size(9){あなた};がたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。」~
 と優しいのがツンと立って、襖際&size(9){ふすまぎわ};に横にした三味線を邪険に取って、衝&size(9){つ};と縦様&size(9){たてざま};に引立てる。~
「ああれ。」~
 はっと裳&size(9){もすそ};を摺&size(9){す};らして、取縋&size(9){とりすが};るように、女中の膝を竊&size(9){そっ};と抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、芍薬&size(9){しゃくやく};の花の散るに似て、~
「堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、」と、呼吸&size(9){いき};の切れる声が湿&size(9){うる};んで、~
「お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、」~
 と言&size(9){ことば};が途絶えた。……~
「今しがたも、な、他家&size(9){よそ};のお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、衣服&size(9){きもの};を脱いで踊るんなら可&size(9){よし};、可厭&size(9){いや};なら下げると……私一人帰されて、主人の家&size(9){うち};へ戻りますと、直ぐに酷&size(9){ひど};いめに逢いました、え。~
 三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣物&size(9){きもの};が脱げないなら、内で脱げ、引剥&size(9){ひっぱ};ぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突伏&size(9){つッぷ};せられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄杓&size(9){ひしゃく};で水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。~
 こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、炬燵&size(9){こたつ};で温&size(9){あたた};めた襦袢&size(9){じゅばん};を着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。~
 勤めるたって、どうしましょう……踊は立って歩行&size(9){ある};くことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……~
 不具&size(9){かたわ};でもないに情&size(9){なさけ};ない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が怯&size(9){ひ};けて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……~
 このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。」~
 と袖を擦&size(9){さす};って、一生懸命、うるんだ目許&size(9){めもと};を見得もなく、仰向&size(9){あおむ};けになって女中の顔。……色が見る見る柔&size(9){やわら};いで、突いて立った三味線の棹&size(9){さお};も撓&size(9){たわ};みそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある綾&size(9){あや};の帯の結目&size(9){むすびめ};で、なおその女中の袂&size(9){たもと};を圧&size(9){おさ};えて。……~
~
       十六~
~
 お三重は、そして、更&size(9){あらた};めて二箇&size(9){ふたり};の老人に手を支&size(9){つ};いた。~
「芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、極&size(9){きま};りが悪うございまして、お銚子&size(9){ちょうし};を持ちますにも手が震えてなりません。下婢&size(9){おさん};をお傍&size(9){そば};へお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を敲&size(9){たた};きましょう、な、どうぞな、お肩を揉&size(9){も};まして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。」~
 と惜気&size(9){おしげ};もなく、前髪を畳につくまで平伏&size(9){ひれふ};した。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。~
 本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、~
「子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……」と火箸に手を置く。~
 所在なさそうに半眼で、正面&size(9){まとも};に臨風榜可小楼&size(9){りんぷうぼうかしょうろう};を仰ぎながら、程を忘れた巻莨&size(9){まきたばこ};、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ抛&size(9){ほう};って、弥次郎兵衛は一つ咽&size(9){む};せた。~
「ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その娘&size(9){こ};が気が詰&size(9){つま};ろうから、どこか小座敷へ休まして皆&size(9){みんな};で饂飩でも食べてくれ。私が驕&size(9){おご};る。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて可&size(9){い};い時分に帰すが可い。」と冷くなった猪口&size(9){ちょこ};を取って、寂しそうに衝&size(9){つ};と飲んだ。~
 女中は、これよりさき、支&size(9){つ};いて突立&size(9){つッた};ったその三味線を、次の室&size(9){ま};の暗い方へ密&size(9){そっ};と押遣&size(9){おしや};って、がっくりと筋が萎&size(9){な};えた風に、折重なるまで摺寄&size(9){すりよ};りながら、黙然&size(9){だんま};りで、燈&size(9){ともしび};の影に水のごとく打揺&size(9){うちゆら};ぐ、お三重の背中を擦&size(9){さす};っていた。~
「島屋の亭が、そんな酷&size(9){ひど};い事をしおるかえ。可いわ、内の御隠居にそう言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、ほんにまあ、よう和女&size(9){あんた};、顔へ疵&size(9){きず};もつけんの。」~
 と、かよわい腕&size(9){かいな};を撫下&size(9){なでお};ろす。~
「ああ、それも売物じゃいうだけの斟酌&size(9){しんしゃく};に違いないな。……お客様に礼言いや。さ、そして、何かを話しがてら、御隠居の炬燵&size(9){こたつ};へおいで。切下髪&size(9){きりさげがみ};に頭巾&size(9){ずきん};被&size(9){かぶ};って、ちょうどな、羊羹&size(9){ようかん};切って、茶を食べてや。~
 けども、」~
 とお三重の、その清らかな襟許&size(9){えりもと};から、優しい鬢毛&size(9){びんのけ};を差覗&size(9){さしのぞ};くように、右瞻左瞻&size(9){とみこうみ};て、~
「和女(あんた)、因果やな、ほんとに、三味線は弾けぬかい。ペンともシャンとも。」~
 で、わざと慰めるように吻々&size(9){ほほ};と笑った。~
 人の情&size(9){なさけ};に溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はっと泣いた声の下で、~
「はい、願掛けをしましても、塩断ちまでしましたけれど、どうしても分りません、調子が一つ出来ません。性来&size(9){うまれつき};でござんしょう。」~
 師走の闇夜&size(9){やみよ};に白梅&size(9){しらうめ};の、面&size(9){おもて};を蝋&size(9){ろう};に照らされる。~
「踊もかい。」~
「は……い、」~
「泣くな、弱虫、さあ一つ飲まんか! 元気をつけて。向後どこへか呼ばれた時は、怯&size(9){おび};えるなよ。気の持ちようでどうにもなる。ジャカジャカと引鳴らせ、糸瓜&size(9){へちま};の皮で掻廻すだ。琴&size(9){こと};も胡弓&size(9){こきゅう};も用はない。銅鑼鐃※(「金+祓のつくり」、第3水準1-93-6)&size(9){どらにょうはち};を叩けさ。簫&size(9){しょう};の笛をピイと遣れ、上手下手は誰にも分らぬ。それなら芸なしとは言われまい。踊が出来ずば体操だ。一、」~
 と左右へ、羽織の紐の断&size(9){き};れるばかり大手を拡げ、寛濶&size(9){かんかつ};な胸を反らすと、~
「二よ。」と、庄屋殿が鉄砲二つ、ぬいと前へ突出いて、励ますごとく呵々&size(9){からから};と弥次郎兵衛、~
「これ、その位な事は出来よう。いや、それも度胸だな。見た処、そのように気が弱くては、いかな事も遣&size(9){やっ};つけられまい、可哀相に。」と声が掠&size(9){かす};れる。~
「あの……私が、自分から、言います事は出来ません、お恥&size(9){はずか};しいのでございますが、舞の真似&size(9){まね};が少しばかり立てますの、それもただ一ツだけ。」~
 と云う顔を俯向&size(9){うつむ};いて、恥かしそうにまた手を支&size(9){つ};く。~
「舞えるかえ、舞えるのかえ。」~
 と女中は嬉しそうな声をして、~
「おお、踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ。このお座敷、遠慮は入&size(9){い};らん。待ちなはれ、地が要ろう。これ喜野、あすこの広間へ行ってな、内の千がそう言うたて、誰でも弾けるのを借りて来やよ。」~
 とぽんとしていた小女の喜野が立とうとする、と、名告&size(9){なの};ったお千が、打傾いて、優しく口許をちょいと曲げて傾いて、~
「待って、待って、」~
~
       十七~
~
「いつもと違う。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でのうては出られぬ、……お国のためやで、馴&size(9){な};れぬ苦労もしなさんす。新兵さんの送別会や。女衆が大勢居ても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるもの。~
 可いわ、旅の恥は掻棄てを反対&size(9){あべこべ};なが、一泊りのお客さんの前、私が三味線を掻廻そう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言うも行過ぎた……有るものとて無いけれど、どうにか間に合わせたいものではある。」~
「あら、姉さん。」~
 と、三味線取りに立とうとした、お千の膝を、袖で圧&size(9){おさ};えて、ちとはなじろんだ、お三重の愛嬌&size(9){あいきょう};。~
「糸に合うなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の真似なんです。」と、言いも果てず、お千の膝に顔を隠して、小父者&size(9){おじご};と捻平に背向&size(9){そがい};になった初々しさ。包ましやかな姿ながら、身を揉&size(9){も};む姿の着崩れして、袖を離れて畳に長い、襦袢の袖は媚&size(9){なまめ};かしい。~
「何、その舞を舞うのかい。」と弥次郎兵衛は一言云う。~
 捻平膝の本をばったり伏せて、~
「さて、飲もう。手酌でよし。ここで舞なぞは願い下げじゃ。せめてお題目の太鼓にさっしゃい。ふあはははは、」となぜか皺枯&size(9){しわが};れた高笑い、この時ばかり天井に哄&size(9){どっ};と響いた。~
「捻平さん、捻さん。」~
「おお。」~
 と不性&size(9){ぶしょう};げにやっと応&size(9){こた};える。~
「何も道中の話の種じゃ、ちょっと見物をしようと思うね。」~
「まず、ご免じゃ。」~
「さらば、其許&size(9){そのもと};は目を瞑&size(9){ねむ};るだ。」~
「ええ、縁起の悪い事を言わさる。……明日にも江戸へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、死んでもなかなか目は瞑&size(9){ねむ};らぬ。」~
「さてさて捻&size(9){ねじ};るわ、ソレそこが捻平さね。勝手になされ。さあ、あの娘&size(9){こ};立ったり、この爺様&size(9){じいさま};に遠慮は入らぬぞ。それ、何にも芸がないと云うて肩腰をさすろうと卑下をする。どんな真似でも一つ遣れば、立派な芸者の面目&size(9){めんぼく};が立つ。祝儀取るにも心持が可&size(9){よ};かろうから、是非見たい。が、しかし心のままにしなよ、決して勤&size(9){つとめ};を強いるじゃないぞ。」~
「あんなに仰有&size(9){おっしゃ};って下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まずうても大事ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。」~
「あい、」~
 とわずかに身を起すと、紫の襟を噛&size(9){か};むように――ふっくりしたのが、あわれに窶&size(9){やつ};れた――頤&size(9){おとがい};深く、恥かしそうに、内懐&size(9){うちぶところ};を覗&size(9){のぞ};いたが、膚身&size(9){はだみ};に着けたと思わるる、……胸やや白き衣紋&size(9){えもん};を透かして、濃い紫の細い包、袱紗&size(9){ふくさ};の縮緬&size(9){ちりめん};が飜然&size(9){ひらり};と飜&size(9){かえ};ると、燭台に照って、颯&size(9){さっ};と輝く、銀の地の、ああ、白魚&size(9){しらうお};の指に重そうな、一本の舞扇。~
 晃然&size(9){きらり};とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪&size(9){ぎょくさん};のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐&size(9){でしお};の波の影、静&size(9){しずか};に照々&size(9){てらてら};と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。~
 また川口の汐加減&size(9){しおかげん};、隣の広間の人動揺&size(9){ひとどよ};めきが颯と退&size(9){ひ};く。~
 と見れば皎然&size(9){こうぜん};たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青&size(9){こんじょう};の月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、~
「――その時あま人申様&size(9){もうすよう};、もしこのたまを取得たらば、この御子&size(9){みこ};を世継の御位&size(9){みくらい};になしたまえと申&size(9){もうし};しかば、子細&size(9){しさい};あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜&size(9){おし};からじと、千尋&size(9){ちひろ};のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」~
 と調子が緊&size(9){しま};って、~
「……ひきあげたまえと約束し、一&size(9){ひとつ};の利剣を抜持って、」~
 と扇をきりりと袖を直す、と手練&size(9){てだれ};ぞ見ゆる、自&size(9){おのず};から、衣紋の位に年長&size(9){た};けて、瞳を定めたその顔&size(9){かんばせ};。硝子&size(9){がらす};戸越に月さして、霜の川浪照添&size(9){てりそ};う俤&size(9){おもかげ};。膝立据&size(9){たてす};えた畳にも、燭台&size(9){しょくだい};の花颯と流るる。~
「ああ、待てい。」~
 と捻平、力の籠&size(9){こも};った声を掛けた。~
~
       十八~
~
 で、火鉢をずっと傍&size(9){そば};へ引いて、~
「女中、もちっとこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。その、鉄瓶をはずせば可&size(9){よ};し。」と捻平がいいつける。~
 この場合なり、何となく、お千も起居&size(9){たちい};に身体&size(9){からだ};が緊&size(9){しま};った。~
 静&size(9){しずか};に炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革鞄&size(9){かばん};などは次の室&size(9){ま};へ……それだけ床の間に差置いた……車の上でも頸&size(9){うなじ};に掛けた風呂敷包を、重いもののように両手で柔&size(9){やわら};かに取って、膝の上へ据えながら、お千の顔を除&size(9){よ};けて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつつ、~
「ああ、これ、お三重さんとか言うの、そのお娘&size(9){こ};、手を上げられい。さ、手を上げて、」~
 と言う。……お三重は利剣で立とうとしたのを、慌&size(9){あわただ};しく捻平に留められたので、この時まで、差開いたその舞扇が、唇の花に霞むまで、俯向&size(9){うつむ};いた顔をひたと額につけて、片手を畳に支&size(9){つ};いていた。こう捻平に声懸けられて、わずかに顔を振上げながら、きりきりと一まず閉じると、その扇を畳むに連れて、今まで、濶&size(9){かっ};と瞳を張って見据えていた眼&size(9){まなこ};を、次第に塞&size(9){ふさ};いだ弥次郎兵衛は、ものも言わず、火鉢のふちに、ぶるぶると震う指を、と支えた態&size(9){なり};の、巻莨&size(9){まきたばこ};から、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。~
 捻平座蒲団&size(9){さぶとん};を一膝&size(9){ひとひざ};出て、~
「いや、更&size(9){あらた};めて、熟&size(9){とく};と、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の謡&size(9){うたい};の、気組みと、その形&size(9){かた};。教えも教えた、さて、習いも習うたの。~
 こうまでこれを教うるものは、四国の果&size(9){はて};にも他&size(9){ほか};にはあるまい。あらかた人は分ったが、それとなく音信&size(9){たより};も聞きたい。の、其許&size(9){そこ};も黙って聞かっしゃい。」~
 と弥次が方&size(9){かた};に、捻平目遣&size(9){めづか};いを一つして、~
「まず、どうして、誰から、御身&size(9){おみ};は習うたの。」~
「はい、」~
 と弱々と返事した。お三重はもう、他愛&size(9){たわい};なく娘になって、ほろりとして、~
「あの、前刻&size(9){さっき};も申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの三味線&size(9){さみせん};のテンもツンも分りません。この間まで居&size(9){お};りました、山田の新町の姉さんが、朝と昼と、手隙&size(9){てすき};な時は晩方も、日に三度ずつも、あの噛&size(9){か};んで含めて、胸を割って刻込むように教えて下すったんでございますけれど、自分でも悲しい。……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へ滑&size(9){すべ};って、とぼけたような音&size(9){ね};がします。~
 撥&size(9){ばち};で咽喉&size(9){のど};を引裂かれ、煙管&size(9){きせる};で胸を打たれたのも、糸を切った数より多い。~
 それも何も、邪険でするのではないのです。……私が、な、まだその前に、鳥羽&size(9){とば};の廓&size(9){くるわ};に居ました時、……」~
「ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。」~
 と弥次郎兵衛がフト聞入れた。~
「いえ、私はな、やっぱりお伊勢なんですけれど、父&size(9){おとっ};さんが死&size(9){な};くなりましてから、継母&size(9){ままはは};に売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のように違います。――お客の言うことを聞かぬ言うて、陸&size(9){おか};で悪くば海で稼げって、崕&size(9){がけ};の下の船着&size(9){ふなつき};から、夜になると、男衆に捉&size(9){つかま};えられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のように浮いて歩行&size(9){ある};いて、寂&size(9){しん};とした海の上で……悲しい唄を唄います。そしてお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しゅうなる禁厭&size(9){まじない};じゃ、お茶挽&size(9){ちゃひ};いた罰、と云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、汐&size(9){しお};の干た巌&size(9){いわ};へ上げて、巌の裂目へ俯向&size(9){うつむ};けに口をつけさして、(こいし、こいし。};と呼ばせます。若い衆は舳(へさき};に待ってて、声が切れると、栄螺(さざえ};の殻をぴしぴしと打着(ぶッつ};けますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私のそれは、師走から、寒の中(うち};で、八百八島(やしま};あると言う、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のような、あの、その上で、(こいし、こいし。)って、唇の、しびれるばかり泣いている。咽喉&size(9){のど};は裂け、舌は凍って、潮&size(9){しお};を浴びた裙&size(9){すそ};から冷え通って、正体がなくなる処を、貝殻で引掻&size(9){ひっか};かれて、やっと船で正気が付くのは、灯&size(9){あかり};もない、何の船やら、あの、まあ、鬼の支&size(9){つ};いた棒見るような帆柱の下から、皮の硬&size(9){こわ};い大&size(9){おおき};な手が出て、引掴&size(9){ひッつか};んで抱込みます。~
 空には蒼&size(9){あお};い星ばかり、海の水は皆黒い。暗&size(9){やみ};の夜の血の池に落ちたようで、ああ、生きているか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしゅうござんす。」~
 と翳&size(9){かざ};す扇の利剣に添えて、水のような袖をあて、顔を隠したその風情。人は声なくして、ただ、ちりちりと、蝋燭&size(9){ろうそく};の涙&size(9){なんだ};白く散る。~
 この物語を聞く人々、いかに日和山の頂より、志摩の島々、海の凪&size(9){なぎ};、霞の池に鶴の舞う、あの、麗朗&size(9){うららか};なる景色を見たるか。~
~
       十九~
~
「泣いてばかりいますから、気の荒いお船頭が、こんな泣虫を買うほどなら、伊良子崎の海鼠&size(9){なまこ};を蒲団&size(9){ふとん};で、弥島&size(9){やしま};の烏賊&size(9){いか};を遊ぶって、どの船からも投出される。~
 また、あの巌&size(9){いわ};に追上げられて、霜風の間々&size(9){あいあい};に、(こいし、こいし。};と泣くのでござんす。~
 手足は凍って貝になっても、(こいし)と泣くのが本望な。巌の裂目を沖へ通って、海の果&size(9){はて};まで響いて欲しい。もう船も去&size(9){い};ね、潮も来い。……そのままで石になってしまいたいと思うほど、お客様、私は、あの、」~
 と乱れた襦袢の袖を銜&size(9){くわ};えた、水紅色&size(9){ときいろ};映る瞼&size(9){まぶた};のあたり、ほんのりと薄くして、~
「心でばかり長い事、思っておりまする人があって。……芸も容色&size(9){きりょう};もないものが、生意気を云うようですが、……たとい殺されても、死んでもと、心願掛けておりました。~
 ある晩も、やっぱり蒼&size(9){あお};い灯の船に買われて、その船頭衆の言う事を肯&size(9){き};かなかったので、こっちの船へ突返されると、艫&size(9){とも};の処に行火&size(9){あんか};を跨&size(9){また};いで、どぶろくを飲んでいた、私を送りの若い衆&size(9){しゅ};がな、玉代&size(9){ぎょくだい};だけ損をしやはれ、此方衆&size(9){こなたしゅう};の見る前で、この女を、海士&size(9){あま};にして慰もうと、月の良い晩でした。~
 胴の間で着物を脱がして、膚&size(9){はだ};の紐へなわを付けて、倒&size(9){さかさま};に海の深みへ沈めます。ずんずんずんと沈んでな、もう奈落かと思う時、釣瓶&size(9){つるべ};のようにきりきりと、身体&size(9){からだ};を車に引上げて、髪の雫&size(9){しずく};も切らせずに、また海へ突込&size(9){つッこ};みました。~
 この時な、その繋&size(9){かか};り船に、長崎辺の伯父が一人乗込んでいると云うて、お小遣&size(9){こづかい};の無心に来て、泊込んでおりました、二見から鳥羽がよいの馬車に、馭者&size(9){ぎょしゃ};をします、寒中、襯衣&size(9){しゃつ};一枚に袴服&size(9){ずぼん};を穿&size(9){は};いた若い人が、私のそんなにされるのが、あんまり可哀相な、とそう云うて、伊勢へ帰って、その話をしましたので、今、あの申しました。……~
 この間までおりました、古市の新地&size(9){しんまち};の姉さんが、随分なお金子&size(9){かね};を出して、私を連れ出してくれましたの。~
 それでな、鳥羽の鬼へも面当&size(9){つらあて};に、芸をよく覚えて、立派な芸子になれやッて、姉さんが、そうやって、目に涙を一杯ためて、ぴしぴし撥&size(9){ばち};で打&size(9){ぶ};ちながら、三味線を教えてくれるんですが、どうした因果か、ちっとも覚えられません。~
 人さしと、中指と、ちょっとの間を、一日に三度ずつ、一週間も鳴らしますから、近所隣も迷惑して、御飯もまずいと言うのですえ。~
 また月の良い晩でした。ああ、今の御主人が、親切なだけなお辛い。……何の、身体&size(9){からだ};の切ない、苦しいだけは、生命&size(9){いのち};が絶えればそれで済む。いっそまた鳥羽へ行って、あの巌&size(9){いわ};に掴&size(9){つか};まって、(こいし、こいし、)と泣こうか知らぬ、膚の紐になわつけて、海へ入れられるが気安いような、と島も海も目に見えて、ふらふらと月の中を、千鳥が、冥土&size(9){めいど};の使いに来て、連れて行かれそうに思いました。……格子前&size(9){さき};へ流しが来ました。~
 新町の月影に、露の垂りそうな、あの、ちらちら光る撥音&size(9){ばちおと};で、~
……博多帯しめ、筑前絞り――~
 と、何とも言えぬ好&size(9){い};い声で。~
(へい、不調法、お喧&size(9){やかま};しゅう、)って、そのまま行&size(9){ゆ};きそうにしたのです。~
(ああ、身震&size(9){みぶるい};がするほど上手&size(9){うま};い、あやかるように拝んで来な、それ、お賽銭&size(9){さいせん};をあげる気で。)~
 と滝縞&size(9){たきじま};お召&size(9){めし};の半纏&size(9){はんてん};着て、灰に袖のつくほどに、しんみり聞いてやった姉さんが、長火鉢の抽斗&size(9){ひきだし};からお宝を出して、キイと、あの繻子&size(9){しゅす};が鳴る、帯へ挿&size(9){はさ};んだ懐紙に捻&size(9){ひね};って、私に持たせなすったのを、盆に乗せて、戸を開けると、もう一二間&size(9){けん};行きなさいます。二人の間にある月をな、影で繋&size(9){つな};いで、ちゃっと行って、~
(是喃&size(9){こいし};。)と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思わずその手に縋&size(9){すが};って、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方があるものを、切&size(9){せ};めてその指一本でも、私の身体&size(9){からだ};についたらばと、つい、おろおろと泣いたのです。~
 頬被&size(9){ほおかむり};をしていなすった。あのその、私の手を取ったまま――黙って、少し脇の方へ退&size(9){の};いた処で、(何を泣く、)って優しい声で、その門附が聞いてくれます。もう恥も何も忘れてな、その、あの、どうしても三味線の覚えられぬ事を話しました。」~
~
       二十~
~
「よく聞いて、しばらく熟&size(9){じっ};と顔を見ていなさいました。~
(芸事の出来るように、神へ願懸&size(9){がんがけ};をすると云って、夜の明けぬ内、外へ出ろ。鼓ヶ嶽の裾にある、雑樹林の中へ来い。三日とも思うけれど、主人には、七日と頼んで。すぐ、今夜の明方から。……分ったか。若い女の途中が危&size(9){あぶな};い、この入口まで来て待ってやる、化&size(9){ばか};されると思うな、夢ではない。……)~
 とお言いのなり、三味線を胸に附着&size(9){くッつ};けて、フイと暗がりへ附着いて、黒塀を去&size(9){い};きなさいます。……~
 その事は言わぬけれど、明方の三時から、夜の白むまで垢離&size(9){こり};取って、願懸けすると頼んだら、姉さんは、喜んで、承知してくれました。~
 殺されたら死ぬ気でな、――大恩のある御主人の、この格子戸も見納めか、と思うようで、軒下へ出て振返って、門&size(9){かど};を視&size(9){なが};めて、立っているとな。~
(おいで、)~
 と云って、突然&size(9){いきなり};、背後&size(9){うしろ};から手を取りなすった、門附のそのお方。~
 私はな、よう覚悟はしていたが、天狗様に攫&size(9){さら};われるかと思いましたえ。~
 あとは夢やら現&size(9){うつつ};やら。明方内へ帰ってからも、その後&size(9){あと};は二日も三日もただ茫&size(9){ぼう};としておりましたの。……鼓ヶ嶽の松風と、五十鈴川の流&size(9){ながれ};の音と聞えます、雑木の森の暗い中で、その方に教わりました。……舞も、あの、さす手も、ひく手も、ただ背後&size(9){うしろ};から背中を抱いて下さいますと、私の身体&size(9){からだ};が、舞いました。それだけより存じません。~
 もっとも、私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、その身の上も話しました。その方は不思議な事で、私とは敵&size(9){かたき};のような中だ事も、いろいろ入組んではおりますけれど、鼓ヶ嶽の裾の話は、誰にも言うな、と口留めをされました。何んにも話がなりません。~
 五日目に、もう可いから、これを舞って座敷をせい。芸なし、とは言うまい、ッて、お記念&size(9){かたみ};なり、しるしなりに、この舞扇を下さいました。」~
 と袖で胸へしっかと抱いて、ぶるぶると肩を震わした、後毛&size(9){おくれげ};がはらりとなる。~
 捻平溜息&size(9){ためいき};をして頷&size(9){うなず};き、~
「いや、よく分った。教え方も、習い方も、話されずとよく分った。時に、山田に居て、どうじゃな、その舞だけでは勤まらなんだか。」~
「はい、はじめて謡&size(9){うた};いました時は、皆&size(9){みんな};が、わっと笑うやら、中には恐&size(9){おそろし};い怖&size(9){こわ};いと云う人もござんす。なぜ言うと、五日ばかり、あの私がな、天狗様に誘い出された、と風説&size(9){うわさ};したのでござんすから。」~
「は、いかにも師匠が魔でなくては、その立方は習われぬわ。むむ、で、何かの、伊勢にも謡&size(9){うたい};うたうものの、五人七人はあろうと思うが、その連中には見せなんだか。」~
「ええ、物好&size(9){ものずき};に試すって、呼んだ方もありましたが、地をお謡いなさる方が、何じゃやら、ちっとも、ものにならぬと言って、すぐにお留&size(9){や};めなさいましたの。」~
「ははあ、いや、その足拍子を入れられては、やわな謡&size(9){うたい};は断&size(9){ちぎ};れて飛ぶじゃよ。ははははは、唸&size(9){うな};る連中粉灰&size(9){こっぱい};じゃて。かたがたこの桑名へ、住替えとやらしたのかの。」~
「狐狸や、いや、あの、吠&size(9){ほ};えて飛ぶ処は、梟&size(9){ふくろ};の憑物&size(9){つきもの};がしよった、と皆気違&size(9){きちがい};にしなさいます。姉さんも、手放すのは可哀相や言って下さいましたけれど、……周囲&size(9){まわり};の人が承知しませず、……この桑名の島屋とは、行&size(9){ゆき};かいはせぬ遠い中でも、姉さんの縁続きでござんすから、預けるつもりで寄越&size(9){よこ};されましたの。」~
「おお、そこで、また辛い思&size(9){おもい};をさせられるか。まずまず、それは後でゆっくり聞こう。……そのお娘&size(9){こ};、私&size(9){わし};も同一&size(9){おんなじ};じゃ。天魔でなくて、若い女が、術&size(9){わざ};をするわと、仰天したので、手を留めて済まなんだ。さあ、立直して舞うて下さい。大儀じゃろうが一さし頼む。私&size(9){わし};も久&size(9){ひさし};ぶりで可懐&size(9){なつか};しい、御身&size(9){おんみ};の姿で、若師匠の御意を得よう。」~
 と言&size(9){ことば};の中&size(9){うち};に、膝で解く、その風呂敷の中を見よ。土佐の名手が画&size(9){えが};いたような、紅&size(9){あか};い調&size(9){しらべ};は立田川&size(9){たつたがわ};、月の裏皮、表皮。玉の砧&size(9){きぬた};を、打つや、うつつに、天人も聞けかしとて、雲井、と銘&size(9){めい};ある秘蔵の塗胴&size(9){ぬりどう};。老&size(9){おい};の手捌&size(9){てさば};き美しく、錦&size(9){にしき};に梭&size(9){ひ};を、投ぐるよう、さらさらと緒を緊&size(9){し};めて、火鉢の火に高く翳&size(9){かざ};す、と……呼吸&size(9){いき};をのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を支&size(9){つ};いた。~
 芸の威厳は争われず、この捻平を誰とかする、七十八歳の翁&size(9){おきな};、辺見秀之進。近頃孫に代&size(9){よ};を譲って、雪叟&size(9){せっそう};とて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人である。~
 いざや、小父者&size(9){おじご};は能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、すなわちこれ。~
 この二人は、侯爵&size(9){こうしゃく};津の守&size(9){かみ};が、参宮の、仮の館&size(9){やかた};に催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。~
~
       二十一~
~
 さて、饂飩屋&size(9){うどんや};では門附の兄哥&size(9){あにい};が語り次ぐ。~
「いや、それから、いろいろ勿体つける所作があって、やがて大坊主が謡出&size(9){うたいだ};した。~
 聞くと、どうして、思ったより出来ている、按摩鍼&size(9){はり};の芸ではない。……戸外&size(9){おもて};をどッどと吹く風の中へ、この声を打撒&size(9){ぶちま};けたら、あのピイピイ笛ぐらいに纏&size(9){まと};まろうというもんです。成程、随分夥間&size(9){なかま};には、此奴&size(9){こいつ};に(的等。)扱いにされようというのが少くない。~
 が、私に取っちゃ小敵&size(9){しょうてき};だった。けれども芸は大事です、侮&size(9){あなど};るまい、と気を緊&size(9){し};めて、そこで、膝を。」~
 と坐直&size(9){すわりなお};ると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の衣紋&size(9){えもん};が緊&size(9){しま};る。~
「……この膝を丁&size(9){ちょう};と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常&size(9){ただ};んじゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小児&size(9){こども};の時から、抱かれて習った相伝だ。対手&size(9){あいて};の節の隙間を切って、伸縮&size(9){のびちぢ};みを緊&size(9){し};めつ、緩めつ、声の重味を刎上&size(9){はねあ};げて、咽喉&size(9){のど};の呼吸を突崩す。寸法を知らず、間拍子の分らない、まんざらの素人は、盲目聾&size(9){めくらつんぼ};で気にはしないが、ちと商売人の端くれで、いささか心得のある対手&size(9){あいて};だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引掛&size(9){ひっかか};って、節が不状&size(9){ぶざま};に蹴躓&size(9){けつまず};く。三味線の間&size(9){あい};も同一&size(9){おんなじ};だ。どうです、意気なお方に釣合わぬ……ン、と一ツ刎&size(9){は};ねないと、野暮な矢の字が、とうふにかすがい、糠&size(9){ぬか};に釘でぐしゃりとならあね。~
 さすがに心得のある奴だけ、商売人にぴたりと一ツ、拍子で声を押伏&size(9){おっぷ};せられると、張った調子が直ぐにたるんだ。思えば余計な若気の過失&size(9){あやまち};、こっちは畜生の浅猿&size(9){あさま};しさだが、対手&size(9){あいて};は素人の悲しさだ。~
 あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝&size(9){つ};と汗を流し、死声&size(9){しにごえ};を振絞ると、頤&size(9){あご};から胸へ膏&size(9){あぶら};を絞った……あのその大きな唇が海鼠&size(9){なまこ};を干したように乾いて来て、舌が硬&size(9){こわ};って呼吸&size(9){いき};が発奮&size(9){はず};む。わなわなと震える手で、畳を掴&size(9){つか};むように、うたいながら猪口&size(9){ちょこ};を拾おうとする処、ものの本をまだ一枚とうたわぬ前&size(9){さき};、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下腹&size(9){したっぱら};へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。~
 はっと火のような呼吸&size(9){いき};を吐く、トタンに真俯向&size(9){まうつむ};けに突伏&size(9){つッぷ};す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗&size(9){な};めた。~
(先生、御病気か。)~
 って私あ莞爾&size(9){にっこり};したんだ。~
(是非聞きたい、平にどうか。宗山、この上に聾&size(9){つんぼ};になっても、貴下&size(9){あなた};のを一番、聞かずには死なれぬ。)~
 と拳&size(9){こぶし};を握って、せいせい言ってる。~
(按摩さん。)~
 と私は呼んで、~
(尾上町の藤屋まで、どのくらい離れている。)~
(何んで、)~
 と聞く。~
(間によっては声が響く。内証で来たんだ。……藤屋には私の声が聞かしたくない、叔父が一人寝てござるんだ。勇士は霜の気勢&size(9){けはい};を知るとさ――たださえ目敏&size(9){めざと};い老人&size(9){としより};が、この風だから寝苦しがって、フト起きてでもいるとならない、祝儀は置いた。帰るぜ。)~
 ト宗山が、凝&size(9){じっ};と塞&size(9){ふさ};いだ目を、ぐるぐると動かして、~
(暫&size(9){しばら};く、今の拍子を打ちなされ……古市から尾上町まで声が聞えようか、と言いなされる、御大言、年のお少&size(9){わか};さ。まだ一度&size(9){ひとたび};も声は聞かず、顔はもとより見た事もなけれども……当流の大師匠、恩地源三郎どの養子と聞く……同じ喜多八氏の外にはあるまい。さようでござろう、恩地、)~
 と私の名をちゃんと言う。~
 ああ、酔った、」~
 と杯をばたりと落した。~
「饒舌&size(9){しゃべ};って悪い私の名じゃない。叔父に済まない。二人とも、誰にも言うな。……」~
 と鷹揚&size(9){おうよう};で、按摩と女房に目をあしらい。~
「私は羽織の裾を払って、~
(違ったような、当ったようだ、が、何しろ、東京の的等の一人だ。宗家の宗、本山の山、宗山か。若布&size(9){わかめ};の附焼でも土産に持って、東海道を這&size(9){は};い上れ。恩地の台所から音信&size(9){おとず};れたら、叔父には内証で、居候の腕白が、独楽&size(9){こま};を廻す片手間に、この浦船でも教えてやろう。)~
 とずっと立つ。~
~
       二十二~
~
「痘瘡&size(9){あばた};の中に白眼&size(9){しろまなこ};を剥&size(9){む};いて、よたよたと立上って、憤&size(9){いきどお};った声ながら、~
(可懐&size(9){なつかし};いわ、若旦那、盲人の悲しさ顔は見えぬ。触らせて下され、つかまらせて下され、一撫&size(9){ひとな};で、撫でさせて下され。)~
 と言う。~
 いや、撫られて堪&size(9){たま};りますか。~
 摺抜&size(9){すりぬ};けようとするんだがね、六畳の狭い座敷、盲目&size(9){めくら};でも自分の家&size(9){うち};だ。~
 素早く、階子段&size(9){はしごだん};の降口を塞&size(9){ふさ};いで、むずと、大手を拡げたろう。……影が天井へ懸&size(9){かか};って、充満&size(9){いっぱい};の黒坊主が、汗膏&size(9){あせあぶら};を流して撫じょうとする。~
 いや、その嫉妬&size(9){しっと};執着&size(9){しゅうぢゃく};の、険な不思議の形相が、今もって忘れられない。~
(可厭&size(9){いや};だ、可厭だ、可厭だ。)と、こっちは夢中に出ようとする、よける、留める、行違うで、やわな、かぐら堂の二階中みしみしと鳴る。風は轟々&size(9){ごうごう};と当る。ただ黒雲に捲&size(9){ま};かれたようで、可恐&size(9){おそろ};しくなった、凄&size(9){すご};さは凄し。~
 衝&size(9){つ};と、引潜&size(9){ひっくぐ};って、ドンと飛び摺りに、どどどと駈&size(9){か};け下りると、ね。~
(袖&size(9){そで};や、止めませい。)~
 と宗山が二階で喚&size(9){わめ};いた。皺枯声&size(9){しわがれごえ};が、風でぱっと耳に当ると、三四人立騒ぐ女の中から、すっと美しく姿を抜いて、格子を開けた門口&size(9){かどぐち};で、しっかり掴&size(9){つか};まる。吹きつけて揉&size(9){も};む風で、颯&size(9){さっ};と紅&size(9){あか};い褄&size(9){つま};が搦&size(9){から};むように、私に縋&size(9){すが};ったのが、結綿&size(9){ゆいわた};の、その娘です。~
 背中を揉んでた、薄茶を出した、あの影法師の妾&size(9){めかけ};だろう。~
 ものを言う清&size(9){すずし};い、張&size(9){はり};のある目を上から見込んで、構うものか、行きがけだ。~
(可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の玩弄物&size(9){おもちゃ};にされるな。)~
 と言捨てに突放&size(9){つッぱな};す。~
(あれ。)と云う声がうしろへ、ぱっと吹飛ばされる風に向って、砂塵&size(9){しゃじん};の中へ、や、躍込むようにして一散に駈&size(9){か};けて返った。~
 後&size(9){のち};に知った、が、妾じゃない。お袖と云うその可愛いのは、宗山の娘だったね。それを娘と知っていたら、いや、その時だって気が付いたら、按摩が親の仇敵&size(9){かたき};でも、私&size(9){わっし};あ退治るんじゃなかったんだ。」~
 と不意にがッくりと胸を折って俯向&size(9){うつむ};くと、按摩の手が、肩を辷&size(9){すべ};って、ぬいと越す。……その袖の陰で、取るともなく、落した杯を探りながら、~
「もしか、按摩が尋ねて来たら、堅く居&size(9){お};らん、と言え、と宿のものへ吩附&size(9){いいつ};けた。叔父のすやすやは、上首尾で、並べて取った床の中へ、すっぽり入って、引被&size(9){ひっかぶ};って、可&size(9){いい};心持に寝たんだが。~
 ああ、寝心の好&size(9){い};い思いをしたのは、その晩きりさ。~
 なぜッて、宗山がその夜の中&size(9){うち};に、私に辱&size(9){はずかし};められたのを口惜&size(9){くや};しがって、傲慢&size(9){ごうまん};な奴だけに、ぴしりと、もろい折方、憤死してしまったんだ。七代まで流儀に祟&size(9){たた};る、と手探りでにじり書&size(9){がき};した遺書&size(9){かきおき};を残してな。死んだのは鼓ヶ嶽の裾だった。あの広場&size(9){ひろっぱ};の雑樹へ下&size(9){さが};って、夜&size(9){よ};が明けて、やッと小止&size(9){こやみ};になった風に、ふらふらとまだ動いていたとさ。~
 こっちは何にも知らなかろう、風は凪&size(9){な};ぐ、天気は可&size(9){よし};。叔父は一段の上機嫌。……古市を立って二見へ行った。朝の中&size(9){うち};、朝日館と云うのへ入って、いずれ泊る、……先へ鳥羽へ行って、ゆっくりしようと、直ぐに車で、上の山から、日の出の下、二見の浦の上を通って、日和山を桟敷&size(9){さじき};に、山の上に、海を青畳&size(9){あおだたみ};にして二人で半日。やがて朝日館へ帰る、……とどうだ。~
 旅籠&size(9){はたご};の表は黒山の人だかりで、内の廊下もごった返す。大袈裟&size(9){おおげさ};な事を言うんじゃない。伊勢から私たちに逢いに来たのだ。按摩の変事と遺書&size(9){かきおき};とで、その日の内に国中へ知れ渡った。別にその事について文句は申さぬ。芸事で宗山の留&size(9){とどめ};を刺したほどの豪&size(9){えら};い方々、是非に一日、山田で謡&size(9){うたい};が聞かして欲しい、と羽織袴&size(9){はおりはかま};、フロックで押寄せたろう。~
 いや、叔父が怒るまいか。日本一の不所存もの、恩地源三郎が申渡す、向後一切&size(9){いっせつ};、謡を口にすること罷成&size(9){まかりな};らん。立処&size(9){たちどころ};に勘当だ。さて宗山とか云う盲人、己&size(9){おの};が不束&size(9){ふつつか};なを知って屈死した心、かくのごときは芸の上の鬼神&size(9){おにがみ};なれば、自分は、葬式&size(9){とむらい};の送迎&size(9){おくりむかい};、墓に謡を手向きょう、と人々と約束して、私はその場から追出された。~
 あとの事は何も知らず、その時から、津々浦々をさすらい歩行&size(9){ある};く、門附の果敢&size(9){はかな};い身の上。」~
~
       二十三~
~
「名古屋の大須の観音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一挺&size(9){ちょう};、古道具屋の店にあったを工面&size(9){くめん};したのがはじまりで、一銭二銭、三銭じゃ木賃で泊めぬ夜&size(9){よ};も多し、日数をつもると野宿も半分、京大阪と経&size(9){へ};めぐって、西は博多まで行ったっけ。~
 何んだか伊勢が気になって、妙に急いで、逆戻りにまた来た。……~
 私が言ったただ一言&size(9){ひとこと};、(人のおもちゃになるな。)と言ったを、生命&size(9){いのち};がけで守っている。……可愛い娘に逢ったのが一生の思出&size(9){おもいで};だ。~
 どうなるものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩って、女房&size(9){おかみ};さん。」~
 と呼びかけた。~
「お前さんじゃないけれど、深切な人があった。やっと足腰が立ったと思いねえ。上方筋は何でもない、間違って謡を聞いても、お百姓が、(風呂が沸いた)で竹法螺&size(9){たけぼら};吹くも同然だが、東&size(9){あずま};へ上って、箱根の山のどてっぱらへ手が掛&size(9){かか};ると、もう、な、江戸の鼓が響くから、どう我慢がなるものか! うっかり謡をうたいそうで危くってならないからね、今切&size(9){いまぎれ};は越せません。これから大泉原&size(9){おおいずみはら};、員弁&size(9){いなべ};、阿下岐&size(9){あげき};をかけて、大垣街道。岐阜へ出たら飛騨越&size(9){ひだごえ};で、北国&size(9){ほっこく};筋へも廻ろうかしら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ来たのが昨日&size(9){きのう};だった。~
 その今夜はどうだ。不思議な人を二人見て、遣切れなくなってこの家&size(9){うち};へ飛込んだ。が、流&size(9){ながし};の笛が身体&size(9){からだ};に刺&size(9){ささ};る。いつもよりはなお激しい。そこへまた影を見た。美しい影も見れば、可恐&size(9){おそろ};しい影も見た。ここで按摩が殺す気だろう。構うもんか、勝手にしろ、似たものを引&size(9){ひき};つけて、とそう覚悟して按摩さん、背中へ掴&size(9){つかま};ってもらったんだ。~
 が、筋を抜かれる、身を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)&size(9){むし};られる、私が五体は裂けるようだ。」~
 とまた差俯向&size(9){さしうつむ};く肩を越して、按摩の手が、それも物に震えながら、はたはたと戦&size(9){おのの};きながら、背中に獅噛&size(9){しが};んだ面&size(9){つら};の附着&size(9){くッつ};く……門附の袷&size(9){あわせ};の褪&size(9){あ};せた色は、膚薄&size(9){はだうす};な胸を透かして、動悸&size(9){どうき};が筋に映るよう、あわれ、博多の柳の姿に、土蜘蛛&size(9){つちぐも};一つ搦&size(9){から};みついたように凄&size(9){すご};く見える。~
「誰や!」~
 と、不意に吃驚&size(9){びっくり};したような女房の声、うしろ見られる神棚の灯&size(9){ともし};も暗くなる端に、べろべろと紙が濡れて、門&size(9){かど};の腰障子に穴があいた。それを見咎&size(9){みとが};めて一つ喚&size(9){わめ};く、とがたがたと、跫音&size(9){あしおと};高く、駈&size(9){か};け退&size(9){の};いたのは御亭どの。~
 いや、困った親仁&size(9){おやじ};が、一人でない、薪雑棒&size(9){まきざっぽう};、棒千切&size(9){ぼうちぎ};れで、二人ばかり、若いものを連れていた。~
~
「御老体、」~
 雪叟が小鼓を緊&size(9){し};めたのを見て……こう言って、恩地源三郎が儼然&size(9){げんぜん};として顧みて、~
「破格のお附合い、恐&size(9){おそれ};多いな。」~
 と膝に扇を取って会釈をする。~
「相変らず未熟でござる。」~
 と雪叟が礼を返して、そのまま座を下へおりんとした。~
「平に、それは。」~
「いや、蒲団の上では、お流儀に失礼じゃ。」~
「は、その娘&size(9){こ};の舞が、甥&size(9){おい};の奴の俤&size(9){おもかげ};ゆえに、遠慮した、では私も、」~
 と言った時、左右へ、敷物を斉&size(9){ひと};しく刎&size(9){は};ねた。~
「嫁女、嫁女、」~
 と源三郎、二声呼んで、~
「お三重さんか、私は嫁と思うぞ。喜多八の叔父源三郎じゃ、更&size(9){あらた};めて一さし舞え。」~
 二人の名家が屹&size(9){きっ};と居直る。~
 瞳の動かぬ気高い顔して、恍惚&size(9){うっとり};と見詰めながら、よろよろと引退&size(9){ひきさが};る、と黒髪うつる藤紫、肩も腕&size(9){かいな};も嬌娜&size(9){なよやか};ながら、袖に構えた扇の利剣、霜夜に声も凜々&size(9){りんりん};と、~
「……引上げたまえと約束し、一つの利剣を抜持って……」~
 肩に綾&size(9){あや};なす鼓の手影、雲井の胴に光さし、艶&size(9){つや};が添って、名誉が籠&size(9){こ};めた心の花に、調&size(9){しらべ};の緒の色、颯&size(9){さっ};と燃え、ヤオ、と一つ声が懸&size(9){かか};る。~
「あっ、」~
 とばかり、屹&size(9){きっ};と見据えた――能楽界の鶴なりしを、雲隠れつ、と惜&size(9){おし};まれた――恩地喜多八、饂飩屋の床几&size(9){しょうぎ};から、衝&size(9){つ};と片足を土間に落して、~
「雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!」と身を揉&size(9){も};んだ、胸を切&size(9){せ};めて、慌&size(9){あわただ};しく取って蔽&size(9){おお};うた、手拭に、かっと血を吐いたが、かなぐり棄てると、右手&size(9){めて};を掴&size(9){つか};んで、按摩の手をしっかと取った。~
「祟&size(9){たた};らば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の門&size(9){かど};まで来い。もう一度、若旦那が聞かしてやろう。」~
 と、引立&size(9){ひった};てて、ずいと出た。~
「(源三郎)……かくて竜宮に至りて宮中を見れば、その高さ三十丈の玉塔に、かの玉をこめ置&size(9){おき};、香花&size(9){こうげ};を備え、守護神は八竜並居&size(9){なみい};たり、その外悪魚鰐&size(9){わに};の口、遁&size(9){のが};れがたしや我&size(9){わが};命、さすが恩愛の故郷&size(9){ふるさと};のかたぞ恋しき、あの浪のあなたにぞ……」~
 その時、漲&size(9){みなぎ};る心の張&size(9){はり};に、島田の元結&size(9){もとゆい};ふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に揺&size(9){ゆら};めき、畳の海は裳&size(9){もすそ};に澄んで、塵&size(9){ちり};も留&size(9){とど};めぬ舞振&size(9){まいぶり};かな。~
「(源三郎)……我子&size(9){わがこ};は有&size(9){あ};らん、父大臣もおわすらむ……」~
 と声が幽&size(9){かす};んで、源三郎の地&size(9){じ};謡う節が、フト途絶えようとした時であった。~
 この湊屋の門口で、爽&size(9){さわやか};に調子を合わした。……その声、白き虹&size(9){にじ};のごとく、衝&size(9){つ};と来て、お三重の姿に射&size(9){さ};した。~
「(喜多八)……さるにてもこのままに別れ果&size(9){はて};なんかなしさよと、涙ぐみて立ちしが……」~
「やあ、大事な処、倒れるな。」~
 と源三郎すっと座を立ち、よろめく三重の背&size(9){せな};を支えた、老&size(9){おい};の腕&size(9){かいな};に女浪&size(9){めなみ};の袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、颯&size(9){さっ};と翳&size(9){かざ};すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、灯&size(9){ともしび};を白&size(9){しら};めて舞うのである。~
 舞いも舞うた、謡いも謡う。はた雪叟が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大鼓&size(9){おおかわ};の拍子を添え、川浪近くタタと鳴って、太鼓の響&size(9){ひびき};に汀&size(9){みぎわ};を打てば、多度山&size(9){たどさん};の霜の頂、月の御在所ヶ嶽&size(9){たけ};の影、鎌ヶ嶽、冠&size(9){かむり};ヶ嶽も冠着て、客座に並ぶ気勢&size(9){けはい};あり。~
 小夜&size(9){さよ};更けぬ。町凍&size(9){い};てぬ。どことしもなく虚空&size(9){おおぞら};に笛の聞えた時、恩地喜多八はただ一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼&size(9){あお};く、影を濃く立って謡うと、月が棟高く廂&size(9){ひさし};を照らして、渠&size(9){かれ};の面&size(9){おもて};に、扇のような光を投げた。舞の扇と、うら表に、そこでぴたりと合うのである。~
「(喜多八)……また思切って手を合せ、南無&size(9){なむ};や志渡寺&size(9){しどじ};の観音薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)&size(9){さった};の力をあわせてたびたまえとて、大悲の利剣を額にあて、竜宮に飛び入れば、左右へはっとぞ退&size(9){の};いたりける、」~
 と謡い澄ましつつ、~
「背&size(9){せな};を貸せ、宗山。」と言うとともに、恩地喜多八は疲れた状&size(9){さま};して、先刻&size(9){さっき};からその裾に、大きく何やら踞&size(9){うずく};まった、形のない、ものの影を、腰掛くるよう、取って引敷&size(9){ひっし};くがごとくにした。~
 路一筋白くして、掛行燈&size(9){かけあんどん};の更けたかなたこなた、杖を支&size(9){つ};いた按摩も交って、ちらちらと人立ちする。~
明治四十三(一九一〇)年一月~
~
~
----
~
~
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房~
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行~
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店~
   1942(昭和17)年7月刊行開始~
※底本で句点が抜けている箇所は親本を参照して補いました。~
※誤植を疑った箇所はちくま日本文学全集を参照しました。~
入力:門田裕志~
校正:砂場清隆~
2002年1月9日公開~
2005年9月25日修正~
青空文庫作成ファイル:

hisanoyu dharmaya secondlife

トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS